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【陶奔星霜】第7話「藍に魅せられて」2/4

    1年生の3月下旬の春休み。
    夕暮れの瀬戸は、昼間の暖かさが嘘みたいに冷えていく。
    家に帰っても、姉がいない。
    夕食の時間になっても戻らないなんて、珍しい。
    (どこに行っちゃったんだろう……)
    胸の奥がざわついて、私は上着を羽織って家を出た。
    瀬戸川沿いの道は、夕陽に照らされて水面がゆっくり揺れている。
    川の流れはいつもと同じなのに、胸の中だけが落ち着かない。
    歩いていくと、陶原歩道橋の上に人影が見えた。
    オレンジ色のタイルが夕陽を反射して、橋全体が淡く光っている。
    その上に、細い影がひとつ──澪(みお)姉ちゃんがいた。
    橋のたもとには、愛陶工会館。
    昭和初期に建てられた、タイルとテラコッタを
    ふんだんに使った瀬戸を象徴するような建物。
    旧館のエントランスには巨大な陶器の壁画があって、
    建物内の壁には四季の陶器装飾が並んでいる。
    夕暮れの光の中に佇むその姿は、どこか懐かしい色をしていた。

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    私は橋の上まで駆けて行った。
    姉は、川の流れを見つめたまま動かない。
    「お姉ちゃん……」
    声をかけると、姉はゆっくりと振り返った。
    その目は、泣いているわけじゃないのに、泣いた後みたいに赤かった。
    「……安心して。飛び込んだりしないから」
    その言葉が、逆に胸を締めつけた。
    無気力で、何もする気が起きない──そんな顔だった。
    私は姉の隣に立って、川を見下ろした。
    夕陽が沈みかけていて、川面がオレンジ色に染まっている。
    二人で並んで立っているのに、風の音だけが聞こえる。
    沈黙が続いて、耐えられなくなったのは私の方だった。
    「……生きている私たちは、生きるしかないんだよ。
     生きていれば、お腹だって減るし……帰ろ」
    「私はいい……」
    「……って言うと思った。はい」
    私はコンビニで買ってきたカフェラテを差し出した。
    陶原歩道橋の近くにある、セブンで買ったやつ。
    「……ありがとう」
    二人で紙コップを持って、ゆっくり飲む。
    甘いミルクの匂いが、夕暮れの冷たい風に混ざっていく。
     
    「もうすぐ学校始まるね……」
    姉は4月から看護専門学校に進む。
    その話題を出すと、姉は少しだけ目を伏せた。
    「誠磁が言ってたの……」
    そこから、姉の長い語りが始まった。
    高校のサッカー部に所属していた誠磁さん。
    マネージャーだった姉。
    二人で帰った放課後のこと。
    練習後のグラウンドの匂い。夕陽の色。
    「誠磁がね…… 『澪は、人の痛みに気づける人だよ。
     調子が良くない時も、試合でボロ負けした時も、
     誰より先に声をかけてくれた。
     そういう人は、誰かの命を支えられるんだ』って……
     私が看護師になりたいって言った時、そう言ってくれたの」
    姉の声が震えた。
    「……だから私も誠磁に負けないように、人の命を救える人になりたい」
    「うん。きっと誠磁さんも、それを願ってると思う」
    姉ちゃんは、川を見つめたまま続けた。
    「それとね、舞。 私、学校を卒業したら瀬戸を離れるつもりなの。
     誠磁が亡くなった川、瀬戸川に繋がってるんだ。
     ここにいると、どうしても思い出してしまうから……。
     でも、ここが私の生まれ育った街。
     いつか強くなって戻って来る」
    「それまでは一緒に居られる?」
    「うん」
    その返事が、夕暮れの風よりあたたかかった。
    「今度、シュガーバタークレープ食べに行こうよ。
     税務署の近くの店」
    「今その話する?お腹空くじゃない」
    「それが生きてるって証拠だよ」
    私がすたすた歩き出すと、姉は慌てて追いかけてきた。
    その足音が、少しだけ軽くなっていた。
    こうして── 姉は、学校に行けるようになった。
     
    私が2年生になると、
    後輩の宮脇 凪(みやわき・なぎ)くんが入部してきた。
    真吾先輩とは真逆というか、小柄で丸顔の、
    どこか子犬みたいな可愛らしい男の子。
    中学ではクラリネットを吹いていたらしいけれど、
    部活見学のときに私の音を聴いて、
    オーボエを選んでくれたのだという。
    ……それは、正直に言えば嬉しかった。
    でも、凪くんの入部早々、私たちにピンチが訪れた。

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    6月の定期演奏会で、
    ボロディンの「だったん人の踊り」を演奏することになった。
    あの有名な美しい旋律は、
    オーボエとコーラングレという二つの楽器で奏でられる。
    コーラングレ(イングリッシュ・ホルン)は、
    オーボエより完全五度低い音域を持つ木管楽器。
    先端のベルが洋ナシ形に膨らみ、
    柔らかくこもった郷愁のある音色が特徴で、
    通常は2番オーボエ奏者が持ち替えて吹く。
    けれど──両方吹いたことのある私は、
    “持ち替え”が容易ではないことを知っている。
    コーラングレを構えた瞬間、オーボエとは“空気の重さ”が違うのが分かる。
    息を入れても、すぐには返事をしてくれない。
    まるで深い井戸の底に向かって声を落としているみたいに、
    音が立ち上がるまでに一拍遅れる。
    その遅れが、私はどうしても苦手だった。
    リードを接続するボーカルの角度も違う。
    金属の細い管が、私の息をどこへ連れていくのか、
    最初はまったく掴めなかった。
    オーボエなら、息を入れた瞬間に“自分の音”が返ってくる。
    でもコーラングレは、私の息を試すように、
    じっと沈黙していることがある。
    楽器が大きいから、キーの位置も少し遠い。
    運指は似ているはずなのに、似ているからこそ、
    その“わずかな違い”が気になって仕方ない。
    音程はもっと厄介だ。低い音は沈むし、高い音は鋭くなる。
    冗談抜きで、オーボエを始めたばかりの人間に吹ける楽器ではない。

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    コーラングレ(向かって左)とオーボエ(向かって右)

    私のオーボエソロに続いて、
    凪くんのコーラングレのソロが始まるのだが──
    凪くんは音が出たり出なかったり、とても危なっかしい。
    やっと出たと思ったら裏返り、伸ばしの部分で崩れてしまう。
    もはや“歌う”どころではない。
    それが何度も続くと、根気よく教えてきた私も、ついイラついてしまう。
    「吹けるようになるまで、無理して吹かなくていいから!」
    無理しないでじっくり練習しようね──
    という意味で言ったつもりだった。
    でも、自分でも驚くほど語気が強くなってしまっていた。
    背後でユーフォニアムの若宮 遥翔(わかみや・はると)くんが、
    トロンボーンの後輩、西谷 悠真(にしだに・ゆうま)くんに
    「言い過ぎじゃね?」と小声で話しているのが聞こえた。
    ……その瞬間、胸の奥がざわついた。
    合奏の合間の小休憩。
    私は、別に八つ当たりしたいわけじゃないのに、
    嚙みつくように言ってしまった。
    「さっきのトロンボーン、音割りすぎじゃない?」
    「陶揮くんもフラッター※を途中から入れてるの、バレてるから!」
     ※舌を震わせて音を細かく揺らす特殊奏法
    陶揮くんは「そうは言っても、音が高いと難しいんだよね」と頭を掻いた。
    言ったあとで、私は少しだけ後悔した。
    本当は、凪くんのことが心配なだけなのに。
    なのに、うまく言えない。
    うまく伝えられない。
    それが、もどかしかった。
     
    小休憩が終わり、合奏を再開する前、
    幡野先生が、私と凪くんのほうへゆっくり歩いてきた。
    「舞さん、凪くん」
    その呼び方は、どちらを責めるでもなく、
    ただ“二人の音楽”を見てくれている人”の声だった。
    「『だったん人の踊り』は、歌劇『イーゴリ公』の一場面なんだ。
     だから、オーボエとコーラングレのソロ部分には本来歌詞がある。
     故郷や大切な人を思いながら歌う場面なんだ」
    大切な人── その言葉に、私は胸の奥がふっと揺れた。
    「表現ってね、技術だけじゃなくて、何を思いながら吹くかで変わるんだ。
     二人とも、もっと自由にイメージしていい」
    幡野先生は、私たちの顔を順番に見て、穏やかな声で続けた。
    「大変だと思うけど、3か月“しか”ないと思うか、
     3か月“も”あると思うかは、君たち次第。
     いつでも相談に乗るから、やれることを色々試して、
     じっくり音楽に向き合ってほしい」
    その言葉は、叱責でも励ましでもなく、ただ真っ直ぐで、優しかった。
    ……私は、さっき凪くんに言い過ぎた。
    それが胸の奥でずっと重くなっていた。
    練習が終わったあと、私は凪くんを呼び止めた。
    「……さっきは、ごめん。 言い方、強かったよね」
    凪くんは、少し驚いたように目を丸くした。
    「いえ……舞先輩が言うこと、全部正しいので」
    その言い方が、逆に胸に刺さる。
    「今度、一緒に練習しよう。
     できるようになるまで付き合うから」
    凪くんは嬉しそうに笑った。
    その笑顔を見て、胸が少し軽くなる。
    だから、私は冗談めかして言った。
    「……私のことは嫌いでも、オーボエは嫌いにならないでね」
    凪くんは吹き出した。
    「どこかで聞いたことあるフレーズですね。
     それに、どっちも嫌いじゃないですよ」
    その言葉に、私は一瞬だけ息が止まった。
    でも、何も言えなかった。
    凪くんは、ふと全然関係ない話を始めた。
    「そういえば、大谷 翔平ってすごいですよね。
     投手も打者も両方やるじゃないですか。
     あれ、どうやってるんだろう?って思って」
    (そう言えば、凪くん、野球好きなんだっけ……)
    その瞬間、私は閃いた。
    ──それだ。
    「……二刀流」
    「え?」
    「凪くんを、1stオーボエにする。
     ソロ部分に集中してもらうの。
     オーボエなら、まだ吹けるでしょ?」
    凪くんはこくりと頷いた。
    「私がコーラングレのソロを吹く。
     それと、オーボエのソロ以外の部分も全部やる。
     それでどう?」
    言いながら、自分でも驚いた。
    でも、胸の奥が熱くなる。
    ──できる。
    私は、高校1年のとき、
    バルトークの『中国の不思議な役人』で
    コーラングレのソロを吹いた。
    あの時の感覚は、まだ手の中に残っている。
    今から練習すれば、間に合う。 絶対に。
    凪くんは、ぽかんとした顔で私を見ていた。
    でも、その目はどこか嬉しそうだった。
    私は、そっと息を吸った。
    「……一緒に、やろう。
     だったん人の踊り、成功させよう」
    凪くんは、力強く頷いた。
    その瞬間、音楽室の空気が、少しだけ明るくなった気がした。
     
    練習が終わり、譜面を片付けていると、
    フルートの品野 翠(しなの・みどり)ちゃんが、
    すっと私の横に立った。
    「ごきげんよう、舞ちゃん。 このあと時間ある?」
    ……ごきげんようって、どこのご令嬢なの。
    心の中で思わず突っ込んでしまう。
    翠ちゃんは、長い黒髪を緑色のリボンで束ねた、小顔の美少女。
    フルートが似合う、いかにも“お嬢様”という雰囲気をまとっている。
    「お疲れさま。あるけど、どうしたの?」
    そう返すと、翠ちゃんはふわりと微笑んだ。
    「部室でティータイムするの。一緒にいかが?」
    ティータイム。
    そんな単語がさらっと出てくるあたり、やっぱりこの子はどこか違う。
    翠ちゃんに付いていくと、
    そこにはクラリネットの藍原 碧釉(あいはら・みゆ)ちゃん、
    アルトサックスの川端 葵(かわばた・あおい)ちゃんがいた。
    碧釉ちゃんは黒髪の長めのボブに青いヘアピン、
    葵ちゃんは栗色の髪をポニーテールにしていて、
    どちらも雑誌から抜け出してきたみたいに可愛い。
    ……自分以外の3人のビジュアルレベルが高すぎて、
    ここにいるのが申し訳なくなる。
    翠ちゃんは高そうな磁器製のティーポットで紅茶を注ぎ、
    恒例らしい“部室ティータイム”が始まった。

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    「だったん人の踊り、難しいよね。私なんか指回らなくて」
    と翠ちゃんが言うと、
    「私もだよ」と碧釉ちゃんが頷く。
    私はカップを持ちながら聞いた。
    「どうして呼んでくれたの?」
    翠ちゃんは柔らかく笑った。
    「オーボエも大変そうだったから」
    その言葉が、胸にすっと染みた。
     
    葵ちゃんが、いとこから送ってもらったという、
    フランスのお菓子を配り始める。
    葵ちゃんは祖父がフランス人のクオーターだ。
    碧釉ちゃんが箱を見て尋ねた。
    「葵、このフランス語、なんて書いてあるの?」
    葵ちゃんはさらりと読み上げた。
     
    Il s’agit d’un biscuit traditionnel français.
    Nous espérons que ce gâteau apportera
    à chacun un agréable moment de détente.
    (和訳)
    これはフランスの伝統的な焼菓子です。
    このお菓子が皆さんの楽しい寛ぎのひと時を もたらしますように。
     
    ……本当にフランス語が読めるんだ、この子。
    「いとこがフランス人ってすごいね」と話題が広がる。
    葵ちゃんは、いとこのアリア(アリアーヌ・マルタン)が、
    フランスの”リモージュ”という街に住んでいると話した。
    碧釉ちゃんが言う。
    「リモージュ市って、瀬戸市の姉妹都市なんだよね」
    リモージュ市は、リモージュ焼き──“光の白磁”と呼ばれる、
    透き通るような白さを持つ磁器の名産地として名高い。
    翠ちゃんは嬉しそうに言った。
    「ベルナルドの食器、家にあるの。
     リモージュ焼きって本当に綺麗だよ」
    3人は盛り上がり、私は少しだけ会話の輪から外れた気がした。

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    そのとき、翠ちゃんが突然言った。
    「碧釉、何か面白い話して。
     ほら、あの何でもそっくりに作っちゃう先生の話!」
    何と言う無茶振り…。
    碧釉ちゃんは苦笑しながら話し始めた。
    碧釉ちゃんのお母さんが園長を務める、釉泉寺附属あいのは幼稚園。
    そこの先生──菱野 すみれ先生の話だ。
     
    すみれ先生は、友人の結婚式に呼ばれたとき、
    披露宴のサプライズ用に特大クラッカーを作ったらしい。
    そして、ブラックフォーマルのドレス姿で 披露宴会場に現れたのだが──
    その特大クラッカーが、誰が見てもロシア製の
    ロケットランチャー"RPG-7"にしか見えなかった。

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    式場スタッフの女性が青ざめて叫んだ。
    「それは何ですか!?銃ですか!?」
    すみれ先生は満面の笑みで答えた。
    「安心してください、銃じゃありません。
     ロケットランチャーです♪」
    ……安心できるわけがない。

    一緒にいた男性スタッフは真っ青になり、
    「おい、誰か警備員呼んでくれ!」と叫んだらしい。
    なんとかクラッカーだと説明して中に入れてもらえたが、
    その事件のせいで、すみれ先生のあだ名は
    しばらく“テロリスト”になったという。
    私は── お腹を抱えて笑い転げた。
    「安心してください……って、“履いてます”より安心できないじゃん!
     それにテロリストって……
     結婚式場にロケラン持ち込む幼稚園の先生なんて聞いたことない!」
    3人は驚いたように私を見た。
    「舞ちゃんって、あんなに笑うんだ…」
    その言葉が、なぜか嬉しかった。
    それをきっかけに、翠ちゃん、碧釉ちゃん、葵ちゃんと
    自然に仲良くなれた。
    そこへ、ユーフォの遥翔くんが
    「さっきは悪かったな。そっちの事情も知らないで」と
    蕎麦ぼうろを持って現れた。
    「やっぱり蕎麦王子だ!」と笑いが起き、
    部室は和やかな空気に包まれた。
     
    ──そして迎えた定期演奏会、二刀流作戦は功を奏した。
    凪くんのオーボエソロは、ぎこちなさは残ったものの、
    “音楽”としてちゃんと形になった。
    凪くんから音楽のバトンを受け継いで、
    コーラングレを吹いたとき、胸が熱くなった。
    あの危なっかしかった音が、ここまで成長したんだ。
    凪くんは、私の言葉を信じて、必死に付いてきてくれた。
    そのことが、 何より嬉しかった。
    アンコール曲が終わって、舞台の上で凪くんと目が合ったとき──
    私は、自然と笑っていた。
     
    ── 私の“色”は、まだ見つからない。
    姉と見つめた川底の、あの淡い翡翠色だろうか。
    それとも、夕焼け空に滲む朱色だろうか。
    あるいは、友だちと笑い合った部室の午後や、
    凪くんと並んで吹いた、あの一瞬の呼吸の重なりだろうか。
    どれも違う気がして、どれも少しだけ近い気がする。
    私はまだ、自分の色を知らない。
    けれど── 今日みたいな日々を重ねていけば、
    いつかきっと、自分の中に静かに灯る色に 気づけるような気がした。
    そう思えたことが、今はただ、嬉しかった。
     
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    瀬戸・尾張旭で30年育ち、瀬戸の街を歩きながら物語を紡いでいます。実在の風景と日常の不思議を重ねた“歩ける物語”を書いています。瀬戸では焼き物の工房をモロと呼びます。器作りに関わる方達、瀬戸旭の皆さま、全ての皆さまの灯になれたらと言う願いです。

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