メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【重史一覧4】 061~080 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史一覧4】 061~080 

    ←はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ← 
    →重要 ◎目次 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説 目次中 
     1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
     5志向の相違 +信長の油断 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607  
    →【人物】 
    *◎=重要 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *進捗状況 

     【重史一覧1】 001~020 【重史一覧2】 021~040
     【重史一覧3】 041~060 【重史一覧4】 061~080
     【重史一覧5】 081~100 【重史一覧6】 101~120

    【重史一覧4】 061~080

    【重史061】 そ158⑦ ①織田三郎信長を、斎藤山城道三の聟に『信長公記』
    【重史062】 そ158⑧ ①信長、十六、七、八までは、別の御遊『信長公記』
    【重史063】 そ158⑨ ①制札②藤原信長(花押)   「織田信長文書の研究」
    【重史064】 そ158⑨ ①奉寄進②信心大施主平信長「織田信長文書の研究」
    【重史065】 そ158⑨ 平手中務は、借染にも物毎に花奢なる 『信長公記』
    【重史066】 そ158⑩ きう介与力一人、鉄━(鉄炮)に当たり  「言継卿記」
    【重史067】 そ201① ゆきよう(遊行)上人、御れいま「お湯殿の上の日記」
    【重史068】 そ201② 年頭の御礼、旧冬より御触れにて、御免『信長公記』【重史069】 そ201② 正月九日朝 惟任日向守殿会   「天王寺屋会記」
    【重史070】 そ201② 正月十四日、巳の刻 安土において「天王寺屋会記」【重史071】 そ201③ 十六日、筒井・・・安土へ、年頭の礼「多聞院日記」
    【重史072】 そ201③ 惟任日向守へ礼のため、坂本に下向、 「兼見卿記」
    【重史073】 そ201③ 廿五日、丙寅、未明、安土に下向、発足「兼見卿記」
    【重史074】 そ201④ ゆきやう(遊行)上人、れいほう「お湯殿の上の日記」【重史075】 そ201⑤ 十四日、遊行上人、昨日、極楽坊へ来「多聞院日記」
    【重史076】 そ201⑤ 二月廿六日、本能寺へ御座を居(す)ゑら『信長公記』【重史077】 そ152③ ①明智が悪魔及び偶像の友で「イエズス会日本年報」
    【重史078】 そ19 ①先の公方光源院義照御生害、      『信長公記』
    【重史079】 そ20① ①一乗院義昭、②南都を潜に出御ありて、『信長公記』
    【重史080】 そ20① ①一乗院覚慶、僧都廿十九才、寺を御離「多聞院日記」



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ