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感情の備忘録その⑨ Je te veux(未読)         辿り着いた、私たちの形

    夫が豆を挽く音。

    ゆっくりと立ちのぼる湯気。

    一杯の珈琲が、穏やかに一日を開く。

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    深煎りの珈琲と有田焼のカップ。変わらない朝の風景。



    浮かんでくる、音楽がある。

    エリック・サティの『ジュ・トゥ・ヴ』(Je te veux)

    あなたが欲しい、という意味のワルツ。

    優雅で、少し気怠く、

    どこか懐かしい旋律。

    その曲は、

    遠い記憶を呼び起こす。


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    一日がかりで淹れる水出し珈琲。そのガラスの器具には、時間そのものが溜まっていくような風情があった。



    夫と出会ったのは、長崎の喫茶店だった。

    卒業旅行の資金を貯めるために、バイトを始めたばかりの頃。

    一人旅の途中に、ふらりと立ち寄ったその人は、

    カウンター席で、ガイドマップを広げていた。

    声をかけたのは、私の方だった。

    「長崎の町を、案内します。」

    町を案内し、夕食をご馳走になり、

    翌日また来ると言われて別れた直後に、

    私は車で事故を起こした。

    その人は、一人旅の日程を変えた。

    責任を感じ、事故の処理が済むまでと、滞在を延ばした。

    何日か経つうちに、

    私はもう、離れ難くなっていた。


    付き合う前、想いを寄せてくれる人がいた。

    まっすぐな言葉を受け取った。

    今思えば、不遜だが、わかってしまった気がして、

    終わりが、見えた。

    読み切れた言葉より、

    読み切れない沈黙の方が、

    ずっと長く、心に残ることを、

    あの頃の私は、どこかで知っていた。


    私は物事を単純に見る。

    感じたまま、先に動く。

    夫は違った。

    細部にこだわり、ひとつのことを

    何度も考え直す人だった。

    育った環境も、ものの見方も、

    ずいぶん違った。


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    一冊の本と、いくつかの付箋



    その溝を埋めようとするように、

    私たちはお互いを読もうとした。

    夫は、自分が読んだ本の感想を求め、

    私が読んだ本に付箋をつけ、

    「ここで、何を感じた?」と聞いた。

    そんなやり取りで、頭の中が、ほどかれていった。

    けれど、夫には、

    私には触れられない深淵があった。

    どれだけ近づいても、

    一線を画した態度は、変わらなかった。

    読めない人だ、と知った。

    それでも、離れられなかった。


    あれから、長い年月が経った。

    いつの間にか、

    私たちは向き合うのではなく、

    同じ方を向いて、並んでいる。

    子どもができて、

    親の問題があり、

    お金の問題があり、

    ふたりで、同じ景色を見てきた。

    相手のことを、全部読める必要はない、と、今は思う。

    同じように、

    読んでもらいたくないこともある。

    積み重ねてきた年月の中で、

    沈黙することが、

    相手を大切にすることだと、

    少しずつ、知っていった。


    珈琲が、冷めないうちに、

    記憶を、ひとめぐりした。

    読み切れていない。

    それでいい。

    今日も、隣にいる。


    柊子様
    いつも、私を見つめる時間を与えてくださって、ありがとうございます。

    6月7日追記 柊子さんから頂いた、素敵な返歌はこちらです。

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    祖父母、父母のこと、三姉妹、娘と私、夫、猫たち。 記憶の片隅の感情を、そっと言葉にのせて。 そして今、 家で出会う、算数の話を執筆中。   おかあさんねこは、答えを教えない。 朝と夜の小さな記録は↓ https://www.threads.com/@miyuuna2026

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