
檸檬舎奇譚|第一弾 止まった時計篇|第三話:こころの死角――「先生」が遺書に書けなかった共犯者
※本作は実在の文学作品・作家をモチーフにしたフィクションです。
雨の日になると、檸檬舎には奇妙な客が来る。
だがこのところ、奇妙な客は雨の日を待たずに訪れるようになった。太宰の手紙を持ってきた老女。芥川の草稿を運んだ助教授。彼らはまるで、何かに導かれるように私の店の扉をくぐる。
その日、訪れた客は一人の中年男性だった。
彼は黙ってカウンターに座り、無造作に一冊の文庫本を置いた。夏目漱石『こころ』。古びた装丁。ページは開きっぱなしの癖がついている。
「あなたが“檸檬舎の店主”ですか」
「ええ。まあ、そう呼ばれています」
「僕はあの『こころ』の“先生”の孫だと自称している者です」
自称――その言葉に私は眉をひそめた。
彼は薄く笑い、珈琲を注文した。濃いめで、と付加する。カウンターの深紅のダリアを一瞥して、「きれいですね。意味はあるんですか?」と尋ねた。
「いいえ。ただの習慣です」
「そういうところ、先生に似ていると言われませんか?」
「誰にです?」
「僕の祖母に。先生の妻です」
私はコーヒーカップを持つ手を止めた。
1. 遺書が語らなかった空白
『こころ』は1914年に発表された夏目漱石の代表作である。「先生」と呼ばれる主人公が、友人Kの自殺を招いた過去を告白する長大な遺書の形式をとっている。
語られなかった「もう一つの罪」――これまでも多くの研究者がこのテーマで論じてきた。Kの自殺の直接のきっかけは、「先生」がお嬢さん(後の妻)への愛をKより優先し、その結果Kが絶望に追い込まれたことにある。
しかし、その箇所を読むたび、私はいつも少しだけ引っかかっていた。
Kはなぜ「先生」とお嬢さんの結婚を知って、すぐに自殺しなかったのか。作中では、Kの自殺までに約一ヶ月の空白期間がある。その間にKは何をしていたのか? 「先生」は遺書の中でその期間についてほとんど語っていない。ただ一つ、こう記すのみである。
「Kはその間、ほとんど食事をとらず、私たちとも口をきかなくなった」
空白。沈黙。そして死。
男は私の考えを読んだかのように言った。
「祖母はいつも言っていました。『Kさんは、あの一ヶ月の間に、ある人に会った』と」
「ある人?」
「祖母はその名前を最後まで教えてくれませんでした。ただ、こう言っただけです。『もしあなたが檸檬舎という古書店に行くことがあったら、その店主にこの本を渡しなさい。そうすれば、彼はKが何を聞いたのかを突き止めるだろう』」
私は息を呑んだ。太宰。芥川。そして今回の男。彼らは皆、私に「何か」を託すようにしてこの店を訪れる。それは偶然なのか、それとも――。
私は彼から文庫本を受け取った。ページの間から一枚のメモ用紙が滑り落ちた。そこには達筆な女性の文字でこう書かれていた。
「Kは、先生が隠していた真実を知った。この世界には、“先生”が三人いた」
2. 三人目の「先生」
私はその夜、檸檬舎のカウンターで珈琲を濃いめに淹れ直した。深紅のダリアが一輪。意味はない。ただ、その色が血のように鮮やかで、考えるのにふさわしい気がしたから。
『こころ』を開く。何度も読んだ小説だ。しかし今は、一文一文が違って見える。 「先生」が三人――とはどういう意味か?
一人目は「先生」本人。二人目は、道徳的な鏡であったK。そして三人目――? 私は考えた。コーヒーカップが空になった。ダリアの花びらを一枚、指でなぞる。
ひらめいた。 『こころ』にはもう一人、「先生」と呼ばれうる人物がいる。それは「先生」の遺書を読む「私」――つまり小説の読者そのものではないか。
Kが自殺前に会った「ある人」。それは「先生」でもKでもない、第三者の「先生」概念を持つ人間。では、その人物は誰か?
史実を確認する。夏目漱石には、後に作家となり、漱石を「先生」と呼んで慕った門下生がいた。そう――芥川龍之介である。 芥川は『こころ』発表の翌年、1915年に漱石の元を頻繁に訪れていた記録が残っている。もし、Kのモデルとなった人物が実在し、その人物が死の直前に芥川に会っていたとしたら?
私は背筋が凍る感覚を覚えた。
3. 伝染する罪
ここから先は、私の仮説である。
もしそのKのモデルが、死の直前に若き芥川龍之介に会い、「先生(漱石)の本当の姿」を何か聞かされたのだとしたら? そして芥川はその情報を元に、後に『河童』や『或阿呆の一生』を書いたのだとしたら?
つまり――
一通目は「作品としての死」
二通目は「暗号としての死」
三通目は「伝染する罪としての死」
この三通は、一つの大きな連鎖として繋がるのではないか?
誰かが意図して並べたわけではない。
しかし、私の手元には今、確かに三つの「遺言」が揃ってしまったのだ。
哲学者のカール・ヤスパースは『罪の問い』でこう書いている。
「罪は個人の中に留まらず、他者へと伝染する。真に罪を背負うとは、その伝染の連鎖を引き受けることである」
漱石は『こころ』の中で「先生」に罪を背負わせた。芥川はその罪を『河童』の中で引き継いだ。太宰は『人間失格』の中で「罪を芸術に変換する」という最終解答を出した。
日本近代文学の巨匠たちは、それぞれ「罪の伝染」という一つの鎖で繋がれていたことになる。そしてその鎖の始まりは――『こころ』の「先生」が遺書に書けなかった「もう一人の共犯者」なのかもしれない。
4. 鎖の始まり
私は『こころ』を閉じた。
その瞬間だった。 カウンターの奥――誰も触れていないはずの古い柱時計が、低く鳴った。
午前三時。
止まっていたはずの時計だった。 私はしばらく動けなかった。なぜなら、その時計が動いたのは――二十年前、最初の来訪者が封筒を置いていった夜以来だったからだ。
あの夜も、雨だった。 あの夜も、深紅のダリアが一輪、カウンターにあった。 あの夜も、私は珈琲を濃いめに淹れていた。 そして――送り主のない封筒を開けた瞬間、私は何かに「選ばれた」のだ。
時計の針が進む。コトリ、コトリ、と。 私はゆっくりと息を吐いた。
「……そういうことか」
声が出た。かすれていた。 私は『こころ』を閉じ、窓の外を見た。
雨が降り出している。 時計はまだ動いている。二十年ぶりに動き出した時計は、もう止まらないだろう。
名乗るほどの者ではない。
店の看板には「檸檬舎」とだけある。
しかし――時々思う。
なぜ私は、この店を開いたのだろうと。
誰かが来る気配は、まだない。 だが、今夜ではなくとも、いずれ。
(第三話・了)
次の雨の夜、
止まっていたはずの時計が、
静かに動き始める。
▼ 第四話(第一部・完結編)『あの日、雨が降らなかった理由』
その本棚には、
時々、
題名のない本が紛れている。
▼ 檸檬舎の本棚