
AIは、“考える”を代行するのか
AI時代の人間たち ⑤
最近、何かを調べる前に、 まずAIへ聞くことが増えた。
検索する前に要約。
考える前に整理。
書く前に構成。
便利だ。
しかも驚くほど早い。
昔なら、 何時間も悩みながら考えていたことが、 数秒で“それっぽい答え”になる。
もちろん、 それは素晴らしい技術なのだと思う。
でも時々、 少しだけ不安になることがある。
これは、 「考えるのを助けてもらっている」 のだろうか。
それとも、 少しずつ、 “考えることそのもの” を外部化し始めているのだろうか。
今の社会は、 「考えなくても済む快適さ」 で溢れている。
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何を見るか。
何を買うか。
どこへ行くか。
アルゴリズムが、 先回りして提案してくれる。
効率的だ。
でも同時に、 人間は、 「迷う時間」 を失い始めている気もする。
最近は、 SNS投稿も、 企画書も、 小説も、 AIが下書きを作れるようになった。
もちろん便利だ。
でも時々、 妙な感覚になる。
これは、 “自分が書いた文章” なのだろうか。
それとも、 “自分らしく生成された文章” なのだろうか。
僕自身、 流行りの短文プロンプトを真似て、 サクッと成果品を作るようなAI活用が、 どうも得意ではない。
もちろん、 それは合理的なのだと思う。
でも僕は時々、 まとまらない感情や、 説明しきれない違和感まで含めて、 長い言葉をAIへ投げ込んでしまう。
多分、 答えだけが欲しいわけではないのだ。
考えている途中の、 あの曖昧な時間ごと、 残しておきたいのかもしれない。
もう50年くらい前だろうか。
僕が小学生のころは、 今のような学習塾より、 そろばん教室の方がずっと多かった。
すでに電卓は存在していた。
今ほど小型でも安価でもなかったが、 「計算する機械」は、 もう生まれていた。
子どもながらに思っていた。
多分、 もう計算道具としての算盤は、 いずれ使われなくなるだろう、と。
実際、その通りになった。
でも、 一生懸命そろばんに取り組んだ人たちは、 少し違う力を手に入れていた。
暗算だ。
頭の中へ算盤を思い浮かべ、 玉を弾く感覚で、 四則計算を行う。
単なる知識ではない。
身体感覚として、 計算を身につけていた。
最近、 そのことを時々思い出す。
AIは、 人間より速く計算できる。
文章も整理できる。
情報も要約できる。
でも、 “考える感覚そのもの” は、 人間の中に残り続けるのだろうか、と。
自治会には、 70代後半になる、 昔ながらの「技術屋さん」たちがいる。
エンジニアというより、 その呼び方のほうが似合う人たちだ。
工業高校を卒業し、 高度経済成長の時代、 企業の技術部門で、 日本のものづくりを支えてきた世代。
残業100時間、200時間も珍しくなかった時代だ。
彼らが若かったころ、 今のように、 材料も、 パーツも、 便利なツールも揃ってはいなかった。
テレビはまだ真空管だった。
トランジスタが、 ようやく広がり始めた頃。
だから彼らは、 「無いこと」に挫けるより、
“今あるものを、どう使うか”
を必死に考えたという。
代用品を探す。
削る。
加工する。
組み合わせる。
失敗する。
その試行錯誤そのものに、 熱があった。
金属。
木材。
プラスチック。
どんな素材でも、 機械として成立させるには、 三角関数や微分積分の知識が必要になる。
でも彼らにとって、 それは“受験科目”ではなかった。
現場で機械を動かすための、 生きた感覚だった。
学問というより、 「心得」に近い教養。
身体を通過した知性。
今のAIは、 最短距離の答えを返せる。
でも人間は、 時々、 “遠回りすることでしか辿り着けない答え” を持っている。
迷いながら考える。
失敗する。
無駄な時間を過ごす。
答えの出ないまま悩み続ける。
そういう過程の中で、 人間は、 知識だけではない、 何かを育ててきた気がする。
もし未来、 人間が、
調べることも、
整理することも、
考えることも、
ほとんどAIへ委ねるようになったら。
人間に最後まで残るものは、 何なのだろう。
感情だろうか。
欲望だろうか。
孤独だろうか。
あるいは、 “うまく言葉にできない違和感” のようなものなのかもしれない。
AIは、 最短距離の答えを返せる。
でも人間は、 時々、 “遠回りすることでしか辿り着けない答え” を持っている。
だから今、 人間に必要なのは、 「AIを使わないこと」 ではなく、“どこまでをAIへ委ね、 どこからを自分で迷い続けるのか”を考えることなのかもしれない。
シリーズ「AI時代の人間たち」
第1話 AIと人間は、どこまで「わかり合える」のか
第2話 なぜ僕は、“効率的なAI活用”が苦手なのか
第3話 AIは、人間の孤独を埋めるのか
第4話 人は、「本物の感情」を求めているのか