
アンチは「ゴミ」か、それとも思考を磨く「砥石」か
先日ある政治家が、自身への批判的なSNS投稿を「ゴミ」という言葉とともにリポストした。
ここで政治的な話はしたくないが、目についてしまったのだ。
最近、書くことに囚われている私。その投稿を見た時に沸き起こったのは、政治的な不満というよりは、彼の発信者としての違和感だった。
こんにちは、つむです。ご覧いただきありがとうございます。
30代、予想外の休職で自分を見つめ直し、ご自愛な人生設計に変更中の元バリキャリ。てんやわんやな日常を書いています。
私たちは自分に突きつけられた「異論」とどう向き合うべきなのか。
その答えを、以前読んだ本の中から、社会学者の小熊英二氏と、知の巨人・外山滋比古氏の言葉をお借りして考えてみようと思う。
小熊英二氏は、中央公論(2025年11月号)の特集記事の中で、本を読み論文を書くことの意義を、他者の目に晒され、批判されながらブラッシュアップしていくことにあると説いていた。
論文は、それが反論可能な形で開かれている点に意味がある。なぜなら、自分で考えたことは、どんなに正しく思えても独りよがりの域を出ないからだ。
他者の厳しい目に触れ、自らの論理の穴を指摘されるプロセスを経て初めて、思考は公共性を持ち、より強靭なものへと磨き上げられる、とのこと。
小熊氏にとって、批判とは攻撃ではなく、自己を更新するための必須の通過点ということだろう。
この視点は、外山滋比古氏の遺作『こうやって、考える』にも通底していた。
外山氏は、思考が健全であるためには混ざり合いが必要だと説いた。
自分にとって心地よい賛辞や同質な意見ばかりに囲まれていると、思考は淀み硬直し、やがて腐敗していく。
自分を揺さぶり時には不快にさせるノイズこそ、頭の中に風を通し、思考を発酵させて新たな価値を生む、と。
外山氏の目には、自分に否定的な存在を排除することは、自らの知性を窒息させる行為に映ることだろう。
翻って、批判を「ゴミ」と呼び、対話を遮断した政治家の振る舞いを振り返る。
それは、小熊氏が説いた批判による洗練の機会を放棄し、外山氏が危惧した腐敗の道を選んだことに等しい。
批判的な意見をゴミとして処理してしまえば、その瞬間に発信者の思考は止まり、言葉は相手を屈服させるだけの凶器となる。
小熊氏や外山氏の視点は、学問の世界の話ではないと私は理解している。
批判を直視し、自らを磨き続ける勇気を持つ。つまり、言葉を「ゴミ」として捨てるのか、それとも自らを育てる「糧」とするのか。その選択の積み重ねが、その人の品性を決める。
インターネットの海には、見るに値しない明らかな悪意が紛れているのは事実だ。過剰に反応するのも十分理解できる。
だが、政治家にとって批判的な民意は処理すべきゴミではなく、向き合うべき「問い」でもあるはずだ。
そして、民主主義の土台は、自分とは相容れない相手を、それでも対話すべきと尊重する態度の上に成り立っている。
指導者が自らそれを投げ捨て、言葉を排除の道具として使う時、その発信力は単なる「扇動の道具」へと成り下がるだろう。
参考文献