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【短編小説】#5「AM3:45 ~真夜中のスタジオから~」

    第5話 波の向こうから

    昨夜の、あのわずか十五分間。折尾和希おりおかずきは人生で初めて、加工されていない自分の声を世界へ放ってしまった。それは、用意されたきれいな言葉ではなかった。局も、スポンサーも、誰も褒めることのない、むき出しの本音だった。いや、もしかすると、ただの生々しい悲鳴だったのかもしれない。

    (この放送を聴いている方の中に、世の中の正しさに息を塞がれている人はいませんか?)

    その言葉が唇からこぼれた瞬間、折尾は直感していた。かつての平穏な日常へ戻る道は、もう完全に閉ざされてしまったのだと。仮面のような笑みを浮かべて、用意された言葉を正確に読み上げるだけのアナウンサー。そんな自分には、もう戻れない。いや、戻れないのではない。自分自身が、何よりもそれを拒んでいた。

    時刻は午前二時十二分。熱を帯びていたスタジオを、いつもの深い静けさが包み込んでいる。オンエアを告げる紅い光は消え、さっきまで心電図のように青白く脈打っていた光の鼓動も、今は静かに眠っていた。

    折尾はヘッドホンを外した。疲れきった体を椅子に預けたまま、しばらく動けなかった。口をついて出たあの言葉は、本当に電波に乗せるべきものだったのか。それとも、ただの無責任な独白だったのか。答えの出ない問いに沈み込んでいる折尾の前へ、副調整室(サブ)にいたディレクターの篠田が、何も言わずに姿を現した。

    「……お疲れ」

    それだけだった。その一言に込められているものが怒りなのか、失望なのか、折尾にはわからなかった。渇いた喉のまま、静かに一度だけうなずく。

    「すみません。台本、かなり外れました」

    篠田は腕を組み、少しだけ首を傾けた。

    「かなりどころじゃないな」
    「ですよね」
    「でも、悪くはなかった」

    折尾は顔を上げた。篠田はそれ以上、何も言わなかった。代わりに、ブースの端末を指差す。

    「番組宛てのメッセージ、見てみろ」

    折尾はゆっくり腰を上げ、モニターの前へ歩み寄った。いつもなら、放送後に届く便りなど片手で足りるほどだった。「眠れなくて」「曲の詳細を知りたいです」「安らぐ声ですね」。そんな短い言葉が、静かな水面に落ちる雫のように、ぽつりぽつりと届くだけだった。

    それなのに、画面に並ぶ数字は、これまで見たことのない桁にまで膨れ上がっていた。折尾は一瞬、その状況を呑み込めずに立ち尽くした。マウスを握る指先が、かすかに強張る。

    件名のない投稿。匿名の投稿。文章になりきっていない、殴り書きのような言葉。画面の奥には、夜の底から漂い出してきた端切れのような断片が、いくつも積み重なっていた。

    折尾は、一通目を開いた。

    辞めたいです。
    でも、辞めたいと言うと、甘えるなと言われます。
    だから誰にも言えません。

    次の投稿を開く。

    家に帰りたくありません。
    でも、帰る場所が家しかありません。

    次の投稿。

    ちゃんとしろ、という言葉が一番つらいです。
    ちゃんと出来ない自分が一番わかっているからです。

    さらに次の投稿。

    死ぬなと言われるたびに、
    死にたいと言えなくなります。

    押し寄せる言葉の波に、折尾は不意に息を詰まらせた。昨晩、暗い海原の向こうへ放ったはずの自分の叫びが、今、いくつもの潮となって足元へ返ってきている。その満ち引きの向こうに、確かな人の気配があった。

    眠れずにいる人。あえて眠ろうとしない人。あるいは、眠れないふりをしながら、どうにか夜をやり過ごしている人。喉の奥に沈殿した、言葉にならない祈りを抱え続けてきた誰か。

    光る画面を見つめたまま、折尾はただ、その静かな熱量に圧倒されていた。隣で、篠田が静かに言った。

    「手応えはある。数字も動いている」

    その一言が、折尾の胸に冷たい違和感を残した。跳ね上がる数字。制作の視点から見れば、間違いなく成功なのだろう。

    ただ、画面を埋め尽くすこれらの魂の破片を、ただの「反響」という乾いた言葉で片付けてしまっていいのだろうか。折尾は小さく唇を噛んだ。ここに届いた声は、番組を飾るための素材なのか。それとも、誰にも届けられなかった、最後の言葉になる一歩手前の悲鳴だったのか。

    「全部は、読めませんね」
    「十五分だからな」

    篠田は淡々と答えた。

    「音を挟むなら、紹介できて三つ。多くて四つだ」
    「……選ぶんですか」
    「選ぶしかない」

    それは、残酷なほど正しかった。この真夜中の器には、厳然とした制限時間がある。流れる番組には、決まった形がある。濁流のように押し寄せる孤独を、すべてそのまま受け止められる器など、どこにもなかった。

    折尾はもう一度椅子に座り、光の海を指先で追いはじめた。一つひとつの文字に目を通すたび、胸の底に静かな痛みが、灰のように積もっていく。

    以前の彼なら、この山の中から「瞬時に伝わる言葉」を器用に拾い上げただろう。簡潔で、明快で、聴き手の涙を誘いやすい言葉。番組の終わりを鮮やかに彩り、次の旋律へなめらかにつなげるための、都合のいい言葉。そうした手際のいい構成を組み立てる術は、もう飽き飽きするほど、この指先が覚えていた。

    誰かの流した血を、見栄えのいい色彩へ整える技術。涙を、美しい光へ変える技術。静寂を、物語を語るための「間」へ仕立てる技術。その残酷な魔法のすべてを使って、自分は虚構の衣をまとい、呼吸をしてきたのだ。

    だからこそ、折尾は恐ろしかった。たかだか十五分のために、見ず知らずの誰かが負った心の傷を、また都合よく間引こうとしているのではないか。自分は、かつての過ちをここで繰り返すのではないか。

    画面の中に、一通の短い灯りがあった。差出人の名はなく、件名も空白。本文は、わずか数行。暗闇の向こうから、言葉になりきらない吐息だけが、ぽつりと届いたようだった。

    許せないと書いて良いと言われたので、書きます。
    私は、私を許せません。
    誰かを恨むより、自分を恨むほうが簡単だからです。

    折尾は、その文字から目を離せなくなった。『私は、私を許せません』その一文が、冷たい水のように胸の奥へ沈んでいく。

    折尾自身にも、どうしても許せない影があった。ニュースを伝えていた頃の自分。真実を扱っているふりをしながら、数字のために誰かの人生を切り刻んできた自分。台本に書かれた嘘を、もっともらしい顔で読み上げてきた自分。正しさの側に立っているふりをして、誰かを追い詰める言葉に加担してきた自分。その自分を、折尾はまだ許せていない。許せるはずがなかった。

    隣から、篠田の声が届いた。

    「候補、出せそうか」

    折尾は画面を見つめたまま、小さくうなずいた。

    「三つ、選びます」
    「重すぎるものは避けろよ」
    「避けたほうが、いいですか」

    篠田が答えるまでに、ほんの少しの沈黙が流れた。

    「避けるというより、扱い方を間違えるな」

    折尾はその言葉を、胸の中で静かに繰り返した。扱い方。そうだ。これは、読むか読まないかだけの問題ではない。

    どう読むか。どこまで声を乗せ、どこから先は沈黙を守るか。勝手に意味をつけないこと。勝手に救った気にならないこと。勝手に美しい物語へ変えないこと。それができなければ、この孤独な言葉たちに触れる資格などない。

    *

    翌日の午前三時三十分。スタジオの空気は、いつもより少し湿って重かった。薄暗い闇の中で、小さな光の粒だけが、夜の底に点々と瞬いている。折尾の前には、選び抜いた三つの魂の破片が置かれていた。

    一通目は、仕事を辞めたいと震える手で書いた人。二通目は、家族の中でずっと「いい子」という仮面を外せなかった人。三通目は、自分を許せないと綴った匿名の祈り。

    遮音ガラスの向こうから、篠田の声が届いた。

    「三通目、本当に読むのか」

    折尾は静かに、文字を見つめた。

    「読みます」
    「朝に近い時間だ。夜明け前の心には重いぞ」
    「軽くするための場所じゃないです、ここは」

    口にしてから、折尾は自分の声の鋭さに少し驚いた。その言葉は、誰かに向けた突っ張りではなかった。自分自身へ突き立てた、引き返さないための楔(くさび)だった。

    午前三時四十五分。オンエアを告げる紅い光が、静かに灯る。折尾はゆっくりと、深く息を吸い込んだ。目の前の黒いマイクが、暗闇の中で、静かに彼の覚悟を見つめているようだった。

    「こんばんは。午前3時45分です。眠れない人も、眠らない人も、眠れないふりをしている人も、よかったら十五分だけ、ここにいてください」

    短いジングルが流れる。その音が消えたあと、折尾は一通目の原稿に目を落とした。

    「昨夜の放送後、番組宛てにたくさんのメッセージが届きました。全部を読むことはできません。全部に返事をすることもできません」

    そこで一度、息を置いた。

    「それでも、届いた言葉を、届かなかったことにはしたくありません」

    ガラスの向こうで、篠田がじっとこちらを見ていた。折尾は、一通目の光を開いた。

    仕事を辞めたいと、震える指先で綴られた言葉。上司から「甘えるな」と言われ、同僚から「みんな我慢している」と諭され、自分でも自分に同じ呪いを投げ続けている。そんな、逃げ場のない夜の淵に立つ人の声だった。

    折尾はそれを最後の文字まで読み終えたあと、数秒だけ、スタジオの静けさをそのまま電波へ流した。

    「辞めたいと書けたことを、私は勝手に弱さとは呼びません」

    その声が、スタジオの壁に静かに吸い込まれていく。

    「辞めるべきか、続けるべきか。私がここで決めることはできません。ただ、辞めたいという言葉が出るまでに、あなたがどれだけ自分を黙らせてきたのか。それを、軽いものだとは思いません」

    二通目を読む。家族の中で、ずっと「いい子」でい続けてきた人の投稿だった。怒らない。泣かない。反論しない。親を困らせない。兄弟を妬まない。空気を読む。笑う。大丈夫と言う。その人は、そうやって長い時間を過ごしてきたと書いていた。

    折尾は、原稿の端を指で押さえた。

    「いい子でいるために、あなたが飲み込んできた言葉を、私は軽いものだとは思いません」

    その言葉を口にした瞬間、折尾の胸の奥にも、何かが触れた。自分もまた、いつからか「正しい大人」の顔をするために、いくつもの言葉を飲み込んできたのかもしれない。

    怒りも。後悔も。恥も。みっともなさも。全部、画面に映らない場所へ押し込めてきた。

    折尾は小さく息を吐いた。そして、三通目の原稿に視線を落とす。サブの向こうで、篠田がわずかに身じろぎした。読むな、とは言わなかった。ただ、その空気は確かにあった。

    折尾はマイクの前で目を閉じた。昨夜、自分は言った。私は、それを勝手に励ましへと変えません。美談にも変えません。正論で蓋もしません。ならば、この声から逃げることはできなかった。

    折尾は目を開けた。

    「最後に、短いメッセージを読みます」

    紙を持つ指に、少しだけ力が入る。

    「許せないと書いていいと言われたので、書きます。私は、私を許せません。誰かを恨むより、自分を恨むほうが簡単だからです」

    読み終えたあと、スタジオに沈黙が落ちた。番組としては、長すぎる沈黙だった。それでも、折尾はすぐに言葉を継げなかった。継ぎたくなかった。

    この一文を、急いで何かに変えてしまうことが怖かった。励ましに変えることも。教訓に変えることも。きれいなまとめに変えることも。全部、違う気がした。

    やがて折尾は、ゆっくり口を開いた。

    「許せないなら、今日すぐ許さなくていいと思います」

    声が、少し掠れた。

    「許せない自分を、さらに責めなくてもいい。ただ、その言葉をここに置いたことだけは、なかったことにしません」

    折尾は、マイクを見つめた。

    「あなたがあなたを許せない夜に、少なくともこの十五分だけは、その言葉を私が預かります」

    スタジオの空気が、かすかに、そして決定的に形を変えた。何か劇的な奇跡が起きたわけではない。誰かの傷がたちまち癒えたわけでも、明日からの世界が優しく変わるわけでもない。

    ただ、折尾は初めて、自分の声を、言葉を飾るためではなく、その痛みをそのまま預かるために使った。それだけが、この夜の底にある確かな事実だった。

    砂時計の残りは、もう少なかった。用意していた旋律へと舵を切る直前、折尾は短く、息を吐くように言った。

    「今夜も、きれいに眠れなくていいです。ちゃんとした朝を迎えられなくてもいい。ただ、ここに置いた言葉を、私は勝手に消しません」

    旋律が流れはじめた。古いピアノの静かな打鍵。派手な転調も、劇的な高鳴りもない。ただ、夜の底に沈んでいたものを、ほんの少しだけ水面へ浮かび上がらせるような音だった。

    折尾は目を閉じた。耳の奥に響く音の向こう側に、見知らぬ誰かの部屋が、確かに息づいているような気がした。

    遮光カーテンの閉まった六畳間。家族の寝息が漏れる暗い廊下。明かりの消えた会社の休憩室。駅の冷たいベンチ。病室。車の中。布団の暗闇の中で、スマートフォンの小さな光だけを見つめている誰か。

    そのすべてに、自分の声が届いたかどうかはわからない。わからないままでよかった。届いたと決めつけることも、きっと、救った気になる傲慢さなのだ。

    午前四時。音が途絶え、静寂が戻る。折尾は最後の祈りを捧げるように、静かに口を開いた。

    「ここまでのお相手は、折尾和希でした。また、眠れない夜に」

    オンエアランプが消えた。赤い光が消えた瞬間、スタジオは急に現実へ戻った。ヘッドホンの内側には、まだ自分の声が残っている。折尾はゆっくりとそれを外し、机の上に置いた。

    サブから篠田が入ってきた。しばらく、何も言わなかった。折尾も何も言わなかった。先に口を開いたのは、篠田だった。

    「……重かったな」
    「はい」
    「危なかった」
    「はい」
    「でも」

    篠田はそこで言葉を切った。折尾が顔を上げる。それを見て、篠田は少しだけ困ったように笑った。

    「逃げてはいなかった」

    折尾は、何も返せなかった。その一言だけで十分だった。

    ブースの端末が、小さく通知音を鳴らした。新しいメッセージが一件、届いていた。折尾は画面を見る。件名はない。本文は一行だけだった。

    まだ許せません。でも、今日は消さずに残します。

    折尾は、その一文を長い時間見つめた。返事はできない。励ますことも、何かを約束してやることもできない。それでも、その言葉は確かに、この狭い部屋へ届いた。

    暗い海の向こう側から、寄せては返す波のように、打ち返されてきたのだ。折尾は、誰の耳にも触れないほど小さな声で呟いた。

    「届いたんだな」

    窓の向こうでは、凍っていた夜が少しずつ白みはじめていた。午前四時十二分の世界はまだ、ほとんど眠りの中にいる。

    それでも、真夜中のスタジオには、誰にも消されなかった本物の言葉がひとつ、静かに体温を保っていた。

    (第5話 おわり)

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