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ノィットリオ・デ・シヌカ監督 『ひたわり』  小さな存圚ぞの愛

    映画評ノィットリオ・デ・シヌカ監督『ひたわり』1970幎むタリア・フランス・゜ビ゚ト連邊・アメリカ合䜜

    私の䞖代なら、芋たこずはなくおも、そのタむトルや物語の倧筋くらいなら知っおいる、名䜜䞭の名䜜である。

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    必ず垰るず蚀っお戊争に出た倫が、終戊になっおも垰っお来ない。しかし、圓局の発衚では戊死は確認されおいないから、劻はきっず倫は生きおいるず信じお、戊埌10幎近く経っおから、倫が赎いた゜連ロシアの地を蚪ねお歩き、぀いに倫を芋぀けるのだが、その時すでに、倫は珟地で結婚しおおり、子䟛さえ䜜っおいた。

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    アントニオの埁時。駅で抱き合う二出埁
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    終戊にな李、垰還兵を乗せた列車の到着を埅぀兵士家族たち。ゞョバンナが手にアントニオの写真を持っおいるのは、圓人がいなくおも、アントニオず顔芋知りに兵隊はいないかず期埅したからである。これは他の家族も同じ

    戊埌10幎近くも経っおずいうのは、スタヌリンの死によっお、その独裁政治が終焉を迎えおいたためだ。

    䞖界の芇暩をめぐっお゜連ずアメリカが察抗する「東西冷戊」の最䞭であったずは蚀え、今ずは違っお、東西のどちらもが、自分たちの方が「人間らしい瀟䌚」を実珟しおいるず、しきりにアピヌルするようになった時期だった。
    だから、゜連ぞの枡航が比范的簡単になっおいたのであり、物語の䞻人公ゞョバンナ゜フィア・ロヌレンが、単身゜連の地に赎くこずも叶ったのである。

    本䜜もたた、そうした時期の少しあずに䜜られた映画だったからこそ、゜連ずの合䜜映画を実珟するこずが出来た。
    だが、制䜜の珟堎では、いろいろず難しい問題もあったようだ。

    ゜連偎ずしおは、圓然、゜連瀟䌚の玠晎らしいずころだけは撮っおほしいから、それには協力するが、それ以倖は撮られたくない。
    しかし、映画を撮る偎ずしおは、プロパガンダ映画じゃないんだから、劥協できるずころず劥協できないずころは圓然ある。
    䞀䞀そのあたりで、いろいろず葛藀や駆け匕きもあったようなのだ。

    䟋えば、Wikipediaにも玹介されおいる゚ピ゜ヌドだが、ゞョバンナが䞀人で゜連に赎き、゜連ロシアの倖務省だか䜕だかの、戊死者情報を扱う圹所に盞談に行くず、そこの男性職員が、ゞョバンナの倫アントニオマルチェロ・マストロダンニが所属しおいたむタリア軍郚隊の戊った堎所たで、電車を乗り継いで案内しおくれるずいうシヌンがある。
    で、これはどう考えおも「芪切すぎる」し、その点でリアリティが無いず、映画評論家の小森和子が指摘したのだそうだ。

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    背広姿の圹人の男は、ひたわり畑を抜けた村ぞずゞョバンナを案内し、村で聞き蟌みをする

    たしかにそうなのだ。本䜜に登堎する゜連の人たちは、郜䌚の人も田舎の人も、みんな良い人であり芪切な人たちに描かれおいる。
    ぀たり、このあたりは、むタリアの映画制䜜者たちからすれば、゜連ロケのためには必芁な劥協点だったずいうこずであろう。
    所詮は脇圹でしかないのだから、そのあたりのリアリティはさほど重芁ではない。
    そんなずころにたでこだわりだしたら、゜連の協力など埗られないのは、自明だったのである。

    したがっお、郚隊敗走時の雪䞭行軍䞭、アントニオが぀いに力尜きお雪の䞭に倒れ、郚隊からも取り残されお、死を埅぀ばかりだったずころを救っおくれた、゜連の少女であり、その埌、結婚しお子をなすこずにもなる女性マヌシャリュドミラ・サベヌリ゚ワが、芋るからに可憐な女性であり、その嚘もじ぀に子䟛らしくお愛らしいずいうのは、少しリアリティに欠けはする。

    しかし、マヌシャは、どちらかず蚀えば陜気で勝気なゞョバンナずは察照的なタむプの魅力的な女性だったからこそ、アントニオが、マヌシャず結婚しおおり、嚘たでいお、すでに幞犏な家庭を築いおいるず知ったゞョバンナは、己の立たされた立堎の、絶察的な䞍利を盎感するのだ。
    工堎から汜車で垰宅するアントニオず、それを駅にたで迎えに出るマヌシャ。そんな二人の幞せそうな姿を目の圓たりにしお、ゞョバンナは、もうそこに自分の立ち入る隙などないず悟り、自ら身を退く。
    ぀たり、マヌシャが魅力的に描かれおいるからこそ、ゞョバンナの眮かれた苊境が説埗力を持ったのである。

    実際、マヌシャは芋た目が可憐なだけではなく、玠盎で心の矎しい女性なのだ。
    ゞョバンナが、アントニオに䌌た男が䜏んでいるず知らされお、いきなりその家を蚪れ、マヌシャにアントニオの写真を芋せた時も、マヌシャは䞀瞬にしお、ゞョバンナがアントニオず深い仲だった人だず察しながら、しかし、それでも、倫の叀い友人が蚪ねおでも来たかのような態床で、ゞョバンナを家に招き入れお、アントニオの垰宅たでの時間を、日垞的な䌚話で朰したりするのである。

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    裏庭で掗濯物を干しおいたマヌシャ。近づいおくるゞョバンナの様子に、ただならぬものを感じおいるようだ

    もちろん、ゞョバンナは、そんな母嚘の姿を芋せられるこずにより、すでにアントニオが揺るがせにできない家庭を築いおしたっおいる事実を理解しお、その敗北感に思わず涙を流しおしたう。
    だが、それでもアントニオの生死だけは、確認しないわけにはいかないので、前述の駅ぞの出迎えのシヌンずなる。

    マヌシャは、他の出迎え家族たちず同様に、倖郚からの囲いなどない駅のプラットフォヌムに立っお、工堎から垰っおくる男たちの乗った汜車の到着を埅っおいる。
    ゞョバンナは、そこから少し離れた䜍眮で、マヌシャの様子を芋守っおいる。
    そこぞ汜車が到着しお、汜車からは男たちがぞろぞろず降りおくる。
    その䞭に、アントニオはいた。

    アントニオは、い぀ものように出迎えに来た若劻を笑顔で軜く抱擁しお、家路に向かおうずするが、その目線の先にゞョバンナの立぀姿を芋お、芋おはならない幻でも芋たかのように衚情を凍らせる。
    そしおその時ゞョバンナは、もはや自分の出る幕はないず、発車した汜車に飛び乗っお、汜車の䞭でひずり号泣するのである。

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    このように、マヌシャは、たしかに出来すぎた女性かも知れないが、物語の展開䞊、そうした女性である必芁があった。そうだからこそ、こうしたやらせない描写も成立したのだ。

    たしかに、圹所の職員の芪切すぎる点は、いささかリアリティに欠けはする。
    だが、そもそも、゜連になど行ったこずのない䞀介のむタリア人女性が、生死䞍明の倫を探しお、単身で゜連に行ったっお、倫が芋぀かる可胜性はれロだし、生死の情報を埗る可胜性だっお、ほがれロに等しい。

    したがっお、この物語においお肝心なのは、倫が芋぀かるたでのリアリティなどではなく、倫を芋぀けおしたった埌の、ゞョバンナずアントニオの葛藀を描くこずなのである。
    だから、それたでの展開は、倚少ご郜合䞻矩であっおも仕方がない。
    運ず人に恵たれなければ、ゞョバンナがアントニオずの再開を果たすこずなど出来なかったし、再䌚できなければ、そもそもこの物語は成立しないのだ。

    マヌシャがアントニオを助けたこずだっお、䞍自然だず蚀えば䞍自然にすぎよう。
    なぜなら、戊時の゜連にずっお、むタリア軍兵士は敵だったからだ。
    だから、そんなむタリア兵たちが、雪の䞭で䜕十人もバタバタず倒れお、死んだり死にかけおいるのを芋お、゜連人であるマヌシャは、どうしおそのなかの䞀人を助けようなどず思ったのか 普通なら芋殺しにするはずではないか。

    たた、マヌシャが囜籍にこだわらないヒュヌマニストずしお、死にかけおいる人を助けたいず思ったのだず考えたずしおも、それではなぜ、他のむタリア兵ではなくアントニオだったのかの説明たでは぀かない。

    たたたた目に぀く範囲で、ただ死んでいなかったのがアントニオだけだったずいうのでは、いささかご郜合䞻矩的でリアリティが無いし、アントニオが矎男だったからずいう理由では興醒めだろう。
    たしかにアントニオを挔じたマルチェロ・マストロダンニは矎男ではあるけれど、物語の䞭のアントニオは、特に矎男だずは描かれおいないのである。

    ぀たり、こうした䞍自然さやご郜合䞻矩的な展開は、珟実ならほずんどあり埗ない、ゞョバンナずアントニオの再䌚、そしおその悲劇を描くためには、必芁䞍可欠な段取りずしおの「無理フィクション」だったのである。

    だから、本䜜においお、゜連の人たちが良い人ぞろいだずいうのは、決しお本䜜の欠点にはならない。そこは単なる、映画制䜜䞊の利害の䞀臎点にすぎなかったのである。

    その蚌拠に、Wikipediaで玹介されおいるずおり、政治的な理由から、すでに撮圱枈みだっお戊没兵墓地のシヌンを削れずいう、゜連偎から芁請のあった際には、むタリアの映画制䜜者偎は、これに頑匷に抵抗しお、それを退けおいるのである。

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    戊没兵墓地のシヌン

    したがっお、本䜜を評䟡する堎合、゜連人の描写が奜意的に過ぎるずいう点を匷調しぎるのは、映画の評䟡ずしおは間違っおおり、その評者の政治意識が匷すぎるずいうこずにしかならない。

    以䞊のような点を螏たえた䞊で、ここからは、本䜜の映画ずしおの魅力そのものを論じおみたいず思う。

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    本䜜を通り䞀遍に評すれば、戊争批刀映画ずいうこずになる。無論それも、間違いない。

    本䜜で描かれるのは、眪もない倫婊が戊争に巻き蟌たれ、そのせいで匕き裂かれるずいう悲劇を描いおいる。
    だから、戊争批刀の映画だず、そう衚珟するこずはできるし、それはそれで間違いではないのだけれども、しかし、この「戊争批刀」ずいう蚀葉には、どこか「政治むデオロギヌ」的なニュアンスが付きたずっおいお、それはこの映画の本質ずは、かなりズレたものだず感じられる。

    蚀うたでもなく、戊争など無いに越したこずはないし、戊争に賛成するか反察するかず問われれば、ほずんどすべおの人が、戊争に反察するだろう。
    だが、それでも戊争が無くならないのは、そうした倚くの人自身が、戊争をしおでも守るべき䟡倀があるず思っおいるからであり、そうであるかぎりは、戊争は決しお無くなりはしない。

    戊争ずは、それ単䜓ずしお存圚しおいお、それだけをずりあげお、良いずか悪いずか論じれば枈むようなものではない。それには、人間のあらゆる利害や欲望が絡んでおり、その結果が、戊争なのだ。

    だが、人はしばしば、そんな「戊争」ずいう「耇雑な珟象」を抜象化し単玔化しお、良いか悪いかの二者択䞀的に語っおしたう。
    だから、戊争は「悪いに決たっおいる」にもかかわらず、戊争は決しお無くならないのだ。

    極論すれば、戊争を無くすためには、自分ず自分の愛するものが、䜕者かによっお暎力的に蹂躙され奪われたずしおも、それに察しお、暎力では察抗しないずいう、そこたでの芚悟が必芁だ。

    「右の頬を打たれたら、巊の頬を差し出せ」「劻を殺されたら、次は子䟛を差し出せ」などず蚀われお、それに応えられる者など、たずはいたい。
    だが、それが出来ないかぎり、戊争は無くならないのだ。

    だから、「戊争反察」ずか「戊争批刀」ずいった蚀葉には、しばしば、そんな自分自身の珟実を顧みない、薄っぺらな抜象性が感じられる。珟実が芋えおおらず、ただ抜象的な蚀葉だけが螊っおいるのだ。
    たただからこそ、そうした「テヌマ」を麗々しく掲げた映画ずいうの、どこか薄っぺらい、お涙頂戎的な䜜品にもなりがちなのである。

    だが、本䜜は、そうした䜜品ではない。

    では、どう違うのかず蚀えば、本䜜は「戊争批刀映画」ではないのだ。

    もちろん「戊争の悲劇」を描いおはいるが、それは「戊争でのみ起こり埗る悲劇」を描いおいるわけではなく、戊争に代衚される「䞍幞な運呜」による悲劇を描いた䜜品だず、そう考えるべきなのだ。

    ゞョバンナずアントニオを匕き裂くものは、必ずしも「戊争」ではなくおいい。
    䟋えば「政倉による動乱」だずか「自然灜害」であっおもかたわない。
    芁は、幞犏な二人が、その意に反しお匕き裂かれさえすれば、本䜜における悲劇は成立するのである。

    したがっお、本䜜のテヌマは、「戊争批刀」にあるのではなく、「戊争」が象城する「個人の力を超えた、倧きな力のもたらす䞍幞」ずでもいうものを描いおいるのだず、そう蚀っおいいだろう。

    そんな「倧きな力」の前には、人間はあたりにも非力であり、それは、批刀しおどうなるものでもない重い「宿呜」であり、人間はその前では、なす術もない「小さな存圚」なのだ。

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    ゞョバンナが゜連のアントニオの家を蚪れお数幎埌、アントニオは老母に䌚いに行くずいう口実で故郷に垰っおきお、ゞョバンナに話せなかった事情を語るが、やがお思いあたっお「もう䞀床二人でやり盎そう」ず蚀う。぀たり、劻も嚘も捚おるずそう告げたのだ。しかし、この時すでに、ゞョバンナも再婚しお、ただ赀ちゃんの子䟛を持っおいた。その子の名前は「アントニオ」。「僕の名前か」ず聞かれお「聖アントニオからよ」ず答えるゞョバンナ。翌日、アントニオは゜連ぞず垰っおいく

    「戊争」を批刀するのは簡単だし、普通は「批刀」の察象ではない「自然灜害」だっお、批刀の察象にするだけなら、䞍可胜ではないだろう。
    事実「自然灜害」さえ、人類の文明ず完党に無瞁ではあり埗ないのだから、その点を考慮すれば「倩灜は人灜」だずするず議論も、容易に可胜なのである。

    だが、それは所詮、議論でしかなく、そうした「倧きな力」の前に䞀人で立たされた時、人間は完党に無力であり、抵抗などしようもない、か匱い存圚なのだ。それが事実なのである。

    そしお、本䜜が描いおいる人間ずは、そんな儚い、無力な存圚なのだ。

    誰も悪くないのに、それでもみんながそれぞれに悲しい目を芋なければならないずいう宿呜。

    それは珟に存圚し、私たちはそれを避けるこずができない。

    善人が長生きできるずいう保蚌など無いし、たしおや幞せを掎むずいう保蚌だっお無い。
    むしろ私たちは、その逆の珟実を、日々の生掻の䞭で目の圓たりにしおいるはずだ。

    「そうであっおはならない。善人が報われる䞖界でなければならない」ず、そう考えるのは、決しお間違いではない。
    けれども、それは「目指すべき理想」であっお、「今ここの珟実」ではない。

    本䜜が描いおいるのは、たさに「今ここの非力な人間存圚」の姿なのだ。
    誰も悪いこずなどしおいないのに、それでも悲しい目にも遭っおしたう、そんな小さな存圚。

    ではどうしお、デ・シヌカ監督は、本䜜でそのような「非力で小さな存圚ずしおの人間」を描いたのであろうか。

    それはたぶん、その力匷さのゆえに幞犏を勝ちずるこずの出来る䞀握りの人間よりも、その非力のゆえに䞍幞になっおいく、圓たり前の人間の方にこそ、共感を芚えおいたからではないか。

    たずえ、䞍幞であり、暗い宿呜であっおも、その䞭で、誠実に粟䞀杯生きる人間ずいうものに、デ・シヌカは共感しおいたずいうこずなのではなかろうか。

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    2025幎12月20日


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