
【陶奔星霜】第7話「藍に魅せられて」1/4
──4月の土曜日。
瀬戸市の隣、尾張旭市。
春の風が、城山公園の桜並木をそっと揺らしていた。
満開の桜の向こうに、白い旭城が浮かぶ。

その下を、3年生になった陶揮、碧釉、颯太、翠の4人が歩いていた。
颯太は、背中のリュックを気にしながら何度も肩を回す。
明らかに重い。歩くたびに、ぎし、と嫌な音がする。
「……なぁ翠、このリュック、一体何が入ってるんだ?」
半ば悲鳴のような声で問うと、翠は涼しい顔で笑った。
「着いてからのお楽しみよ」
颯太は「絶対ロクなもんじゃない」と心の中で嘆きながら、
桜の下を歩き続けた。
やがて芝生の広場に着くと、
翠は颯太の背中からリュックを奪い取り、
中から次々と道具を取り出し始めた。
茶釜、風炉(ふろ)、茶杓、茶筅、棗(なつめ)、
そして和傘まで。
「……おい、これ全部入ってたのかよ……」
颯太は口を開けたまま固まる。
翠は満開の桜の下で和傘を広げ、
まるで絵巻物のような所作で野点の準備を整えていく。
「翠って……茶道できたの?」 碧釉が目を丸くする。
「裏千家で中級資格持ってるの。
許状(きょじょう)ってね、
段位じゃなくて“できること”に応じて出されるの。
私はまだ半人前だけど、野点くらいならね」
さらりと言う翠に、颯太は再び唖然とした。
「紅茶も抹茶も淹れられるなんて素敵……」
碧釉が感嘆の声を漏らす。
翠が点てた抹茶は、春の光を受けて鮮やかに揺れた。
尾張銘菓「不老柿」を添えて口に運ぶと、
シナモンの香りがふわりと広がり、桜の甘い匂いと混ざり合う。
陶揮は瀬戸黒の茶碗を手に取り、指先でそっと縁をなぞった。
「茶碗は持った瞬間に分かるんだよ。重さ、厚み、口当たり……
その人がどんな気持ちで作ったかまで伝わってくる」
碧釉が「陶揮、また始まった」と笑う。
陶揮は続けた。
「茶碗って陶器だから、焼くときに釉薬と素地の収縮率の違いで
細かいヒビみたいな模様 “貫入(かんにゅう)”が入るんだ。
でもあれは、ヒビじゃなくて“景色”なんだよ。
お茶を点てたり、手で触ったり、時間が経つほど色が染みていって、
その人だけの茶碗に育っていくんだ」
「茶碗を育てる……か」 碧釉が感心したように呟く。
「翠の抹茶は緑!」 颯太が突然しょうもないダジャレを放り込む。
「桜が散るからやめて」 翠が即座に切り捨て、碧釉が吹き出した。

春の空気の中で、4人は学校の近況を語り合った。
碧釉は吹奏楽部の部長になり、
「みんなをまとめるのが大変で……」と苦笑する。
「幡野先生は“無理なく楽しく”がモットーだからね」
陶揮が副部長らしい落ち着いた声で言う。
「でも舞ちゃんは違うんだよ。
“厳しくても質の高い演奏を”って考えているから、
幡野先生やみんなと意見が合わないことが多くて……」
碧釉が肩を落とすと、颯太が「分かるわ」と頷いた。
「あぁ……あの気難しい子だろ?
俺なんて、萩野(はぎの)と荻野(おぎの)を間違えてさ、
“萩野です!”って、めっちゃ睨まれたし」
「それは自業自得……」
陶揮と翠が同時に笑い、碧釉もつられて笑った。
萩野 舞(はぎの・まい)、
陶揮たちの同級生、木管セクションリーダーでオーボエを担当している。
その名前が出た瞬間── 桜の色がふっと変わったように感じた。
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私は萩野 舞(はぎの・まい)──
瀬戸中央高校の3年生。
どこにでもいる、目立たない子……自分でもそう思う。
中学の頃から吹奏楽部でオーボエを吹いていて、
高校でもそのまま続けている。
オーボエは、私にとって“呼吸の形”みたいなものだ。
私が1年生だった頃、忘れられない先輩がいた。
赤重 真吾(あかしげ・しんご)先輩。
縦にも横にも大きくて、どう見てもオーボエ吹きには見えない。
偏見だけど、トロンボーンとかチューバのほうが絶対似合う。
能天気な幡野先生が選曲した「ディスコ・キッド」をやったとき、
前奏のあとに「ディスコ!」と叫ぶ演出があったんだけど、
真吾先輩の声はどう聞いても「ドスコイ!」だった。

今日も真吾先輩は、意味のわからない歌を叫んでいる。
映画で軍隊がランニングしながら歌う、あのメロディで。
「公開処刑のチューニング~♪」
(処刑って言わないでほしい……)
「ピッチ(音程)がズレたら即死刑~♪」
(いや、死刑は重過ぎるでしょ)
「君のリードを貸してくれ~♪」
(嫌です、返ってこないんだもん)
「俺は止まらない赤信号~♪」
(止まってください……)
そんな愉快なパイセン……いや、真吾先輩は、
「俺はもうすぐ引退するから」と、
私に「エルザの大聖堂への行列」の1stを任せてくれた。
「エルザの大聖堂への行列」という曲は、
リヒャルト・ワーグナーの歌劇『ローエングリン』の中で、
エルザという少女が、冤罪から救ってくれた
騎士ローエングリンと結婚するために、
大聖堂へ向かって歩いていく場面の音楽だ。
城の鐘が遠くで鳴り、街の人々が祝福の声を上げる。
白い衣をまとったエルザは、ゆっくりと、ゆっくりと、
光の中へ歩いていく。
その足取りを包むように、オーボエが静かに旋律を奏でる。
最初は祈りのように細く、やがて希望の色を帯びて、
大聖堂の扉が開く瞬間には、金管楽器が大きく光を放つ。
──でも、原作ではその行列は途中で止まる。
敵役オルトルートが、「その男を信じるな」と叫び、
エルザの心を揺さぶるからだ。
祝福の行列が、一瞬で不安に染まる。
カイリエ編曲の吹奏楽版ではその“中断”は描かれない。
だからこそ、あの曲は“純粋な幸福の行進”として演奏される。
私は期待に応えたくて、必死に練習した。
中学1年からオーボエを吹いているし、
個人レッスンも受けているから、技術には自信があった。
でも、真吾先輩から返ってきた言葉は意外だった。
「う~ん、整ってはいるけど、なんというか、
君の音には色が無いんだよね。
結婚式じゃなくて、まるで葬式の行列みたい。
白黒の垂れ幕がドーン!みたいな。
嬉しい気持ちはどこ行っちゃったの?って感じ。
もっと、舞ちゃんの色を出してもいいと思うよ」
……色。
私だって分かっている。
あの美しい旋律の奥には、エルザの揺れる心が隠れていることを。
だからこそ── オーボエのソロは、ただ綺麗に吹くだけじゃ足りない。
祈りと希望と不安が全部ひとつになって、大聖堂へ向かう足音になる。
それはそうと── “私の色”って何?
誰も教えてくれない。
自分でも答えが見つからないまま、真吾先輩は引退していった。
1年生の文化祭で吹いたエルザ。
私なりに仕上げることはできたと思う。
でも、その5か月後──
本当に葬式の行列に並ぶことになるなんて、思っていなかった。
私には2つ年上の姉、澪(みお)がいる。
しっかり者で、優しくて、私の手をいつも引いてくれた人。
その姉の恋人──国府院 誠磁(こういん・せいじ)さんは、
大学に入る直前、18歳という若さで亡くなった。
原因は水死。
キャンプ場の川で溺れかけていた男の子を助けるために飛び込み、
男の子は助かったのに、誠磁さんは帰ってこなかった。
私は喪服を着て、両親と姉と一緒に葬儀に向かった。
胸の奥がずっと冷たいままだった。
誠磁さんには弟がいる。
私の同級生で、吹奏楽部でトランペットを吹いている
国府院 陶揮(こういん・とき)くん。
彼は一睡もしていないような顔で、唇を噛みしめて立っていた。
あのときの陶揮くんの表情は、今でも忘れられない。
姉はその姿を見つけると、
まるで何かに突き動かされるように歩き出した。
嫌な予感がした。
「……国府院 陶揮くんだよね? あなた、誠磁の弟でしょ?
目の前で見てたんだよね? どうして止めてくれなかったの?」
声が震えていた。
でも、怒りと悲しみが混ざって、刃みたいに鋭かった。
陶揮くんは何も言えず、ただ俯いていた。
その肩が小さく震えていた。
私はとっさに二人の間に飛び込んだ。
「お姉ちゃん、やめて! 陶揮くんだって……悲しいのは一緒だよ!」
その瞬間、姉は崩れ落ちた。
膝から力が抜けて、地面に手をついた。
「ずっと傍にいるって言ったのに…… どうして置いていくの……!」
私は姉の肩をさすりながら、ただ泣き声を受け止めるしかできなかった。

騒ぎを聞きつけて、人が集まってきた。
その中に、釉泉寺の住職──藍原 覚(あいはら・さとし)さんがいた。
同じく同級生で、吹奏楽部でクラリネットを吹いている
藍原 碧釉ちゃんのお父さん。
穏やかな目をした、優しい人。
覚さんは、ただ静かに、空気を整えるように口を開いた。
「澪さん── 悲しみの中で誰を責めても、誠磁さんは戻ってきません」
姉は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
覚さんは続けた。
「あの日、誰も誠磁さんを止められなかった。
止められないほど、誠磁さんは“誰かを助けようとした”のです」
陶揮くんは歯を食いしばったまま、その言葉に耐えるように目を閉じた。
覚さんは、そっと陶揮くんの肩に手を置いた。
「陶揮くんも、澪さんも、誠磁さんの優しさの中にいた。
その優しさは、誰のせいでもありません」
姉はまた泣き出した。
でもさっきまでの“怒りの涙”ではなくて、
胸の奥から溢れる“悲しみの涙”だった。
覚さんは、私の方にも目を向けた。
「誠磁さんは、あなたたちを置いていったのではありません。
守ろうとして、先に行ってしまったのです」
その言葉は、私の胸の奥に静かに沈んでいった。
覚さんは最後に、姉と陶揮くんの両方へ向けて言った。
「誠磁さんは、あなたたちがこれから歩く道を、きっと見守っています。
どうか── 自分を責めないでください」
その場の空気が、ようやく“祈り”の色を取り戻した。
いつも手を引いてくれた姉が、その日からは私に寄りかかるようになった。
「私も誠磁のところへ行く」
「看護学校なんて行かない」
そんな言葉を何度も繰り返す姉を、私は放っておけなかった。
自分の“色”なんて探している余裕はなかった。
ただ、姉のためにできることを必死で考えた。
私が支えなきゃ。
私が姉を守らなきゃ。
あの日から、私の世界は少しだけ暗くなって、でもその暗さの中で、
私は誰かを支えるということを覚えた。
それが、私の“色”の始まりだったのかもしれない。
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