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【短編小説】#6「AM3:45 ~真夜中のスタジオから~」

    第6話 独白「捨てたものへの鎮魂歌」

    昨夜の放送を境に、その場所には、ぽつりぽつりと便りが寄せられ始めていた。

    『午前3時45分』

    ただ開始時刻を置いただけの、飾り気のないタイトルだった。急ごしらえの仮囲いのように簡素で、どこか愛想もない。人目を引くキャッチコピーなど、どこにも見当たらない。それでも、そのがらんどうに見えた箱の中には、いつの間にか50を超える切実な魂の破片が、静かに体温を宿し始めていた。

    「眠れません」「辞めたいです」「家に帰りたくないです」「今日も朝が来るのが怖いです」「誰にも言えないので、ここに書きます」

    短いメッセージが多かった。

    折尾は、手元の白紙に目を落とした。感情を言葉に変える作業は、思っていたよりずっと難しい。まして、自分の内側を人に見せることに慣れていない者にとっては、なおさらだろう。

    本来の予定では、今夜の放送で届いた言葉たちをいくつか取り上げるはずだった。進行表にも、確かにその予定が書き込まれている。それでも折尾は、本番を告げる紅い光が灯る直前、張り詰めた空気の漂う部屋の重い扉を開け、そこにいる者たちへ向かって深く、静かに頭を下げた。

    「今日だけ、何も読まずに、私に話させてください」

    ディレクターの篠田が、顔を上げた。

    「15分、独白だけでいくつもりか」
    「はい」
    「音も挟まないのか」
    「挟みません」
    「最後の案内は」
    「語りがすべて終わったあとで、お願いします」

    篠田はしばらく口を閉ざした。

    午前3時45分という夜の底から始まる、わずか十五分間の番組。音楽も、誰かからの便りも挟まず、ただ一人の男が語り続ける。それは常識から見れば、あまりに危うい賭けだった。

    語られるのは、折尾自身の過去だという。聞く者によっては退屈に響き、あるいは耐えがたいほど重く感じるかもしれない。ただ、今の折尾の横顔からは、いつもまとわりついていた諦めも、自嘲の笑みも消えていた。

    篠田は小さく息を吐いた。

    「逃げるなよ」

    折尾は顔を上げた。

    「はい」
    「途中できれいにまとめるな」
    「……きれいには、できないと思います」

    その答えを聞いて、篠田は手元の紙に赤線を引いた。

    「わかった。15分、お前に預ける」

    *

    午前3時45分。

    紅い光が、静かに灯る。

    折尾はマイクの前で、深く息を吸い込んだ。遮音ガラスの向こうでは、篠田たちが黙ってこちらを見つめている。

    「折尾です、こんばんは。『おはよう』を口にするには少し早い、そんな時間ですね。始発に向けて準備を整えている方。ようやく眠りにつこうとしている方。眠りたくても目が冴えてしまう方。そして、胸の内にやり場のない思いを抱えている方。この番組は、わずか十五分。派手さのかけらもない、静かな番組です。タイトルも『AM3:45』。ただ、それだけです」

    折尾は、そこで少しだけ笑った。

    「まるで急ごしらえの突貫工事でひねり出したような、いかにも取って付けた感のある、安直な番組名ですね」

    調整室の中で、若いスタッフの一人が小さく笑った。篠田は笑わなかったが、止めもしなかった。

    「それにもかかわらず、この番組にはすでに50通以上のメッセージが寄せられています。長いものもあれば、一言だけのものもあります。大半は短いメッセージです。でも、私はそれで十分だと感じています。想いを形にするのは、決して簡単なことではありません。まして、自分の内面を言葉で表すことに慣れていない方々にとっては、なおさら難しいはずですから」

    折尾は手元の原稿に視線を落とした。

    いつもの原稿ではなかった。自分で書いた言葉だった。何度も書き直して、結局、整いきらなかった言葉だった。

    「本日は当初の予定を変更し、皆様からお寄せいただいたメッセージの紹介は見送らせていただきます。残りの15分間、勝手ながら折尾和希の独白にお付き合いください。他人の、それも興味のない人間の話を聴かされるのは退屈なものです。まして、このような深い夜です。無理をして聴き続けると、お体に障ります。どうか、遠慮なくラジオのスイッチを切ってください」

    ふっと、折尾の笑った息がマイクに乗った。

    その笑いは、明るいものではなかった。自分を少しだけ突き放すような、乾いた笑いだった。

    「すみません。脱線気味ですね。本題に入ります」

    折尾は一度、喉を鳴らした。

    「自慢ではありませんが、こんな男にも、昔は友人がいました。気のおけない親友もいました。『います』ではなく、『いました』。過去形です」

    調整室の空気が、少しだけ変わった。折尾は続けた。

    「馬鹿な話で笑える相手がいました。特別な用事がなくても会える相手がいました。何年も会っていなくても、会えばすぐ昔に戻れるような相手がいました。私は、その人たちとの縁を、自分の判断で切ってしまいました」

    折尾の声は、静かだった。

    「アナウンサーになるためです。上へ行くためです。余計なものを削ぎ落とすためです。電話帳のメモリを消しました。番号も変えました。誘いも断り続けました。同窓会にも行かなくなりました。友人の結婚式も、仕事を理由に欠席しました。『また今度』と何度も言いました。でも、その今度は、一度も来ませんでした」

    スタジオの中には、機材の低い駆動音だけが響いていた。

    折尾は、マイクに向かって淡々と話している。それでも、その指先は原稿の端を強く押さえていた。

    「その時の私は、それを努力だと思っていました。夢のために人間関係を減らすこと。遊びを削ること。感情を削ること。余計な時間を捨てること。そういうものを、私は覚悟と呼んでいました」

    折尾の脳裏に、遠い日の自分が浮かんだ。

    地方の大きな放送局へ、滑り込むように入ったばかりの頃。誰よりも早くスタジオに現れ、誰よりも遅く、夜の帳の中を帰った。喉がちぎれるほど発声練習を繰り返し、自分の原稿読みを録音しては、夜を徹して聞き直した。

    先輩たちの背中を盗み見ながら、視線の置き方、間の取り方、声の沈め方を覚えた。指先を強張らせながら、貪るように学んだ。

    ミスをしないこと。感情を出しすぎないこと。清潔であること。誰からも嫌われないこと。都合のいい、使いやすい人間であること。

    そのすべてを正しい呪まじないのように、自分へ課していた。

    「私は、折尾和希という人間ではなく、折尾和希という商品になりたかったのだと思います。正しく笑い、正しく頷き、正しく怒り、正しく悲しむ。どの角度から見ても、使いやすいアナウンサーであろうとしました。そのために、邪魔になるものを切った。少なくとも、その時の私は、そう思っていました」

    折尾は、そこで一度、言葉を止めた。息を吸う音が、小さくマイクに入る。

    「でも、今になって思います。私は夢のために友人を捨てたのではありません。たぶん、捨てたものに名前をつけるのが怖くて、それを夢と呼んだだけです」

    調整室の誰も動かなかった。その一文は、折尾自身の胸にも、思っていた以上に深く刺さった。

    「高校時代からの親友がいました。名前は出しません。その人は、私が地方局に入った時、誰よりも喜んでくれました。初めてテレビに映った時、録画してくれました。『お前、噛んでたぞ』と笑いながら、それでも何度も見返してくれました」

    折尾の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

    「でも私は、だんだんその親友と距離を置くようになりました。飲みに誘われても、翌朝のニュース読みがあるから断りました。電話が来ても、原稿練習中だから出ませんでした。悩みを相談されても、自分の昇進試験のことで頭がいっぱいでした。いつの間にか、私はその人の人生の出来事を、何も知らなくなっていました」

    折尾は、目を伏せた。

    「結婚したことも。子どもが生まれたことも。仕事を辞めたことも。親を亡くしたことも。全部、あとから知りました」

    スタジオの空気が、さらに重くなった。それでも、折尾は言葉を止めなかった。

    「それでも私は、心のどこかで言い訳していました。仕方なかった。自分には夢があった。上に行くには、それくらいしなければならなかった。そうやって、自分を納得させていました」

    折尾は、少しだけ息を吸った。

    「でも、ある日、古いガラケーのバックアップから、昔のメッセージが出てきました。そこには、親友からの短い言葉が残っていました」

    折尾は手元の原稿にはない言葉を、記憶の中から取り出すように言った。

    「忙しいのはわかる。落ち着いたら飯でも行こう」

    数秒、沈黙が落ちた。

    「私は、そのメッセージに返事をしていませんでした。その『落ち着いたら』は、二度と来ませんでした」

    調整室の端末には、リアルタイムのメッセージが少しずつ増え始めていた。

    「聞いてます」「運転中です」「自分も昔の友達に返してないLINEがあります」「受験のために全部切ったつもりでした」「眠れないので聞いてます」「それ、私かもしれません」

    篠田は、その画面を一瞥しただけで、すぐに折尾へ視線を戻した。

    「失ったものは、簡単には戻りません。消した電話番号は、簡単には戻りません。返さなかった言葉は、時間の中で乾いてしまいます。出なかった電話には、もう出られません。行かなかった結婚式には、もう行けません。誰かが一番苦しかった夜に、自分がいなかったという事実は、なかったことにはできません」

    折尾の声は静かだった。静かだからこそ、逃げ場がなかった。

    「私は、許されたいからこの話をしているわけではありません。友達は大切にしましょう、ときれいにまとめたいわけでもありません。夢のために何かを捨てるな、と言いたいわけでもありません」

    折尾は、マイクを見つめた。

    「人には、何かを捨てなければ進めない時があると思います。誰かとの時間を削らなければ、たどり着けない場所もあるのだと思います。それを、私は簡単に否定できません。私自身が、そうやって進んできた人間だからです」

    ここで一度、折尾は息を置いた。

    「ただ、捨てるなら、せめて、捨てたことを忘れないでください。努力という言葉で、全部をきれいに包まないでください。覚悟という言葉で、痛かったものを、なかったことにしないでください」

    折尾のスマホは、今も仕事関係の名前ばかりだった。

    プロデューサー。ディレクター。マネージャー。局の担当者。取材先。スポンサー関係者。

    そこに、昔の親友の名前はない。

    ただ、折尾は放送前、一つだけ古い番号を検索していた。もう使われているかもわからない番号。登録名も消してしまった番号。それでも、なぜか覚えている数字の並び。

    電話はかけられなかった。メッセージも送れなかった。何を書けばいいのかわからなかった。ごめん。元気か。聞いてくれ。

    どれも違う気がした。

    「今の私の電話帳には、業務的な関係者の名前ばかりが並んでいます。とても便利です。とても整っています。そして、とても味気ないものです。そこに、昔の親友の名前はありません。自分で消したからです」

    折尾は、そこで少しだけ苦笑した。

    「でも、不思議なものです。名前を消しても、覚えている番号があります。連絡先から消えても、消えない声があります。私は今日、その番号に電話をかけることはできませんでした。メッセージを送ることもできませんでした。だから今日は、電波の上で、ただ手を合わせることにします」

    調整室のガラスの向こうで、若い女性スタッフが静かに俯いた。誰も何も言わなかった。

    「今夜の独白は、誰かに届くためのものではありません。私が捨てたものへ、遅すぎる手紙を読むための十五分でした。それでも、もし今夜、あなたが何かを捨てようとしているなら。夢のために、余計なものを削らなければならないと思っているなら。どうか、それを捨てた自分のことまで、捨てないでください」

    折尾は、残された時間を確認した。秒針は、いつもと変わらない歩調で進んでいる。

    時間だけは、決して逃げない。拒んでも、誰に対しても同じ速度で、ただ淡々と近づいてくる。

    「私は、捨てたものに、ようやく手を合わせることくらいはしたいと思いました。友人を切ったのではなく、友人の前で未熟でいられる自分を切ったのだと思います」

    折尾は少しだけ、声を低くした。

    「弱い自分を見られるのが怖かった。夢に近づくほど、失敗する自分を見られるのが怖かった。完璧な折尾和希でいなければ、価値がないと思っていました。そんなものは、今になれば、ひどく脆い完璧です」

    折尾は、原稿を静かに伏せた。ここから先は、書かれていなかった。

    「もし、昔の私と同じように、何かになるために誰かを切ろうとしている人がいるなら。私は、止めることはできません。でも、これだけは言わせてください。捨てたものは、消えません。見えない場所に沈むだけです」

    短く息を吸う音が、マイクに拾われた。

    「だからせめて、いつか思い出した時に、手を合わせられるくらいには、覚えていてください」

    短い沈黙のあと、折尾は最後の挨拶に入った。

    「ここまでのお相手は、折尾和希でした。また、眠れない夜に」

    午前四時と同時に、紅い光がぷつりと消えた。その瞬間、スタジオは急激に現実の重力を取り戻した。

    点滅を続ける小さなランプの群れ。頼りない薄明かり。すっかり冷めきったコーヒー。役割を終えて伏せられた白紙。

    折尾はヘッドホンを外し、静かに机の上へ置いた。

    遮音ガラスの向こうから、篠田が入ってきた。いつものように、すぐに褒めることもしなければ、責めることもしない。ただ、折尾の前に立ち、しばらくの間、無言で佇んでいた。

    「重かったな」
    「はい」
    「番組としては、かなり危ない綱渡りだ」
    「はい」
    「でも」

    篠田はそこで一度、言葉を切り、折尾の顔をじっと見据えた。

    「逃げてはいなかった」

    その一言だけで、折尾には十分だった。胸の奥の震えが、静かに収まっていく。その時、暗闇の中で端末が小さく、冷たい音を立てた。新しい便りが、たった一通だけ、滑り込んできたのだ。

    折尾は、光る画面に目を向けた。件名はない。本文は、息が止まるほど短かった。

    昔の友達に、まだ送れないメッセージを書きました。
    送信はできませんでした。
    でも、消しませんでした。

    折尾は、その一文を長い時間見つめた。

    救われたわけではない。許されたわけでもない。何かが劇的に変わったわけでもない。ただ、誰かが消さずに残した。それだけで、今夜は十分な気がした。

    折尾は椅子に深く座り直し、目を閉じた。窓の外では、夜が少しずつ白みはじめていた。

    午前四時十二分。

    真夜中のスタジオには、誰にも送れなかった言葉の残響だけが、しばらく漂っていた。

    (第6話 おわり)

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