
『🎙️Majiで無職(Mushoku)の14日前🎵』
One 2 Three 4 Five 🎵 思えば、
遠くへ来たもんだ…
この世に生を受け58年、『年齢なんて只の数字』なんて事もよく耳にするが、
単にそうとも言えないのではないかと
思う今日この頃。
此の島に住んで28年が経った、大学の卒業旅行で初海外。言葉も通じなかった。
それでも全てが新鮮で刺激をもらった。
とりあえずのハワイが、
憧れのローカルライフに変わった瞬間だった。
此の島を訪れた、多くの人が抱く『いつか此の島に住みたい』という思い。

感じた気持ちは今も、何一つ変わっていない。
大学卒業後、1年間は就職もせずバイトをしながら叶わぬ夢を追い求めた
『役者になりたいと…』
小中学校と8年間、子役として大人の中でお仕事をさせて頂いていた。
当時のゴールデンタイムの人気番組にも出演の機会を頂きそれなりに、順風満帆なキャリアだった…
高校受験を理由に、1年間現場から離れ
その期間に、中途半端に世間に顔を知られる事での理不尽な有名税から解放された心地よい生活。イジメ、嫌がらせ、裏切り、
制約の無い3年間を過ごし進学せずに、
その道への復帰も模索したが
状況に流され大学へ。大学に行きながらも、
役者としての復帰を模索し試行錯誤しやがて卒業。
就職を控えて己に問うて出した答えは、
逃げ道を絶っての期間限定1年間の本当に自分のやりたい事への挑戦。
子役時代 求められる需要と演じれる子供の数とのバランス、18歳、芸能界に憧れる若者の数と限られた席の奪い合い思うように行かない現実を知る。
夢みる夢男、気が付けば
『役者志望の30過ぎ』のその日暮らし
そうなる前に、己に言い聞かせた。
60過ぎれば、状況はきっと逆になる演じれる60歳の数とそれに対する需要。
諦めるのではなくタイミングをずらす賢さと…
人生の分岐点、己の進む道の選択
何をしたいのか?結婚、子供、家族。
そして、あの日からずっと思い続けていた
『憧れの此の島でのローカルライフ』
方向転換、舵を切った
レールを外れてみないと
違った景色は見られない
役者で食べていきたい、いける確率ーギャンブルみたいなもの運と実力+α
ハワイに住みたい、どちらがイケる確率高いか。
一目瞭然、諦める必要なし
5ヵ年計画 やり方次第
2年間で語学習得プラン、
日本国内の英語環境構築
ネイティブスピーカーと過ごせる環境、
メリットありきの友人関係
Give & Take 彼等の日本での生活のサポート、文化、言葉の壁そこから学べる写し鏡の己の未来のHawaiian Life.
外国人の医療機関訪問
住居問題、当時は外国人に貸してくれるオーナーさんはごく僅かだった。
車の購入、ローンの申請…お金の工面
きっと、己がアメリカに住んだら起こり得る
言葉の壁と文化の相違垣間見る、
最低限海外生活の衣食住に必要な語学力
移住に向けてのVISAそして永住権への段階的ステップ
ネットもない時代のアナログな方法で
数カ所のホノルルダウンタウン
弁護士事務所への初回無料相談
Tシャツ、短パン、バックパックのご迷惑な相談者 唯一 親身に相談にのって頂けたアジア系の先生なんの可能性も無い L-1ビザの勧め。
現実を知る、
されど見知らぬ誰かが既に叶えた夢
ならば、諦める必要なし
勝者になる一番のコツは勝つまでやる事と。
軽井沢での運命の出会い、ハワイの会社が日本初出店!視察に来ていた社長さんとの出会い、お願いするだけの2年間
3店舗目 博多出店後の売り上げ伸び悩み、
その店をなんとか立て直せば
VISAサポートありのオファー、
快諾、決断、転職、
見知らぬ土地 博多で一歩を踏み出す
120店舗中 坪効率でベスト10入りし
1年間のポジションキープが、
ハワイ行きの絶対条件
既存のスタッフの非協力、
地元意識、オープニングスタッフとしてのプライド結果で説得してもらう以外に方法無し
孤独な挑戦!結果なくしてVISAも無し
ワーキングビザ取得の為の売上成績、結果が全ての3年間。
ワーキングビザを取得して渡米、
タイムリミットは5年間
その間にグリーンカードの取得を模索、まずはワーキングビザの段階で結婚をして、奥様にL-2ビザ(企業内転勤者ビザの配偶者へのビザ)
を取得、これを先にしないと配偶者と同時に永住権を取得する事が困難なため、L-1ビザ(企業内転勤者ビザ)から1年間納税後の永住権申請を半年ずらしての申請へ 、
申請直後にアメリカに激震が走った。
9.11
テロ直後、移民局の審査が異常なほど厳格化され、全ての移民手続きが大きく変わり、全ての書類が、振り出しに…
$8,000の弁護士代は水の泡
当初申請後1年で取得可能と言われていた永住権取得までかなりの遠回りを余儀なくされる事に…予想外の出費と時間を費やす事になった。
結婚から5年後、愛する我が子に出会えた奇跡
37歳で父親に、夫婦からファミリーに…
メンバーが増えた!
守るべき者の存在、
男の背中が親父の背中になった
我が子の視線を感じ、恥じぬように、
カッコつけて生きていく覚悟。
身寄りの居ない異国の地、
頼れる者の無いサバイバルゲーム
主治医の誤診
この世に生まれて1週間、
新生児黄疸で緊急入院、
奥様は産後翌日退院が当たり前のUSA、
体調も回復していない状況
愛する我が子は、ライトに照らされプラスティックのケースの中
夫婦揃って、小児科の小部屋の鉄パイプの椅子をベッド代わりに1週間を過ごす事に…2005年オアフ島、育児休暇そんな制度は夢のまた夢!
職場と病室の鉄パイプの往復、
愛する2人は体調不良…
今となれば、思い出話。

まだまだ奇跡 そしてこれからも!
ワーキングビザからの流れでの月給は$2,500、家賃は$750 家族も増えて、当時その収入ではかなりギリギリのラインだった。
日本に7店舗、ハワイに7店舗と繁栄を極めていた会社にもなんとなく陰りが、見え始めていた頃、個人の事情を振り翳しての給料交渉は、己の選択肢にはなかった。
幸いにもその頃には、紆余曲折はあったものの永住権というカードを手にしていた僕には、職を変えるという選択肢があった。
此の島に住めるチャンスを頂いた恩義を感じながらも転職を決意して高級時計店へ。パートタイムで元の会社で勤めながらハワイあるあるの2ジョブに。
しばらくして、此の島への移住の機会を僕に与えてくれたRon さんの会社の幕は下ろされた。
今も感謝の気持ちを忘れた事はない。
あの出逢いがなければ、僕はきっと此の島に住めていない。
高級時計店の4年間、
収支も安定し此の島にも住めて
もう、このままで…と思っていた。
そんな時、
『将来は、どうしたいの?このまま此の仕事?何かやりたい事とか将来の夢とかは?』の問いかけに小中学校の頃から好きだったネイティブアメリカンのジュエリーと色々お世話になっていた日本の革物ブランドの社長さんの財布やBagを扱う店をやってみたいという願望があった。
『僕は、将来グリーンカードを取得してハワイに住みたい、お金は出資するから10年間その店をやって、貴方は店を僕はグリーンカードを…』
そんな、誘惑にまんまとハマった。
LLCで銀行口座開設、
多額の入金を目の前にその人の本気度を感じ
1年間 無償で新会社立ち上げの準備、店舗探し、インディアンリザベーションでの現地買付、
高級時計店販売員との二足の草鞋。
店は『OPEN 』したが、
半年後振り出した家賃の小切手が不当たり
一体何が?まだ、入金された金額の1/3も使っていないはず。
オーナーに電話、奥様が『旦那が閉所恐怖症になったから飛行機に乗れないので、現地視察に行きたいがいけないので送金出来ないから…』
ネットで、オーナーの名前を確認 居住地域 年齢 元お勤めの会社一致
『2社合わせて6億の横領、詐欺疑いで逮捕』の文字。
今ほどではないが、ネットで何でも知れる時代の幕開け。
3ヶ月間、無給で働く事に… 店舗を借りる際にオーナーが日本人でアメリカでの実態が何もない事からバックアップのサインを個人でしてしまっていた。連帯保証
家賃、生活費、幼稚園の月謝…
安定しかけていた収支は
僅か3ヶ月の無収入で 崩壊!
深夜2時帰り道のATMのレシートの残高は『$80』だった。
それ以上、其処にいる事は出来なかった。
色々な人に迷惑をかけた、不義理だった事は百も承知だ今も、申し訳ない気持ちを持って生きている…でもあの時は、そうするしかなかった。生き残るために。
儚い夢をみて、
金銭的にも人間関係もかなりのものを失い
その中で大切な出会いもあったのが、
今となれば救い。
再び、転職…またまた、甘い言葉に騙されて?
提示金額$5,000の半分の支給、倍の労働時間。
3ヶ月後、再び転職
郵便局で偶然再会した時計店の時のお客様
彼は若くして高級紳士靴店のオーナー、
店舗拡張の為 日本語を話せるスタッフを探していた。
翌日のランチ、即答、再び再就職。
座右の銘は『波乱万丈』
そこから15年間お世話になることに。
2019年4月1日エイプリルフール、耳を疑う様なメッセージが留守電に
『親父が…』父親の訃報 兄の声
突然の事に、言葉を失った。孫と路上で猛ダッシュしていた
去年の姿が、脳裏をよぎった。何故?
急遽、家族で帰国、葬儀、今思えばその頃から
若干の違和感はあった。母親、兄、妹、義弟 のテーブルに僕ら家族の席は無かった、
葬儀に駆けつけてくれた親父の姉と妹さん
と実家の近所のおばちゃんとテーブルを囲んだ。
その後、数ヶ月経ち母親からのとりあえずは時間がないから書類にサインだけして速達で返送してほしいとの依頼
相続問題、10ヶ月間という縛り
『悪い様にはしないから…』という母親の言葉
『誰かから、内容も分からない書類に署名を頼まれてもやたらとサインしちゃダメよ』と言われて育った幼少期
どちらの、言葉を信じるべき
2月のある日、迫るタイムリミット、
母親の言葉 迷いなく 書類にサインをする為にハワイの日本領事館へ
住民票のない海外居住者、印鑑証明の代わりになるのはサイン証明。
窓口の係の方の『内容が明確では無いですがこのままで大丈夫ですか?』
此の時点では、内容が無いのが内容状態
でも、それに応じるのが親の望みならば応じましょうくらいにしか思ってなかった。
しばらくして、日本から郵便物が届く
遺産分割協議書、その見慣れない書類に
目を通す。不動産、有価証券、等々 各項目の横には、
受け取る人間の名前が
己の名前を協議書の中に見たのは
己で記した署名のみ。
生前、父親が言っていた言葉を思い出した。
生後数ヶ月の我が子を連れての
日本への一時帰国
それには、理由があった。奥様のお父さん(義父)の体調問題だった。
付き合い始めて間もない頃に、彼女の父が癌だと知らされた。
その後、結婚し海外移住… 彼女から言葉で伝えられた事はないが、その状況での海外移住は、かなりの決断だったと思っていた。
その思いに向き合った時、
これから先の僕と我が子との時間
限られた我が子とおじいちゃんとの時間、
残された義父と奥様の時間
己の中の優先順位に迷いはなかった。
生後、鼓膜の形成。医師の許可を待っての、早急の日本への帰国。
数ヶ月の滞在、後半1週間を家族で一緒に過ごせるようにスケジュール調整して自分も一時帰国、帰りは空港まで僕の両親に送ってもらうことに、首都高速の渋滞の中
父親からの思いもしなかった言葉。
『こんな小ちゃい赤ん坊を連れてきて何か考えてるのか?』
『実家は、兄ちゃんに譲るからお前には何もないからな…』
産まれたばかりの、赤ん坊をネタに御涙頂戴大作戦で何かを
望んでいる様に見えてしまったのかも知れなかった。
今でも、あの会話は本当に現実だったのかと自身の記憶を疑う事がある。
でも、その車中のやり取りをうちの奥様も覚えている。
遺言があった訳ではないが、
母親からの『相続ゼロ 0』の告知
そう思えば、なぜか納得する部分もあった。
稼いだ人のお金の使い道
その人に選択の権利がある。
親元を母国を離れて二十数年、
遠くの身内より近くの他人とはこの事かと
ある意味納得するしか無かった。
彼らの孫は一人だけだ、
僕と孫に彼らが下した『Zero』の審判
二人して受け止めた!
人の想いは、お金では換算出来ないとも思う...
そうであってほしいと
今も、願う気持ちはあるけど
己の中で、何かが変わった。
何故、そうしたのか
その真意を確かめる前に2020年
母親も、帰らぬ人となった…
葬儀には参列出来なかった、
海外移住とは時に、こうなる事も覚悟の上
コロナ禍世間がその状況を許さなかった
今も心の中の何故は色褪せる事はない
ただ、心の何処かに置き去りにしておく事に決めている。
コロナ後とそれ以前とでは、全くと言って良いくらい、
此の島のマーケットは激変している
28年間、観光で行き来していた頃を含めたら
30年以上此の島に関わっている。
その間色々な事が起こった、戦争、テロ、感染症…
その度に色々な店がCloseし、企業が撤退し また新たなビジネスが
始まり…
今回のコロナに関しては、個人的には今まで以上の変化を感じている。
日本からの来訪者が激減し、アメリカからの日本への訪問者が激増して
いる気がする。
ニュースで見る限り、グアムサイパンもかなり変化が厳しそうだ。
ハワイは、まだ本土からの観光の人やカナダ、オーストラリアやヨーロッパからの来訪者がある分救われているような気がする。
15年間勤めた、高級紳士靴店もそんな転換期の中にあった。
基本給は、$17と14年前から変わっていなかった。
これプラス コミッション(売り上げに対する数%)で給料が
支払われるというのが、大概のアメリカの販売員の給料体系だ。
飲食であれば、基本給+チップというのが通常。
コロナ前は、それなりに売上がありコミッションが
あったので基本給が14年間据え置きだった事に、何も感じていなかった。
結果を残せば、それに伴い給料も上がった。
コロナ後の在庫も品薄、来店客も激減という現状の中、
高級時計店の勤務経験を聞きつけた、日本からハワイ進出へという
結構大きな会社の社長さんから、お誘いを頂いた。
靴屋のオーナーとの関係性も、自分的には嫌いではなかった。
まずはと思い、靴屋さんのオーナーに相談をした。
こんな会社から誘いをもらっているけど… 先方の提示してくれて
いた条件を聞かれた。
靴屋さんにしてみれば15年勤めている従業員
誘ってくれてる日本の会社からすれば、どこの誰かも分からない
ハワイの高級時計店の元店員…
15年間色々な局面を一緒に乗り越えてきた靴屋のオーナーからの
答えは、『じゃ〜うちもそれに揃えるから…』
15年間かなりの結果を残してきた自負はそれなりにあったし
数字が全てを語っていた。
同時にオーナーからの15年間の評価も
数字に現れた。そこにリスペクトや感謝その他の気持ちはなかった。
転職を決めた。15年お付き合い頂いていたお客様達との別れは辛かった。
そして、2年半が過ぎた今、
数ヶ月経って現地マネージャーのポジションを頂いた。
そして、半年後
日本にいるオーナーが、店のコンセプトの変更を決めた。
最初のジュエリーと高級時計店という形での営業は1年半で
形を変えた。オーナーの突然の決断だった。
最初のコンセプトで売り上げも初月に比較すれば4倍くらいになっていたが、オーナーが望んでいたのは6倍の数字だった。
きっと、僕の肌感では2年後には達成できる数字だった。
そのポテンシャルは十分にあった。
でも、そう判断する経営陣はいなかった。
店の内容が変わり、約1年営業。
今度の決断は、ハワイからの撤退だった。
コンセプト変更後の店の閉店、素晴らしい決断でした!
とお伝えしたい。
撤退準備、店舗の後片付け色々業務は残ってはいるが
会社からお知らせが来れば、2週間後には
『乙カレー🍛ライス』 それが此の国のルール。
僕が、ハワイに引っ越してきた当時50代だったハワイ在住の諸先輩方も
70代、80代になり、ハワイから日本へ戻る事を模索している方をかなり
多く見る今日この頃。医療費、生活環境、…理由はそれぞれ
憧れの此の島に住んで28年、今から20年後どんな決断を
僕はくだすのだろう。
そんな事を心の片隅に、
中学生くらいからずっと、やりたかったアコギ
コロナキッカケで5年前に中古で$120くらい己で誕生日に買い。
60歳になったら、
赤いギターを片手に路上で『宿無し』を
歌ってみたい。
70歳になったら、
12年前に我が子がキッカケで再度始めたヨーヨー、
世界大会にエントリー、本土に孫を連れて。
20代で、諦めかけた業界で
やり残した思いを、やり遂げたい。
振り返れば、世に認められるような大成功なんて一度も収めてないけど
まだまだ、やりたい事とやらなければいけない事
『Want』と 『Must』のバランスがアンバランスな58歳
でも、その前に向き合わないといけない、海外移住28年目58歳の現実。
今、目の前に新たな時の扉。
開けてみなければ、
その先の景色は見れない。
アメリカのルールで言えば、
解雇通知は2Week Notice
現状そのルールが厳守されるかさえも
定かではないが、お知らせが来たその日から、
『Majiで無職の14日前🎵』
この場面をどう切り抜けるのか、
自分で自分に期待しよう
いつか、此の現状を笑い話に出来るように
己を信じて、
愛する我が子の視線を背中に感じながら
目一杯、カッコつけて大人のBaby Stepを刻んでいくとしよう!
〜Keep Never Give Up Mind 〜