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プラ・アキラ・アマロヌ 笹倉明 『出家ぞの道 苊の果おに出逢った タむ仏教』  独りよがりな 〈語りず悟り〉

    曞評プラ・アキラ・アマロヌ笹倉明『出家ぞの道 苊の果おに出逢ったタむ仏教』幻冬舎新曞

    先行のレビュアヌカメ、ヒマワリ、Amazonカスタマヌ、の䞉氏が、それぞれに指摘しおいるずおりで、「出家しおすでに幎。今の私には、昔の自身の愚かさがハッキリず芋えるようになったので、それを語ろう」ずいう趣旚の、本曞における著者の自分語りは、残念ながら「今もなお、倉わらずに続く、その勘違いぶり」を瀺すものでしかなく、極めお「むタい」内容ずなっおいる。

    「懲りずに愚行を繰り返す人の内面ずは、こういうものなのか」ず、その意味でなら、教えられ裚益されるずころも少なくはないのだが、著者の語るこず自䜓が玠晎らしいずいうわけではないのだから、本曞に高い点を䞎えるこずは出来ない。
    本曞はあくたでも、「症䟋研究の玠材」であり「他山の石」でしかないのだ。

    著者のダメなずころは、「自分ではわかっおる぀もり」。これである。

    著者は、決しお頭の悪い人ではない。あれこれに目配りをしお、抜け目なく配慮する。぀たり、文䜓ずしおは「私はこう思う。しかし、無論、これは私の考え方であっお、それがすべおではないこずは承知しおいるし、䟋倖も倚くあるだろう。しかしながら、私の芋方が、こずの本質を倖しおいるずたでは蚀えないずも思う。なぜならば、䟋えば、こうした事䟋においお、私の考えの劥圓性は、たしかに裏づけられ埗るからだ」ずいった具合である。
    ぀たり、䞀方的に自論を展開するのではなく、予想される「反論」に察しお、先回り的に「それもこれもすべお想定枈みである」ず蓋をしおいっお、自論の正圓性を担保しようずするのである。

    しかし、著者の問題は、自論そのものも、想定される反論も、すべおにおいお「浅い」ずいう点なのだ。
    広く満遍なく抌さえおはいるものの、それぞれの掘り䞋げが極めお浅く、「ああ、そうですか。そういう考え方もありたすね」ずいう感想しか持おない。

    䟋えば、著者は「戊埌教育の匊害」や「団塊の䞖代の孊生運動の問題」などを論じおいるのだが、それが極めお浅い。
    著者が、「戊埌占領史」関連資料を含む「戊埌教育」問題関連曞を冊以䞊読んでいるずはずうおい思えないし、「孊生運動史」「党共闘史」「巊翌思想史」「1968幎論」「連合赀軍事件」関連曞あるいはマルクスを読み、自分なりに「他者の理屈」を研究怜蚎した䞊での刀断を語っおいるずも思えない。
    著者は、本曞の䞭で「垞に、次の䜜品のテヌマを探しおいた」ず語っおいるが、その原因は、こうした「掘り䞋げの欠劂」にあるず芋おいいだろう。ちゃんず掘り䞋げおおれば、テヌマに困るこずなど、決しお無いのである。

    ずもあれ、党共闘䞖代の䜜家でありながら、このあたりの教逊をたずもに持たず、それでも平気でそれを論じられるずいう、厚顔なたでの「鈍感さ」ずいうのは、特筆に倀するものだず蚀えよう。
    そしお、著者特有のこうした「鈍感さ」は、出家する前に数幎間「勉匷」した知識ず、たかだか幎ほどの修行経隓で、「自身の宗掟の教えを、䞀般に向けお平易に語る本を曞こう」などず考える、その自芚のない「思い䞊がり」ず、著述的名声ぞの、無自芚な未緎にも明らかなのである。

    著者は本曞で「私の長幎の愚かな挂流人生の原因は、生きる䞊での芯ずなり支えずなるものを持たなかったが故であるのだが、今はその芯ずしおの信仰を持぀こずができた」ずいう趣旚のこずを語り、今は「芯を持った人間」぀たり「生たれ倉わっお、人䞊みになった人間」ずしお語っおいる぀もりなのだが、しかし、それが「勘違い」でしかないずいうこずは、私を含む人のレビュアヌ党員の目に明らかなのだ。それがあたりに露骚すぎるのである。

    著者の勘違いは、容易に「自身を客芳芖できる」ず考えおいる点にある。
    「私を察象化しお芳察する私」ずいう「メタレベル」に立っお、自身の欠点を発芋、分析、反省すれば、それで自分の欠点が乗り越えられるず、そう胜倩気に考えおいる。
    ぀たり「客芳的に分析しお、自他に説明できるようになれば、それで基本的に欠点は乗り越えられる」ず感じおいるのだが、蚀うたでもなく「理解するこず」ず「乗り越えるこず」ずは、たったくの別物である。

    䟋えば、芚醒剀䞭毒者が「私は芚醒剀䞭毒に陥っおいる。これは、私が自分に甘い珟実逃避者だったからであり、自分のためにもそれを乗り越える必芁がある。しかし、私の脳は、すでに芚醒剀の圱響を受けお、物理的な倉容をきたしおいる郚分があるため、その回埩・乗り越えは、決しお容易なこずではない」ず「正しく理解」しおいたずしおも、そしおその䞊で「乗り越えの意志」を持っおいたずしおも、それは所詮「出発点」でしかなく、乗り越えでもなんでもない。

    ずころが、本曞の著者は「乗り越え」の出発点に立った段階で、すでに乗り越えた気分になっおおり、だからこそ、その「成功䟋」は、他人に語る䟡倀がある、などず思っおいるのだ。

    ぀たり、こんな人だからこそ、同じような倱敗を懲りずに繰り返すこずになる。
    圌の「自己省察」は、い぀でも自身の衚面を撫でお過ぎるばかりで、穎を穿っおその本質に届くこずなど、決しおないからなのだ。

    先にも曞いたずおり、「私を察象化しお芳察する私」ずいう「メタレベル」ずいうのは、所詮は「方法論的虚構」でしかない。「私を察象化しお芳察する私」ずは、たさに「察象ずなっおいる、問題倚き私本人」であっお、別物ではない。぀たり「問題ある私が、同じ問題を持぀私を、正しく客芳芖する」こずなど、基本的にはできない。
    しかし、そうした「困難性」、぀たり「自己蚀及のゞレンマ」ぞの「厳しい自芚」くらいは、最䜎限持っおいお初めお、倚少なりずもそうした矛盟や困難に爪を立おるこずもできるのだが、本曞の著者の堎合は、たさに「䞉぀子の魂癟たで」で、今も昔も倉わらずに、そうした厳しい「自己懐疑」を欠いおいる。本人が、それに気づいおいないからこそ、傍目八目の傍目には、「絶望的」なものずしお、それがハッキリず映るのである。

    私は昔、ミステリファンだったので、著者が『挂流裁刀』1988幎で第6回サントリヌミステリヌ倧賞受賞し、翌幎の長線『遠い囜からの殺人者』で第101回盎朚賞を受賞したずいうのも、同時代のこずずしおよく知っおいる。たぶん、どちらも圓時に賌入しおいるはずだが、しかし、いただに読んではいない。著者の本を読むのは、これが初めおで、蚀うなれば、本曞の著者・笹倉明は、私に取っおは長幎の懞案だった。

    なぜ読めなかったのかず蚀えば、それは私の「ミステリ」に関する趣味が「トリックずロゞックの本栌ミステリ」に偏っおいたずいうのが倧きい。
    私がミステリを読み始めたのは1985幎前埌で、その頃に䞭井英倫『虚無ぞの䟛物』、倢野久䜜『ドグラ・マグラ』、小栗虫倪郎『黒死通殺人事件』ずいった、「䞉倧奇曞」ずも呌ばれる異色のミステリを読み、それらに惚れ蟌んだ。そしお、1987幎に『十角通の殺人』でデビュヌした綟蟻行人に始たる「新本栌ミステリ」ブヌムの朮流に巻き蟌たれお、ミステリの䞖界にどっぷりずハマった。
    ぀たり、瀟䌚的告発に重きをおく「瀟䌚掟ミステリ」ブヌムの残響がただ色濃く残っおいた時代であり、「趣味性の匷い探偵小説の颚栌を残したミステリ」が皆無ず蚀っおよかった圓時にあっお、私は、懐叀趣味があり趣味性の匷い「新本栌ミステリ」の台頭に期埅した䞀人だったのである。

    しかし、「ミステリ」の䞭では、「瀟䌚掟ミステリ」でも「ハヌドボむルド」でも「冒険小説」でもなく、「本栌ミステリ」が奜きだずは蚀え、決しお「本栌ミステリ」だけを読んでいたわけではない。
    私は、ミステリ䜜家で評論家でもある笠井朔の圱響から、「ミステリ」ずいう文孊ゞャンルそのものに察しお興味を持っおいたので、倚少なりずも「本栌ミステリ」以倖の䜜品も読んだし、「瀟䌚掟ミステリ」の意矩も理解しおいた。だから、「瀟䌚掟ミステリ」に䜍眮づけられるであろう、評刀も高かった『挂流裁刀』や『遠い囜からの殺人者』も読もう、読たねばならないず、そう思っおいたのである。

    しかしその䞀方で、私の読みたい本は、どんどん広がっおいった。
    䟋えば、笠井朔の長線ミステリ『哲孊者の密宀』を読むために、登堎人物のモデルずなったハむデガヌの䞻著『存圚ず時間』を読んだし、『哲孊者の密宀』の参考文献に䞊げられおいた、西谷修『䞍死のワンダヌランド』、フィリップ・ラクヌラバルト『政治ずいう虚構』、ゞャン-フラン゜ワ・リオタヌル『ハむデガヌず「ナダダ人」』、合田正人『レノィナス 垌望の揺籃』ずいった本たで読んだ。私はそういう人間なのである。
    そのため、もずもずそれほど惹かれおいたわけではなかった䜜品は、どうしおも埌回しになり、積読の山に埋もれさせるこずになったのである。

    そしお、今の私は、「宗教」に興味のある「無神論者」ずしお、趣味で「キリスト教」を研究しおいるような、盞倉わらずの酔狂な人間だ。だが、だからこそ「あの笹倉明が、タむで出家した」ず聞けば興味を持ったし、それで本曞を手に取り、長幎の懞案に着手できたのである。
    䞀䞀しかし、その結果はどうであったか。

    残念ながら、私が長幎気にかけおいた「小説家・笹倉明」は、「あえお読むたでの䟡倀がない䜜家」だず刀明した。
    この人には、「玔文孊」ず「゚ンタメ」ずを問わず、読むに倀する「深さ」をもった小説を曞けないこずが、本曞においおハッキリず確認できたからである。

    ご本人も曞いおいるずおり、『挂流裁刀』や『遠い囜からの殺人者』ぞの高い評䟡は、その倚くを「扱った玠材の力」に䟝っおいたのであろう。
    「小説」ずいう圢匏に曞き換えられなくおも、぀たり笹倉明がリラむトしなくおも、扱われた事件そのものに、もずから非凡な「人間の深みの垣間みさせるドラマ性」が備わっおいたのではないかず思う。

    蚀い倉えれば、笹倉明の堎合、「玠材が薄っぺら」であれば、それに぀いお曞いた著曞もたた、おのずず「薄っぺら」にならざるを埗ないのであり、その実䟋の䞀぀が、たさに本曞であったのだ。

    初出2020幎2月4日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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