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『チ。』と『進撃の巨人』は一文字も変わっていない。それなのに、今のほうが近い。

    はじめに 古くなるはずなのに

    時間が経つと、古く見える作品がある。映像の技術や価値観が時代と合わなくなり、かつて斬新だった表現も、その後に何度も模倣されれば見慣れたものになる。

    でも、ときどき逆の作品がある。『チ。―地球の運動について―』と『進撃の巨人』が、僕にとってそうだ。

    作品は一文字も変わっていない。それなのに、数年前より今のほうが近い。

    『チ。』のある言葉は、今では自分の身体について語られているように聞こえる。『進撃の巨人』で描かれた日常の崩壊は、もう完全なフィクションとして眺めることができなくなった。

    二作品が未来を予言していたのだろうか。たぶん、違う。

    作品のほうがこちらへ近づいてきたのではない。僕の人生と、僕たちが生きる時代のほうが、作品の中にずっとあった何かへ近づいてしまったのではないか。最近、そんなことを考えている。

    ※以下、二作品の内容には触れますが、結末そのものについてはできるだけ伏せています。

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    第1章 「全歴史が私の背中を押す」

    『チ。』で、僕が何度も思い出す言葉がある。

    「全歴史が私の背中を押す。」

    物語終盤の重要人物、ヨレンタが覚悟を決める場面で口にする言葉だ。僕がこの言葉から受け取ったのは、使命感と決意だった。

    自分より前に生きた人たちがいる。その人たちが考え、迷い、失敗し、それでも何かを次へ渡してきた。その積み重ねの先に自分がいるのなら、決断しなければならない瞬間に退かない。僕には、そう聞こえた。

    僕にとって、その「歴史」の一部は、これまで写真や映像を撮り続けてきた時間でもある。

    右目には昔の事故による重い後遺症が残っている。その経緯は少し前の記事で詳しく書いたので、ここでは繰り返さない。

    ただ、写真を撮るにも映像をつくるにも、僕は目を使う。痛みが強いと、撮影の途中でファインダーから目を離さなければならないことも多い。今もロキソニンを週に5日ほど飲みながら撮影している。

    ときどき左目で覗くこともあるが、基本的には右目を使っている。そして撮影のあとには、モニターを見続ける編集作業が待っている。

    それでも、まだ撮っている。

    だから今、「全歴史が私の背中を押す」という言葉は、初めて聞いたときよりも身体の近くで聞こえる。

    作者の魚豊さんが僕の人生を想定して、この台詞を書いたはずはない。でも、それでいいのだと思う。

    作品は、作者が意味を決めて、それを正しく受け取ってもらうだけの一方通行ではない。受け取る側にも、それまで生きてきた時間がある。その時間が変われば、同じ言葉が別の場所へ刺さることがある。

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    第2章 ある日、日常がなくなる

    『進撃の巨人』から僕が受け取ったものは、少し違う。最初に強く残ったのは、とても原始的な恐怖だった。

    昨日まで続いていた日常が、ある日突然なくなる。家が壊れ、無数の人が逃げまどう。そして主人公は、目の前で母親が巨人に食べられるのを見る。昨日まで当たり前だった世界が、ほんの短い時間で消える。

    『進撃の巨人』について考えていたとき、僕は半ば無意識にInstagramを開いていた。僕が関わっている支援団体のウクライナ人スタッフのストーリーズが目に入った。

    画面は、全面が黒かった。

    その上に小さな文字があった。英語だったのか、ウクライナ語だったのか、今では覚えていない。文字よりも、黒一色の画面のほうが強く記憶に残っている。

    その投稿で、彼女の実家がミサイル攻撃で失われたことを知った。僕はそのとき、フィクションの中で日常が突然消えることについて考えていた。その瞬間、現実の戦争が画面の中に入ってきた。

    そのあと、ほかのスタッフからも連絡が相次ぎ、その対応をしていた。しばらくすると、頭の片側を締め付けられるような感覚が始まった。それは半日以上続き、翌日の仕事中も、身体の一部が麻痺しているような感覚が抜けなかった。

    『進撃の巨人』は何も変わっていない。変わったのは、僕を取り巻く現実だった。

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    第3章 未来へ進んでいるのに、百年前とも地続きにいる

    AIが日常に入り込み、量子コンピューターや核融合など、少し前までSFの向こう側にあるように感じていた技術にも現実味が増している。その一方で、人間は今も塹壕を掘って戦っている。

    空では無人機が飛び、コンピューターが大量の情報を処理する。その下では、人間が土の中に身を隠し、砲弾を撃ち合っている。

    技術だけを見れば、未来にいる。戦争の風景を見れば、百年前とも地続きに見える。

    そんな世界を見ていると、『進撃の巨人』の「地ならし」も、以前とは違って見えてくる。

    僕が「地ならし」から感じたのは、政治思想としての何かというより、もっと原始的なリセット願望だった。

    世界がここまでどうにもならないなら、一度すべてを平らにして、最初からやり直せばいい。そういう誘惑だ。

    もちろん、僕が実際に立っているのはその反対側だ。僕が関わってきたのは、壊された場所を支え、失われた生活を少しでも取り戻そうとする側だった。

    それでも怖いのは、あの黒い画面を見た日、僕の中にも、短いけれど行き先のない怒りがあったことだ。

    「全部壊してしまえ」と思ったわけではない。それでも、人がそこまで行ってしまう道の入口が、以前より遠いものには思えなくなった。

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    第4章 背中を押す力は、正しさを保証しない

    『チ。』の「全歴史が私の背中を押す」という言葉を、僕は今も使命感と決意の言葉として受け取っている。それは変わらない。ただ、以前より気になることがある。

    背中を押されることと、正しい方向へ進むことは同じではない。『チ。』自身が、その危うさを描いている。

    ヨレンタは別の場面で、「信念はすぐ呪いに化ける」と語る。

    人を退かせない信念は、何かを成し遂げる力になる。同時に、その信念が人を危うい場所まで連れていくこともある。

    「全歴史が私の背中を押す」という言葉も、ただ明るい希望だけを語る場面に置かれているわけではない。覚悟を決めて前へ進むことと、その決断が何をもたらすかは、別の問題として残されている。

    そこまで考えたとき、『進撃の巨人』の「地ならし」が、まったく別の作品にある極端な出来事には見えなくなる。

    人を前へ押すものが、使命なのか。恐怖なのか。受け継いだ記憶なのか。傷なのか。そして、その力を持った人間は、どこで立ち止まるのか。

    『チ。』では、積み重ねられた歴史が人間の背中を押す。『進撃の巨人』でも、人間は歴史から逃れることができない。

    そう考えると、二作品は僕の中で「正反対の作品」というより、同じ問いの両端にあるように見えてくる。

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    第5章 作者が作品を完成させても、意味まで完成するとは限らない

    文学研究には「受容美学」と呼ばれる考え方がある。作品の意味は作者とテキストだけで完結するのではなく、それを受け取る人がどんな時代を生き、何を経験してきたかによっても変わる、と考える。

    ドイツの文学研究者ハンス・ロベルト・ヤウスは、受け手が作品を見るときに持っている時代や経験の枠組みを「期待の地平」と呼んだ。

    この言葉を知ったとき、僕が二作品に感じていた変化に、少しだけ名前がついた気がした。

    だからといって、作品は好き勝手に解釈していいという話ではない。作者が何を考え、作品が実際に何を描いたのかは、もちろん重要だ。

    そのうえでなお、作品には作者が書き終えた日に固定されない部分が残る。

    僕にとって「全歴史が私の背中を押す」が、身体の痛みとともに聞こえるようになったこと。『進撃の巨人』の日常崩壊を考えている最中、Instagramの真っ黒な画面から、現実の戦争が入ってきたこと。

    それらは作品の中に書かれていることではない。でも、作品を受け取った僕の側には、確かに起きたことだった。

    『チ。』の見え方を変えたのは、僕自身が生きてきた個人史だった。『進撃の巨人』の見え方を変えたのは、自分の人生だけではない。作品の外で動き続けた世界史でもあった。

    その両方を持って、僕たちは同じ作品の前へ何度も戻ってくる。

    作品は同じ場所にある。こちらが違う場所から見ている。

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    おわりに 一度きりではなく

    現実の戦争が、『進撃の巨人』の見え方を変えた。そしてこの記事を書きながら考え続けるうちに、『チ。』の「全歴史が私の背中を押す」という言葉まで、以前とは少し違って聞こえるようになった。

    地ならしは、一度ですべてを平らにする。つくり直すほうには、そういう一度きりの瞬間がない。

    酷いニュースが、ウクライナから毎週のように飛び込んでくる。そんなとき、まず座禅をする。ただ呼吸している身体だけを感じる。それから、目の前の仕事や支援活動に戻る。

    「全歴史が私の背中を押す」を、僕はずっと、決断の瞬間の言葉だと思っていた。ヨレンタにとって、あの場面ではたしかに一度きりの決断だった。

    でも今の僕には、少し違って聞こえる。

    退かないというのは、一度の大きな決断より、目を離したあとで何度でも戻ってくることのほうに近いのかもしれない。

    明日もたぶん、僕は一度ファインダーから目を離す。そして、もう一度覗く。
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    AIやアート、社会について、実際に見て、つくって、関わるなかで生まれた違和感を書いています。

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