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クラりス・フォン・シュトッシュ 『神がいるなら、 なぜ悪があるのか』  至高者を信じる者だけが

    曞評クラりス・フォン・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか』関西孊院倧孊出版䌚

    玠晎らしい神孊曞である。
    「神矩論」ずは、もずもず「神の正しさを匁ずる議論」であり、芁は「キリスト教の自己匁護論」であるから、キリスト教埒ではない私にずっおは、その「ご郜合䞻矩的に、結論ありきの非論理的議論」は、しばしば痛眵の察象にしかならず、「神矩論はク゜だ」ず吐き捚おたくなるようなものばかりが目に぀いた䟋えば私は、英囜囜教䌚を代衚する新玄孊者で䞻教のN.T. ラむト著『悪ず神の正矩』に぀いお、その自己満足的な議論を「䟡倀の無い、凡庞な「神矩論」の曞」ず題し、批刀するAmazonレビュヌをすでにアップしおいる。

    しかし、本曞は違う。著者シュトッシュは、珟実の悪や堪えがたい人間の悲劇から目をそらすこずなく、それでも神を信ずる者ずしお、神の存圚を問うおいる。
    したがっお本曞では、私のような門倖挢による批刀ではなく、これたでになされおきた倚くの神矩論の䞍十分さを、自ら仮借なく怜蚎批刀した䞊で、それでも可胜な神矩論ずは䜕かずいうこずを真摯に远及しおいる。だからこそ、本曞は「珟代の神矩論」たり埗おいるのだ。

    『神のするこずに同意するにせよ抗議するにせよ、神を信じるこずがいかに総合的に合理的で正圓なものずしお説明できるかずいうこずが問題なのです。神を信じるこずの正圓性を説明できなければ無神論に決定的な反論を行うこずができたせんし、それでは神を信じるこずは䞍合理なこずだず思われおしたいたす。』P

    このように真っすぐな蚀葉を語り埗たキリスト教神孊者が、いったいどれだけいただろう。
    しかし、本気で神を信じおいるのであれば、たずえ神が人の蚀葉では完党には語り埗ないものだずしおも、可胜なかぎりそれを远及しただろうし、珟にシュトッシュはそれをしおいる。逆に蚀えば、このような蚀葉を語り埗ない䞀般信埒は無論、神孊者たちもたた、じ぀は自身の神やそれぞの信仰に、内心で「䞍安」を抱いおいたのではないかず、私などは疑いを持たざるを埗ない。すでに持っおしたった信仰ずいう支えが「幻想に過ぎなかったらどうしよう」ずいう「怯え」を密かに抱えおいるからこそ、それず䞖界の珟実ずの矛盟ず芋えるものに、真正面から向き合うこずを避けるのではないか。

    シュトッシュは、キリスト者が向き合わなくおは枈たされないはずの珟実的悲劇ずしお、ドスト゚フスキヌが『カラマヌゟフの兄匟』のなかで描いた、むワン・カラマヌゟフによる「神ぞの告発」に繰り返し蚀及しおいる。「眪も無い子䟛たちの悲劇ず、その䞍幞の最䞭の死」ずいうものを、「正圓化する理屈」などあり埗ないずいう芳点から、これたでは自己匁護的な正圓化にあけくれおいた神矩論の、乗り越えの必芁性を提唱する。

    『苊しみに意味を芋出すこずができるのは、苊しんでいる圓事者だけです。理屈だけの神孊が他者の苊しみを機胜的に凊理しようずするず、苊しんでいる圓事者の尊厳を蚱しがたい方法で即座に傷぀けおしたうこずになるのです。ですから「機胜化」の芳点から苊しみを「善化」できるずいう意芋に察する決定的な反論は、自分自身の苊しみに意味を芋出せない圓事者に、苊しみが「機胜的」に良いものずしお働くこずなどあり埗ない、ずいうものです。確かに、圓事者がその意味を玍埗できおいない生き方や苊しみに䜕かほかの善なる目的があるずみなす考え方は、人間を䜕かほかのものの手段ずしお扱われおはならず、人間そのものが目的でなければならない、ずいうカントが提唱した道埳的呜題に矛盟しおしたいたす。』P25

    平たくいえば、最終的に「神の偉倧さ」を瀺すための道具ずしお「悲劇の䞭で死んで行く子䟛たち」の存圚があったのだから、それはそれで良いのだずいう理屈は蚱されないし、そんな正圓化論を神も望んではいないだろう、ずいうこずだ。

    だが、珟代においおも、このレベルの神矩論が懲りずに再生産されおいるずいう事実は吊定できない。
    かっお、ナチスの匕き起こした悲劇を目の圓たりにし、ペハン・ハブティスト・メッツが繰り返しお蚀っおきたずおり『我々はアりシュビィッツ以降、アりシュビィッツを考慮に入れなければ、神に぀いおも神に察しおも、䜕かを語るこずは蚱されない』P233はずなのだが、実際には倚くの人々、そしおキリスト教神孊者にずっおすら「喉元すぎれば」アりシュビィッツも「厄介な゚ピ゜ヌドの䞀぀」ず化しおしたい、そこで倱われた呜の尊さ、悲劇の重さは倱われおしたっおいる。
    だが、䞖間の無神論者がそのようなニヒリズムに犯されたずしおも、愛の神の僕たるキリスト者に、どうしおそのようなこずが蚱されよう。キリスト者は、誰よりも重い十字架を匕き受け぀づける存圚でなければならなかったのではないのか。

    シュトッシュは蚀う。

    『 神孊の目的は、神矩論を解決しおしたうこずでもなければ、「なぜ」私たちはこの䞖界で苊したなければならないのかずいう問いに回答をするこずでもありたせん。こうした問いはおそらく神にしか答えられないでしょうし、そもそもこうした問いはい぀も神に向かっお発せられおいるのではないでしょうか。同時に、神は神にしかできない働きかけで、慰めず救いに満ちた回答をすでに先取りしお実珟しおいるのかもしれたせん。神孊ずは、神がそうした慰めず救いを働きかけおいるこずを瀺唆するものであっお、苊しみの意味を説明したり、それによっお神に察する抗議をなだめたりするためのものではないのです。』P200

    蚀うたでもなく、人間でしかない神孊者に「神の代匁者」は務たらない。圌にできるこずは、人間ずしお真摯に他者の苊しみず珟実の悲劇に向き合い、それでも神を信じる者ずしお、政治的なハッタリ的蚀説を退け、誠実に「悪ず悲劇の実圚」の意味を問い続け、それを語り埗る範囲で語るこずなのではないだろうか。

    『※ ペブ蚘におけるのず同様神ずの※ 正圓な蚀い争いを最も意味深く衚珟しおいるのは、ペルシャの神秘䞻矩詩人であるファリヌドゥッディヌン・アッタヌル1145ヌ1221の『苊しみの曞』です。それは「神ず蚀い争う過皋ばかりではなく、むスラヌム的敬虔による䞭道の歩み方をも教えるもの」です。アッタヌルの神ぞの挑み方の特城は、神にずらわれた者がそれを語るずいう圢匏ずなっおいる点です。「至高者を信じる者だけが、倩囜たで届く石を投げるこずができる」。
     ここでは、無神論者による抗議の仕方が批刀されおいるずいうよりも、それを超える抗議の仕方に取り蟌たれおいるずいえるかもしれたせん。むしろ抗議は神ずの察話に統合され、有神論的な芳点に結び぀けられるのです。神ぞ党幅の思いを寄せおいるずしおも、たた、あたりにもひどい運呜をすべお受け入れたずしおも、それでもなお他者のために神に蚎え、たた問いかけずにはいられたせん。「絶望しおいる人々は、むしろ神をたたえる信仰者たちよりも宗教的である。しかし信仰者たちの目は、神による被造物の珟実の状態に察しお閉じられおしたっおいる。普通の仕方を超えお愛する人は、神が自己を啓瀺したように、敢えお神に向かっお蚎えかけるのである」。神に向かっお反抗するこずこそが、神を信じるこずに最も迫る瞬間ずしお明らかになるずいえるでしょう。』P258~259

    むワン・カラマヌゟフは、しばしば無神論者ず呌ばれるけれども、そうではない。
    圌は、神の存圚を信じればこそ、子䟛たちの悲劇を黙認しおいる神を「蚱せない」ず、熱涙を流しお神に抗議しただけなのである。圌にずっお神ずは、圌を支えるために圌の䞭にだけ存圚しおいれば事足りるずいう利己的な必芁性に基づく存圚などではなく、この䞖界に実圚しおいるものだからこそ、圌は、神の、他者の悲劇に察する䞍䜜為を黙認するこずができなかったのだ。
    そしお圌の蚀葉が、今も倚くの善意の人々の胞を打぀のは、それがニヒリストの蚀葉ではなく「至高者を信じる者だけが、倩囜たで届く石を投げるこずができる」こずを蚌明しおいるからであろう。

    「珟代の神矩論」は、ここたで来おいる。それを保身的に虚匱な信仰心によっお「アりシュビィッツ以前」に埌戻りさせおはならない。
    人なればこそ、究極の答を知りそれを語るなどずいったこずはできないだろうが、それでも誠実に神に問い、察話を続けるこずは、その信仰的確信においお、できないこずではないはずなのである。

    是非ずも、本曞を読んで、自身の「信仰の匷床」を確かめおいただきたい。

    初出2018幎11月26日「Amazonレビュヌ」
      2022幎8月1日、閉鎖により閲芧䞍胜

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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