メインコンテンツへスキップ
見出し画像

檸檬舎奇譚|第三弾 記憶の本棚篇| 第十三話(第三弾完結):これだったはずなのに――『ごん狐』と記憶の表紙

    ※本作は実在の文学作品・作家をモチーフにしたフィクションです。

    外では雨が降っている。

    午前中から降り続いていた雨は、夕方になっても弱まる気配がなかった。檸檬舎の硝子戸には、雨粒が細く流れている。

    私はカウンターの奥で、先日買い取った児童文学の棚を整理していた。古い童話集や、端の焼けた文庫本、背表紙の色が褪せた全集。その中に『ごん狐』が何冊か混ざっていた。同じ話のはずなのに、時代や出版社によって表紙も挿絵もずいぶん違うものだと思いながら棚へ戻していた時、硝子戸が控えめに鳴った。

    入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
    傘を閉じる手つきが、どこかせわしなく見えた。

    1. 探している本

    「すみません」

    女性はそう言って、店内をゆっくりと見回した。

    「古い児童書も、ありますか。……『ごん狐』を探しているんです」

    「新美南吉の」

    「はい」

    女性は小さく頷いた。

    「息子に読ませたくて」

    そこまでは、よくある話だった。
    けれど女性は、困惑したように眉を寄せた。

    「本屋さんでいくつか見たんですけど、なんだか違っていて。話は同じだと思うんです。ごんが出てきて、兵十が出てきて、最後に……」

    そこで言葉が止まった。

    言わなくても、誰もがその先を知っている。

    「昔読んだ本の表紙を覚えているんです」と女性は続けた。

    「黄色っぽい表紙で、もっと暗い絵でした。ごんが、そんなに可愛くなかったんです。もっと痩せていて、寂しそうで」

    私は児童文学の棚から、何冊か『ごん狐』の入った本を抜き出した。単独の絵本、教科書に近い版、いくつかの童話がまとめられた文庫。

    カウンターの上に並べると、表紙だけでもずいぶん印象が違った。

    女性は一冊ずつ、慎重に手に取っていった。

    「これは違います」

    「これも、違う気がします」

    「これは……近いです。でも、違う」

    最後の一冊を手に取った時、女性の指が止まった。

    「これ、たぶん、これだった気がします」

    2. 同じはずの本

    その本は、古い童話集だった。

    表紙は確かに黄色がかっていた。端が擦れて、角が丸く潰れている。子ども向けにしてはあまり明るくない色彩で、痩せた狐が、少し横を向いていた。

    「これだと思うんです。でも、何かちょっと違う気もして」

    女性はそう言った。

    思ったより嬉しそうではなかった。

    中を開く許可を求めると、彼女は確かめるように指で文字をなぞりながら、頁をめくっていった。

    雨音が、店内に細く続いている。

    しばらくして、彼女の指が止まった。

    頁の終盤にある、誰もが知っているはずのあの一行を見つめたまま、しばらく動かなかった。

    『「ごん、お前だったのか。」』

    やがて、彼女は静かに本を閉じ、首を傾げた。

    「違うんです。表紙はこれなのに、何かが違う気がするんです。昔読んだ『ごん狐』って、もう少し、何かが残った気がするんです」

    「残った?」

    「はい。最後が悲しいのは覚えています。でも、それだけじゃなくて」

    女性はもう一度だけ本を開き、少し手前の頁を指先でなぞった。

    『ごんは、物置の口へ、栗をそつと置いて、引きかえしました。』

    「ごんは、悪いことをしたから償おうとしたんですよね。でも、今読むと……」

    女性はそこで黙った。

    外では雨が降っている。

    私はカウンターの奥で、冷めかけた珈琲を見つめた。

    彼女の視線の先にある文字は、届かない荷物の数を、ただ静かに数え上げているようだった。

    3. 伝わらなかったもの

    「悲しいだけなら、別に読ませなくてもいいんです」

    女性は本をそっと撫でた。

    「でも、もう一度自分で読んでみたかったんです」

    「今読んで、わかりましたか」

    女性はすぐには答えなかった。

    カウンターの上に置かれた古い表紙を見つめている。

    「わかった、というより」

    彼女は言った。

    「子どもの頃の私は、ごんが撃たれるところより、そっちの方が気になっていたのかもしれません」

    私はその言葉を聞いて、手元を動かすのをやめた。

    窓の外からは、ただ雨の音だけが聞こえていた。

    4. 見つかった本

    「これで、いえ、これがいいです」

    女性は、すぐに言い直してその本を差し出した。

    私は本を手に取り、紙袋へ入れる前に、薄紙で軽く巻いた。

    女性はそれを両手で大事そうに受け取った。

    「息子は、気に入ってくれますかね」

    「どうでしょう」

    「途中で飽きるかもしれませんね。私だけが気にしていたのかもしれません。でも、それでもいい気がします。私が残しておきたいんです。きっと」

    私はその言葉に、何も返さなかった。

    硝子戸が開き、女性は雨の中へと帰っていった。

    棚に残った、別の『ごん狐』を一冊開いてみる。

    ごんが栗を持っていく。兵十は、それを知らない。

    ただそれだけの光景が、私の目の中で静かに静止する。

    私はそこで本を閉じた。

    カウンターの奥の珈琲は、すっかり冷めていた。

    時計が、コトリ、と鳴る。

    しばらく、表紙の痩せた狐と目が合っていた。

    (第三弾・完)


    雨の日になると、

    昔読んだはずの本を、

    もう一度探しに来る人がいる。

    ▼【一気読み】檸檬舎奇譚|第一弾 止まった時計篇(全四話)

    ▼【一気読み】檸檬舎奇譚|第二弾 文学暗号篇(全五話)


    本棚には、

    見つけたはずなのに、

    少しだけ違って見える本がある。

    ▼ 檸檬舎の本棚


     
     
     
    静かな場所で、物語を紡ぐ時間を大切にしています。 京都の古書店「檸檬舎」に持ち込まれる、 文豪たちの謎をめぐる連作幻想ミステリーを執筆中。 一輪のダリア、濃い目の珈琲の香り。 日常の隙間に潜む「真実」を、少しずつ言葉にしていければと思います。

    あなたへのおすすめ