
檸檬舎奇譚|第一弾 止まった時計篇|第二話:深紅の暗号――「ぼんやりした不安」の正体
※本作は実在の文学作品・作家をモチーフにしたフィクションです。
雨の日になると、檸檬舎には奇妙な客が来る。
だがその日、訪れたのは雨ではなかった。七月の蒸し暑さが、古本の匂いをより濃くしている。カウンターには濃い琥珀色のコーヒーカップ。そして深紅のダリアが一輪。意味はない。ただの習慣だ。
電話が鳴った。
「檸檬舎の店主さんですか。私はT大学文学部の助教授をしている者です」
低く、よく通る声。どこか芥川龍之介の朗読を思い出させる口調だった。彼は自己紹介を省いた。名乗らなかった。その態度に私はかえって親近感を覚えた。古書店を営む者にとって、「名前」よりも「持っているもの」の方が重要だからだ。
「あなたの『太宰・心中は偽装だった』という論を読みました。非常に興味深かった」
「ありがとうございます」
「一つお聞きしたい。あなたは太宰の“作品化”を論じたが、芥川についてはどうお考えですか?」
私は間を置いた。
珈琲を一口含む。濃いめに淹れすぎたせいか、少し酸味が強い。
「芥川は……違う種類の偽装をしたと思います」
「具体的に?」
「太宰が“鮮やかに偽装”したのに対し、芥川は“曖昧に偽装”した。ぼんやりさせることで、かえって真実を隠した」
電話の向こうで、男が微かに笑った気がした。
「あなたに見せたいものがある」
1. 深紅のダリアと未発表草稿
待ち合わせは神保町の裏通りにあった。店の名前は覚えていない。いや、あるかもしれないが、どうでもいい。なぜならその日から私はその店を「ダリアの店」と呼んでいるからだ。
入り口を入った右手のテーブルには、いつも深紅のダリアが一輪、小さなガラスの花瓶に挿してある。理由はない。ただ「そこにある」だけだ。私はその無意味さに妙に惹かれて、いつもその席を選ぶ。
珈琲は濃いめでお願いした。深みがあり、少し酸味が強い。ダリアの花弁と同じ色をした液体が、白いカップの中でかすかに揺れている。
助教授は私より先に来ていた。グレーのスーツに黒縁メガネ。年齢は四十代半ばだろうか。彼は無言で、茶色く変色した封筒をテーブルに置いた。
「芥川龍之介、『或阿呆の一生』の初期草稿です。未発表です」
私は息を呑んだ。
『或阿呆の一生』――1927年、芥川が自殺の直前に執筆した遺作。その最終章は、あまりにも有名な一文で閉じられる。 「ぼんやりした不安」
だが、これまで多くの研究者が疑問視してきた。なぜ「ぼんやり」なのか? 芥川はこれ以前に、もっと具体的な言葉で精神の危機を描写していたはずではないか?
私は震える手で封筒を開けた。便箋は三枚。インクは褪せているが、あの特徴的な縦書きの文字は間違いなく芥川自身のものだった。目を通す。そして気づいた。
公開された最終版で「ぼんやりした不安」と書かれた箇所、その初期草稿にはこうあった。
「ある形をした、あまりに具体的な恐怖」
私は顔を上げた。助教授が無言でこちらを見ている。その眼鏡の奥の瞳は、獲物を見定める研究者のそれだった。
「なぜ彼は……書き換えたのですか?」
私の声は少し掠れていた。
2. 河童という名の密室
その夜、檸檬舎に戻った私は、棚から『河童』を引っ張り出した。1927年発表。芥川が死の前年に書いた諷刺小説。あの奇妙な、狂気じみたユーモアに満ちた作品。
私は濃いめの珈琲を淹れ直した。店内には、閉め切られた空間に沈殿する古本と紙の匂い。そしてどこからともなく漂う梔子の香り。カウンターの上には、昼間と同じように深紅のダリアが一輪。いや、これは私が店の雰囲気に合わせて飾っているだけだ。意味はない。ただ、何となく。
頁を捲る。
河童の国では、逆説的な法則が支配する。「労働が最大の価値」とされながら、労働者は搾取される。「出産する権利」を申請しなければ子どもを作れない。
これまでこの作品は「当時の日本社会への風刺」と解釈されてきた。しかし私は、その夜、違う読み方が可能だと気づいた。芥川は生前、深刻な幻覚症状や強迫観念に悩まされていた。彼の手紙や日記には、こうある。
「自分が河童の国の住人になったように感じる瞬間がある」(1926年某日記) 「電車の中で突然、隣の乗客が河童に見えた。怖くて飛び降りそうになった」(1927年、友人への手紙)
つまり『河童』は、「風刺」という体裁を借りた、克明な病の記録だったのではないか。
問題はここだ。もし『河童』が「具体的な恐怖」の産物であるなら、遺作の結末もそう書くのが筋だろう。なのに彼はあえて「ぼんやり」に書き換えた。
彼は何を恐れたのか?
3. 言葉にすることの暴力
哲学者のウィリアム・ジェームズは『宗教的経験の諸相』でこう述べている。 「言葉にすることは、現実化することである」
精神病体験者は、時に「それを言葉にしてしまうことで、かえって現実のものとして確定させてしまう」という恐怖に襲われる。だからこそ、曖昧な言葉で括ることで「現実化」を防ごうとする。
私はコーヒーカップの底を見つめた。濃いめの珈琲が、少しだけ残っている。
ここに「毒」を添加しよう。
芥川龍之介は、「読者を自分の病に巻き込みたくない」という美学的な優しさと、「病を言葉にしないと自分が持たない」という作家のエゴイズムの間で引き裂かれていた。
だから彼は「ぼんやり」という言葉を選んだ。それは希釈であり、同時に「ここに何かが隠されている」という暗号でもあった。
「ぼんやりした不安」とは、芥川からの挑戦状だった。
「私の言葉の奥にあるものを見つけ出せ。それができたとき、あなたは文学と現実の境界線を初めて見ることになる。そこに私はいる」
4. それでも花は咲いている
翌朝、私は助教授に一通のメールを送った。
「結論が出ました。芥川は『ぼんやり』という言葉で、自分を暗号化しました。彼の『不安』は具体的だった。ただ、それを読者に直接見せたくなかった。二重の構造です」
数時間後、返信があった。
「同意します。では、あなたは次に何を解くのですか?」
私は答えを返さなかった。
代わりに、ダリアの店へ行った。 いつもの席。深紅のダリアは今日もそこにある。珈琲は濃いめ。一口含む。苦い。でも悪くない。
考えた。次は夏目漱石の『こころ』だ。あの「先生」の遺書は、本当に全てを語ったのか?
私はダリアの花びらを一枚、そっと摘み取った。何の意味もない。ただ、指の感触が好きだから。文学の謎解きに「意味のない行為」は必要ないのかもしれない。しかし、それこそが人間の「ぼんやりした」部分であり、そこにこそ真実が隠れている。
『河童』の最後の頁を開く。
「時々、隣の人が河童に見える」
これはフィクションではない。芥川の現実だ。そして私たちはその現実に「ぼんやり」という曖昧なフィルターを通して触れることしか許されていない。それが彼の美学であり、彼の残酷さだった。
名乗るほどの者ではない。店の看板には「檸檬舎」とだけある。私はただ、古本と珈琲と、たまに訪れる奇妙な客からの手紙を待つ、名もなき店主だ。
私はもう一度『河童』を開く。 ・・・・・・今度は、あの河童たちの声が、ひどく人間的に聞こえた。
(第二話・了)
次の雨の夜、
檸檬舎には、
夏目漱石にまつわる古い手紙が届く。
▼ 第三話 『こころの死角――「先生」が遺書に書けなかった共犯者』
雨の夜、
店の奥にある本棚について、
店主が語ることがある。
▼ 檸檬舎の本棚