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【短編小説】#9「AM3:45 ~真夜中のスタジオから~」

    第9話 朝を流す夜

    最終回の夜、局内は不思議なほど静かだった。騒ぎが収まったわけではない、スポンサー企業への批判も、番組終了を惜しむ声も、SNSの画面の中ではまだ熱を持ち、局の代表電話も日中は何度も鳴ったらしい。

    それでも午前3時前の廊下は、何事もなかったように白い蛍光灯を浴びていた。外の騒ぎなど知らないふりをするように、床も壁も、いつも通りの冷たさを保っている。

    折尾和希は、いつもより早くスタジオに入った。机の上には、局が用意した最終回用の原稿が置かれている。これまでの感謝、番組終了のお知らせ、関係各所への配慮、スポンサーへの礼、リスナーへ向けた定型の挨拶。

    どれも丁寧で、どれも正しく、どこにも棘がなかった。折尾はその原稿を、しばらく見つめていた。

    間違ってはいない、ただ、自分の声ではなかった。

    鞄の中には辞職願ではなく、ひとつの音源が入っている。グリーグ《ペール・ギュント》組曲より『朝』、若い頃、何度も何度も聴いた曲だった。

    折れそうな時、折られそうな時、友人に相談しても、恋人に話しても、邦楽の歌詞も洋楽の声も心の奥まで届かなかった時、言葉というものすべてが自分を責めているように聞こえた時、折尾はその曲を聴いた。

    スタジオのドアが開き、篠田が入ってきた。

    「原稿、読まない顔だな」

    折尾は、机の上の紙から目を離さずに答えた。

    「読みません」
    「何をする」
    「少しだけ挨拶をして、曲を流します」
    「曲紹介は?」
    「しません」

    篠田は黙った。

    「そのあとは?」
    「番組が終わるまで、喋ります」
    「原稿は?」

    篠田は折尾の顔をじっと見た。前なら止めていただろう、スポンサー問題のあとなら、なおさら止めるべきだった。

    それでも今夜の折尾は、番組を壊そうとしている顔ではなかった。ようやく自分の声で、最後の15分に立とうとしている顔だった。

    篠田は低く言った。

    「逃げるなよ」

    折尾はうなずいた。

    「逃げません」

    午前3時40分、調整室にはいつもより多くの目があった。編成部長は別室で音声を確認し、スポンサー側にも回線はつながっている。榊原も局に来ていた、スタジオには入らず、別室のモニター越しに最後の放送を聴くという。

    止めに来たのではない、謝りに来たのでもない。ただ、最後まで聴きに来た。

    折尾は机の下に置いた紙袋へ、そっと視線を落とした。中には缶ビールが1本入っている。放送中に酒を飲むなど褒められたことではなく、むしろアナウンサーとしては最悪に近い、それでも今夜だけは、どうしても一口だけ飲みたかった。酔うためではない、長い間、自分の声を殺してきた男への、ささやかな献杯だった。

    午前3時45分、オンエアランプが赤く灯った。

    折尾はマイクの前に座った。
    机の右端には局が用意した原稿が伏せられている。
    折尾はそれを見なかった。
    そして、いつもの声で言った。

    「こんばんは、折尾です。あるいは、おはようございます、という方が正しい時間かもしれません。AM3:45。今夜で、最後です」

    それだけ言って、折尾は言葉を止めた。曲紹介はしなかった。番組名も、作曲者も、タイトルも言わず、ただ音源の再生ボタンを押した。グリーグの『朝』が、深夜のスタジオに流れはじめる。

    調整室の空気がわずかに揺れ、ADが篠田を見る。篠田は何も言わない。別室で聴いている榊原も、モニターの前で身じろぎひとつしなかった。リスナーは、突然流れたクラシックに戸惑ったかもしれない。最後の夜に、説明もなく置かれた朝の音、それでも折尾は何も足さなかった。言葉のない音楽だけが、午前3時45分の夜に置かれていく。

    午前3時49分、曲がゆっくりとフェードアウトしていく。折尾はヘッドホンの内側で、その余韻を聴いていた。若い頃の自分が、胸の奥からふいに立ち上がってくる。

    地方局にいた頃、在京キー局への異動届を何度も出し続けていた頃、ニュースの中心に立ちたいと信じていた頃、自分の声なら届くはずだと思っていた。自分の言葉なら、誰かを動かせるはずだと思っていた。

    現実は、そんなに優しくなかった。

    折尾はいつの間にか、求められる声で話し、求められる表情を浮かべ、求められる怒りだけを差し出し、求められる沈黙だけを守る人間になっていた。折尾和希という人間は少しずつ削られ、折尾和希という商品になった。

    折尾は机の下の紙袋から缶ビールを取り出し、ほんの一口だけ飲んだ。苦味が喉を通る。うまいとも、まずいとも思わなかった。ただ、自分の中のどこかに長い間閉じ込められていたものが、少しだけ緩んだ気がした。

    余韻が消える。

    1秒。

    2秒。

    放送事故のような沈黙が落ちた。

    その沈黙のあと、折尾はゆっくりと話し始めた。

    「みなさん、改めてこんばんは。……いや、おはようございます、でしょうか。

    いま流した曲を、私は若い頃によく聴いていました。曲名は、今は言わないでおきます。知っている方は、もう気づいているかもしれません。

    知らない方は、知らないままでいいと思います。名前が分からなくても、届くものはありますから。

    若い頃の私は、よく折れそうになっていました。折れそう、というより、折られないように必死だった、の方が近いかもしれません。

    友人はいました。相談できる人もいました。話を聞いてくれる人も、それなりにいました。だから、ひとりぼっちだったわけではないんです。

    でも、ひとりじゃないことと、苦しくないことは、まったく別でした。相談しても、夜は明けなかった。励まされても、かえって惨めになることがあった。大丈夫だと言われるほど、大丈夫じゃない自分だけが、取り残されていく夜がありました。

    私は、邦楽も聴きます。洋楽も聴きます。歌手の声に救われたこともありますし、歌詞に助けられたこともあります。でも、歌でさえ届かない時がありました。言葉が、全部うるさく聞こえる夜があったんです。

    優しい言葉なのに、痛い。正しい言葉なのに、苦しい。励ましなのに、責められているように聞こえる。

    そういう夜が、私にもありました。

    その夜、昔付き合っていた人にもらったクラシックのレコードを、なぜか無性に聴きたくなりました。押し入れの奥から引っぱり出して、埃を払って、プレーヤーに乗せて、針を落としました。

    歌詞はありません。
    誰も、大丈夫だとは言わない。
    誰も、頑張れとは言わない。
    誰も、あなたは間違っていないとは言ってくれない。

    それが、ありがたかった。
    何も言われないことに、私は救われたんだと思います。

    今なら分かります。あの頃の私は、人の声を聴きたくなかった。

    人の声に疲れていた。
    人の評価に疲れていた。
    人の期待に疲れていた。
    人の正しさに疲れていた。

    だから、言葉のない音楽だけが、朝まで傍にいてくれたんです。何かを解決してくれたわけではありません。明日から強くなれたわけでもありません。ただ、その音だけは、私に何も求めなかった。

    それだけで、息ができた。

    この番組も、もしかしたら、そういう場所でありたかったのかもしれません。

    立派なことを言う場所ではなく。
    誰かを正す場所でもなく。
    前を向けと、無理に背中を叩く場所でもなく。

    ただ、この時間に目を覚ましてしまった人のそばで、余計なことを言わずに灯っている、小さな音のような場所。

    私は、そんな番組を作りたかったのだと思います。
    ……ずいぶん遠回りをしましたが。」

    午前3時52分。調整室のデジタル時計が、音もなく数字を変えた。篠田は腕を組んだまま、ガラス越しに折尾を見ていた。ADは、メッセージ欄の動きに目を奪われている。次々と届く言葉に、誰も反応できない。

    折尾は画面を見ない。マイクだけを見ていた。

    「ただ、ここは眠れない夜の片隅に、15分だけ置いておける場所です。私はこの番組を始めた時、この時間を罰ゲームのように思っていました。午前3時45分。誰も聴いていない。誰にも届かない。局の端に追いやられた人間に与えられた、短い空白。そう思っていました。

    でも、違いました。
    聴いている人がいました。

    コンビニのレジの奥で。
    タクシーの運転席で。
    病院のナースステーションで。
    誰もいないオフィスで。
    家族が寝静まった部屋の端で。
    明日が怖くて眠れない布団の中で。

    この声を聴いてくれている人がいました。メッセージを送ってくださった方。送らずに、ただ聴いてくださった方。途中で眠ってしまった方。最後まで起きていた方。

    ……..…ありがとうございました。
    これは、ちゃんと言わせてください。

    私は、誰かを救えるような人間ではありません。少なくとも、自分ではそう思っています。むしろ、ずっと自分の声から逃げてきた人間です。ニュースを読んでいた頃、私はいつも、正しい声を出そうとしていました。怒るべきところで怒り、悲しむべきところで悲しみ、驚くべきところで驚く。

    何も感じていなかったわけではありません。ただ、感じ方まで決められているような気がしていました。求められた温度で怒り、求められた深さで悲しみ、求められた秒数だけ沈黙する。気づけば私は、自分の声を仕事にしながら、自分の声をいちばん信用できなくなっていました。

    それでも声だけは、毎日、平気な顔で出し続けていたんです。画面の向こうで。マイクの前で。自分だけが、自分の声から遠ざかっていくのを感じながら。」 

    午前3時56分。残り時間は4分を切っていた。

    いつもなら、折尾はこのあたりで締めの時間を計算し始める。スポンサー名、番組名、自分の名前。秒数に合わせて、余韻を削り、言葉を整え、決められた場所へ着地させる。

    今夜は、違った。折尾は秒針を追わなかった。時間の中へ、自分の声をそのまま置いていった。

    「この番組で、少しだけ分かったことがあります。声は、正しいことを言うためだけにある訳ではありません。誰かの夜に、そっと置いていくためにもある。何も解決できなくても、ここに居ますと伝えるためにもある。

    今夜、この番組は終わります。それは、もう決まっています。終わることを、美談にするつもりはありません。寂しいものは寂しい。悔しいものは悔しい。納得できないことも、たぶん残ります。

    でも、終わるものがあるからといって、そこにあった時間まで消えるわけではありません。

    この15分は、確かにありました。私は、ここにいました。そしてあなたも、どこかで聴いてくれていました。それだけは、なかったことにはなりません。

    前向きになれない夜があっていいと思います。誰かの言葉がつらい夜もあっていいと思います。音楽だけで朝を待つ夜があってもいい。逃げたくなる夜があってもいい。何も決められないまま、ただ時間が過ぎるのを待つ夜があってもいい。

    それでも、朝は来ます。望んだからではなく、頑張ったからでもなく、ただ、時間が進むからです。だから今夜は、無理に強くならなくていい。答えを出さなくていい。明日の自分を、今日のうちに許さなくてもいい。

    ただ、この声が届いているあいだだけは、あなたがそこにいることを、なかったことにしないでください。

    私はここにいます。
    あなたも、何処かにいます。
    それだけで今夜は、十分だと思います。」

    時刻は午前3時59分、調整室を支配する空気がわずかに緊張を帯び、硬く澄んでいく。残された時間はあと1分、篠田は沈黙を守り、ADがキューを送る気配もない。折尾の言葉を遮ろうとする者は、そこには一人もおらず、別室のモニターを見つめる榊原だけが、膝の上で両手を固く握りしめていた。

    「それでも、できれば、朝までいてください。朝を好きになれなくてもいい。明日を信じられなくてもいい。希望なんて言葉が重たすぎるなら、持たなくていい。

    ただ、消えないでください。

    立派に生きなくていい。きれいに立ち直らなくていい。誰かに説明できる苦しみでなくてもいい。あなたの夜は、あなたにしか分かりません。だからせめて、その夜を、誰かに勝手に片づけさせないでください。

    私は今夜、最後に、自分の好きだった曲を流しました。曲紹介もしませんでした。たぶん、ラジオとしては不親切です。でも、どうしても最初に言葉を置きたくなかった。言葉の前に、朝を置きたかったんです。

    この時間を聴いてくれたあなたに、何かを言う前に。大丈夫だとも、頑張れとも、明日はきっと良くなるとも言う前に。ただ、朝の音だけを置きたかった。それが、今の私にできる、いちばん正直な挨拶でした。

    AM3:45。午前3時45分から始まる、15分間の短い番組。今夜で終わります。聴いてくださって、本当にありがとうございました。ここまでのお相手は、折尾和希でした。

    また、眠れない夜に。

    ……いいえ。

    いつか、眠れる夜に。」

    午前4時ちょうどを知らせる時報のあと、オンエアランプが消え、折尾はヘッドホンを外して机の上に置いた。スタジオには、しばらく誰の声も落ちてこない。拍手もなく、歓声もなく、誰もすぐには感想を言わなかった。

    折尾は原稿を読まなかった。番組をきれいに閉じることもしなかった。ただ、自分の声で最後の15分を埋めた。

    それでも端末には、メッセージが届き続けていた。

    《曲名、言わないの、ずるい。でも分かります。朝ですね》
    《励ましじゃなくて、音を先に置いてくれたのがよかった》
    《折尾さん、こんなに人間臭い人だったんですね》
    《いつも冷たいと思ってました。今日は、冷たいんじゃなくて、こぼさないようにしてたんだと思いました》
    《朝までいます》
    《最後の“いつか、眠れる夜に”で泣きました》

    午前4時03分、折尾は画面を見つめていた。救われたとは言えない、すべてが解決したわけでもない、番組は終わり、局の判断も変わらず、辞職願はまだ鞄の中にある。スポンサーとの関係も、きれいに片づいたわけではない。それでも今夜の15分は、確かに誰かのところへ届いていた。

    篠田がスタジオへ入ってきた。

    「最後まで面倒くさい番組だったな」

    折尾は少しだけ笑った。

    「すみません」
    「褒めてるんだよ」

    篠田は、伏せられたままの局の原稿を見た。

    「いい最終回だった」

    折尾は返事をしなかった、その言葉を受け取るのが、まだ少し下手だったからだ。

    そのあと、榊原が静かに入ってきた。社長としてではなく、スポンサーとしてでもなく、最後まで聴いていた、ひとりの人間として。

    榊原は折尾に向かって、短く頭を下げた。

    「最後まで聴きました」

    折尾も頭を下げる。

    「ありがとうございました」
    「こちらこそ」

    それ以上は言わなかった。

    謝罪でも、和解でも、結論でもない。ただ、あの15分を聴いた者同士の沈黙だけが残った。

    午前4時12分。

    折尾は片づけを終える。机の下の紙袋から、空になりかけた缶ビールを取り出したところで、篠田が目ざとく見つけた。

    「お前、飲んでたのか?」

    折尾は気まずそうに缶を握った。

    「一口だけです」
    「放送中にか?」
    「はい」
    「最低だな」
    「はい」
    「車は?」
    「置いて帰ります」

    篠田は呆れたように息を吐いた。

    「最後まで面倒くさい男だな」

    その顔は怒ってはいなかった。

    折尾は缶を捨て、鞄を肩に掛けた。鞄の底には、まだ辞職願が入っている。出すつもりで持ってきた紙切れ、逃げるために握りしめていた紙切れ、すべてを終わらせるための紙切れ。でも今は、その重さが少しだけ違っていた。

    終わらせるためではない。自分の言葉に責任を持つために、いつか差し出す紙なのだと思った。

    午前4時17分、折尾は局を出ることにした。

    始発までは、まだ時間がある。車は置いていくしかない、ファミレスで珈琲でも飲もう、そう思いながら折尾は放送局の玄関へ向かった。廊下の蛍光灯は相変わらず白く、さっきまで赤く灯っていたオンエアランプの残像が、まだ瞼まぶたの裏に残っていた。

    エレベーターを降りると、1階ロビーはひどく静かだった。

    警備員はいた。いつものように軽く会釈をしてくるだけで、何も言わない。受付の照明は半分だけ落ち、ガラス張りの玄関の向こうには、夜明け前の街がぼんやりと沈んでいる。東京の空は、まだ朝と呼ぶには暗い、それでもビルの隙間から覗く空の端だけが、ほんのわずかに白み始めていた。

    折尾は、玄関の前で足を止めた。

    なぜだろう、外があまりにも静かだった。車の音も、人の声も、深夜の街に残っているはずの雑音も、どこか遠くへ引いている。折尾は鞄の紐を握り直し、その静けさに背中を押されるように、ゆっくりと放送局の玄関の扉を開けた。

    (第9話 おわり)

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