
これは風変わりな一説なのだろうか|♯05意識
あなたは今、文章を読んでいる。
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文字を追い、
意味をつかみ、
次の行へ進んでいる。
その一つ一つには、
「わたしがやった」という感覚がある。
しかし、ある実験は、その感覚に疑問を投げかけた。
*
1980年代、
神経生理学者ベンジャミン・リベットは、
ある単純な動作を使って、
「人はいつ“動こう”と決めているのか」を調べた。
被験者に、
「好きなタイミングで指を動かしてください」と指示をする。
被験者は、
「指を動かそうと思った瞬間」を
時計の針の位置を使って報告する。
その間に、専門の機械によって、
脳の中で「指を動かしはじめる準備」が
立ち上がった瞬間を記録する。
つまり、
本人が「動かそう」と意識した時刻。
脳が指を動かし始める時刻。
実際に指が動いた時刻。
この三つを、調べたのである。
結果は、直感に反していた。
まず、脳が指を動かす準備をはじめた。
その約0.35秒後に、
「動かそう」という意識が生まれ、
さらにその約0.2秒後、
実際に指が動いた。
この衝撃的な結果に対して、
世界中の研究者が、その実験自体を疑い、
追試や改良実験を繰り返した。
しかし、
どの研究でも基本的な傾向は覆らなかった。
「動かそう」という意識が立ち上がるより前に、
脳はすでに動き始めている。
そのことが、
繰り返し確認されてしまった。
こうした実験を土台にして、
工学者の前野隆司は、ある仮説を提唱した。
「受動意識仮説」
わたしたちはつい、
脳内の活動を、意識が統括していると思いがちだ。
指を動かす。
考える。
行動する。
しかし、
実際に脳内で起こる無数の流れをすべて把握し、
すべてを制御できるかと聞かれれば、
それは不可能だと感じる。
では、
意識はすべてを決めているのではなく、
決まった結果を見て、
後からそれを「自分がやった」と感じている存在である、
そう仮説すると、どうだろう。
その方が都合がいいのだとしたら。
『私たちは、
脳という川の源流に立つ「操縦者」ではない。
無意識の活動が生み出した結果を、
自分がやったかのように、
下流で眺めている「傍観者」にすぎない。』
これが、「受動意識仮説」である。
これは、
風変わりな一説なのだろうか。
近年、
意識を「後付けの解釈装置」として捉える見方は、
多くの研究の中で、
いつのまにか前提になりつつある。
*
わたしは、もう、
驚きはしない。
ただ、そうなのだろうと、
その流れを眺めていた。
そこにあったのは、
たしかに、わたしのようでもあり、
どこか、わたしではないようでもあった。
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