何か話があるんでしょ?|創作短編小説【後編】
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当直明けで、僕は部屋にいた。
洗濯物は畳まれていない。
シンクにはコップが2つ。
机の上には小児科の教科書と、飲みかけのペットボトル。
部屋は少し荒れていた。
心も、まあまあ荒れていた。
スマホが鳴った。
彼女からだった。
「今から行っていい?」
「え?」
「いい?」
「あ、うん」
それだけ言って、電話は切れた。
30分後。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、彼女が立っていた。
大きめのバッグを持っていた。
その時点で、何かを覚悟している顔だった。
僕は少し怖くなった。
「どうしたの」
「入っていいですか」
「あ、うん」
彼女は部屋に入った。
バッグを床に置いた。
座らなかった。
僕も立ったままだった。
「先輩」
「はい」
「このままだと終わりますよ」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
わかっていた。
でも、言葉にされると痛い。
「……はい」
「終わらせたいんですか」
「いや」
「じゃあどうするんですか」
「どうしよう」
言った瞬間、自分でも思った。
最悪だ。
この期に及んで、どうしよう。
自分の人生だろ。
自分の恋愛だろ。
自分の大事な人だろ。
「そこを私に聞きますか」
彼女が言った。
怒っていた。
でも、泣きそうにも見えた。
僕は何も言えなかった。
彼女は深くため息をついた。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「もういいです」
「え」
「あなたは私が幸せにします」
強かった。
あまりにも強かった。
プロポーズかと思った。
違った。
同棲開始宣言だった。
「え、どういうこと」
「一緒に住みます」
「え」
「物件見ます」
「え」
「私の病院の近くだと、先輩の病院にもアクセス悪くないですよね」
「いや、そうだけど」
「じゃあ探しましょう」
「あの」
「何ですか」
「僕、今、押し切られてる?」
「はい」
「はいなんだ」
「押し切られないと動かないじゃないですか」
何も言えなかった。
事実だった。
事実は強い。
医学でも恋愛でも、事実は強い。
そこからは早かった。
本当に早かった。
物件サイトを見た。
内見に行った。
駅からの距離。
家賃。
間取り。
病院までのアクセス。
スーパーの場所。
コンビニ。
日当たり。
収納。
僕が「ここでもいいんじゃない」と言うと、彼女はだいたい首を振った。
「先輩の“ここでもいい”は信用できません」
「なんで」
「だいたい後で文句言うから」
「言わないよ」
「言います」
「言うかも」
「ほら」
彼女は細かかった。
でも、その細かさが生活を作るのだと、後になってわかった。
僕は大きなことを決めるのが苦手だった。
彼女は現実を動かすのがうまかった。
契約。
引っ越し。
家具。
家電。
カーテン。
食器。
洗剤。
生活は、細かいものの集合体だった。
恋愛は気持ちだけでは回らない。
ゴミ袋のサイズを知らないと回らない。
役所に行かないと回らない。
洗濯機の排水ホースをつながないと回らない。
僕は、恋愛を甘く見ていた。
同棲が始まった。
彼女の病院の近く。
僕の病院にもアクセスは悪くない。
駅から少し歩く、2階の部屋だった。
広くはない。
でも、2人で暮らすには十分だった。
最初の夜。
段ボールだらけの部屋で、コンビニ弁当を食べた。
テーブルはまだなかったので、床に座った。
「なんか、始まりましたね」
彼女が言った。
「始まったな」
「先輩、大丈夫ですか」
「何が」
「一緒に住むの」
「たぶん」
「たぶん」
「いや、大丈夫」
「不安です」
「俺も」
「お互い不安なんですね」
「そういうものにしよう」
彼女は笑った。
その笑い方が、好きだった。
同棲生活は、思っていたより普通だった。
そして、その普通が難しかった。
朝、起きる時間が違う。
帰る時間が違う。
食器を洗うタイミングが違う。
洗濯物の畳み方が違う。
歯磨き粉の絞り方が違う。
冷蔵庫の中の管理が違う。
人間は、こんなにも違うのかと思った。
いや、当たり前だ。
別々の家で育って、別々の人生を歩いてきた人間が、一つの部屋で生活する。
違わない方がおかしい。
でも、頭でわかっていても、疲れている時は腹が立つ。
「先輩、脱いだ靴下、ここに置かないでください」
「あとで洗濯機入れようと思って」
「その“あとで”はいつですか」
「近い未来」
「来ません」
「来るかもしれない」
「来ません」
「はい」
「返事だけいいですね」
研修医時代より、僕の返事は確実に良くなっていった。
これは成長なのか、調教なのか。
たぶん両方である。
一緒に暮らすと、彼女の強さだけではなく、弱さも見えるようになった。
いつも引っ張ってくれる彼女も、仕事で泣くことがあった。
夜、帰ってきて、何も言わずに床に座り込むことがあった。
「どうした?」
「今日、ダメでした」
「何が」
「全部」
「全部か」
「全部です」
そういう時、僕はうまく励ませなかった。
「大丈夫だよ」と言いたくなる。
でも、たぶん大丈夫じゃない。
「頑張ってるよ」と言いたくなる。
でも、頑張ってるのは本人が一番知っている。
だから、横に座った。
何も言わずに。
それしかできなかった。
しばらくして、彼女が言った。
「何か言ってくださいよ」
「何て言えばいいかわからん」
「正直ですね」
「正直だけが取り柄なので」
「恋愛経験は?」
「少し増えた」
「よかったですね」
彼女は少し笑った。
その顔を見て、ああ、僕はこの人と生活しているんだなと思った。
恋愛は、ドキドキだけでは続かない。
たぶん。
続くのは、弱い時に横にいられるかどうかだ。
強い時に好きでいるのは簡単だ。
きれいな服を着て、バーで笑って、甘い匂いがして、腕に寄りかかられれば、誰だって浮かれる。
でも、疲れて、泣いて、床に座り込んで、髪も乱れて、夕飯も作れなくて、それでも一緒にいたいと思えるか。
そこでようやく、何かが始まる気がした。
彼女も初期研修を終え、3年目からはその病院に内科医として残ることになった。
僕は小児科。
彼女は内科。
科は違う。
でも医師として、同じような疲れ方をして、同じような責任を抱えていた。
夕飯を食べながら、お互いの愚痴を言う。
「今日、患者さんの家族説明が長引いて」
「お疲れ」
「先輩は?」
「子どもに泣かれた」
「小児科医なのに」
「小児科医でも泣かれる」
「何したんですか」
「診察」
「それは泣かれますね」
「理不尽」
「子どもは理不尽です」
「大人も理不尽だろ」
「それはそう」
医者同士だからわかる。
でも、医者同士だから甘えすぎてしまうこともあった。
わかってくれるだろう。
忙しいのはお互い様だろう。
疲れているのは仕方ないだろう。
そういう言葉にしない甘えが、たまに小さな棘になった。
「先輩、今日ご飯いらないなら連絡してください」
「ごめん、急にカンファが」
「それはわかってます」
「ごめん」
「だから、わかってます」
この「わかってます」は怖い。
わかっているけれど、許しているとは限らない。
医療現場でもそうだ。
説明したから伝わったとは限らない。
同棲生活も同じだった。
伝えないと伝わらない。
伝えても伝わらない時がある。
でも、伝えないよりはいい。
僕は少しずつ覚えていった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
たぶん彼女からしたら、亀より遅かったと思う。
やがて、結婚の話が出るようになった。
自然に。
というより、彼女が自然に出した。
「先輩、いつ結婚します?」
「え」
「え、じゃないです」
「いや、する気はあるよ」
「あるんですね」
「ある」
「じゃあいつですか」
「えっと」
「また様子見ですか」
「違う」
「違いますか」
「違う……と思う」
「弱い」
僕は情けなかった。
付き合っている。
一緒に住んでいる。
結婚する気もある。
なのに、具体的に動けない。
指輪も見に行っていない。
親への挨拶も、なんとなく話題にしていない。
何か大きなきっかけが必要だと思っていた。
いや、違う。
大きなきっかけが来るまで、自分から動かずに済ませようとしていただけだ。
ある日、同期に言われた。
「もう同棲してるんだろ?結婚しないの?」
「するつもりではある」
「つもりって何だよ」
「タイミングが」
「タイミングって何だよ」
「いや、仕事も忙しいし」
「みんな忙しいよ」
正論は人を傷つける。
まただ。
僕はいつも正論で刺されている。
その夜、彼女が寝たあと、僕はスマホで指輪を調べた。
指輪。
婚約指輪。
相場。
ブランド。
サイズ。
何もわからない。
医学なら調べれば少しわかる。
でも指輪は、調べてもよくわからない。
輝き。
カラット。
クラリティ。
カット。
カラー。
急に英語が増える。
医学英語だけで十分なのに。
数日後、彼女の指輪のサイズをどう調べるかで悩んだ。
寝ている間に測る?
無理だ。
起きる。
そもそも怪しい。
友達に聞く?
誰に。
僕にそんな器用なネットワークはない。
一緒に見に行く?
それが一番確実。
でも、サプライズ感がない。
サプライズ。
また難敵である。
恋愛界の高難度手技。
僕には向いていない。
結局、ある休日に一緒に買い物に行った時、アクセサリー売り場でそれとなく聞いた。
「指輪って、サイズどうやって測るの?」
彼女は僕を見た。
じっと見た。
「何で聞くんですか」
「いや、一般知識として」
「一般知識」
「医師にも必要かなって」
「必要ないです」
「そうか」
その日は失敗した。
帰り道、彼女は少し笑っていた。
たぶん、だいたいバレていた。
僕はサプライズに向いていない。
隠しごとをすると顔に出る。
当直中の眠気も顔に出る。
嬉しいことも、嫌なことも、だいたい顔に出る。
ポーカーフェイスという言葉がある。
僕にはない。
手札を全部表にして人生をしているようなものだ。
それでも、指輪は買った。
何度も店に行き、変な汗をかきながら選んだ。
店員さんは優しかった。
「普段使いしやすいものがよろしいですか」
「あ、はい」
「お相手の方は華やかなものがお好きですか」
「たぶん、シンプルな方が」
「サイズはおわかりですか」
「……だいたい」
だいたい。
婚約指輪で、だいたい。
医療なら怒られる。
でも、店員さんは怒らなかった。
優しい世界だった。
2月。
例のネズミがいる夢の国へ行った。
言い方をぼかしても、だいたいわかる。
入った瞬間、現実感が消える。
病院のPHSも、当直表も、未読のメールも、全部遠くなる。
彼女は朝から機嫌がよかった。
僕は朝から緊張していた。
鞄の中には指輪。
何度も確認した。
ある。
ある。
まだある。
なくなっていない。
当たり前だ。
でも確認する。
患者の点滴ルートより確認した。
いや、それはそれで問題がある。
アトラクションに並ぶ。
ポップコーンを買う。
写真を撮る。
彼女は笑っている。
僕も笑う。
でも心臓はずっと速い。
「先輩、今日ちょっと変ですよ」
「そう?」
「そうです」
「夢の国だから」
「理由になってません」
「浮かれてる」
「浮かれてるというより、挙動不審です」
鋭い。
相変わらず鋭い。
昼のパレードを見た。
夕方、少し寒くなった。
夜、ライトアップされた城が見えた。
花火の時間が近づく。
僕は、ここだと思った。
ここしかないと思った。
ロマンティックの過剰摂取。
景色は完璧。
BGMも完璧。
周囲の空気も完璧。
恋愛小説なら、ここで決まる。
恋愛映画なら、ここで膝をつく。
僕も、ここで。
ここで。
ここで。
花火が上がった。
彼女が空を見上げた。
横顔が綺麗だった。
僕は鞄の中の指輪を意識した。
手汗がすごかった。
医学的に言えば、交感神経優位。
恋愛的に言えば、ただのビビリ。
「きれいだね」
彼女が言った。
「うん」
僕は言った。
それだけだった。
それだけ。
本当に、それだけ。
何をしているんだ。
今だろ。
いや、今すぎる。
今すぎて無理だ。
周りに人が多い。
もし断られたら?
いや、断られないだろ。
でも、断られない保証はない。
そもそもこんな人前でいいのか?
彼女はそういうの好きなのか?
いや、そんな派手なの苦手かもしれない。
じゃあ後で。
後でっていつだ。
花火は終わるぞ。
終わった。
終わってしまった。
花火も終わった。
ロマンティックも終わった。
城もただの城になった。
いや、ただの城ではないが。
僕のプロポーズ計画は、何も起こらないまま終了した。
閉園時間が近づく。
お土産を見た。
彼女は職場用のお菓子を選んでいた。
僕は指輪の入った鞄を握りしめていた。
「それ、そんなに大事なもの入ってるんですか」
「え」
「ずっと持ち方変ですよ」
「いや、財布」
「財布ならいつも雑なのに」
見抜かれている。
ほぼ見抜かれている。
でも彼女は、それ以上聞かなかった。
ゲートへ向かう道。
人の流れ。
疲れた子ども。
お土産袋。
明るい照明。
現実に戻っていく感じ。
僕はしょぼくれていた。
今日しかない。
今日じゃなきゃダメだ。
いや、家でいいか?
家で言うか?
鍋とか食べながら?
いや、それはそれで僕らしいのか?
でも指輪。
でもタイミング。
でも人生。
でも眠い。
頭の中で、「でも」が行列していた。
夢の国のゲートを出たところで、彼女が足を止めた。
「何か話があるんでしょ?」
僕は固まった。
「え」
「ずっと変だったよ」
「そう?」
「そう」
「疲れてるだけ」
「嘘」
彼女は近くのベンチを指さした。
「座ろう」
逃げ場はなかった。
いや、逃げる気もなかった。
ただ、背中を押された。
いつも通り。
僕はベンチに座った。
冬の夜だった。
人が行き交っていた。
夢の国の外。
魔法が少し薄れた場所。
でも、僕にはそこが一番現実的で、一番僕らしい場所に思えた。
鞄から小さな箱を出した。
手が震えていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、待っていた。
居酒屋で僕が告白するのを待っていた時みたいに。
「えっと」
「はい」
「俺は、たぶん、これからも頼りないと思う」
「知ってます」
「知ってるんだ」
「はい」
「大事なところで言いそびれるし」
「今日もですね」
「はい」
「はいじゃないです」
「すみません」
少し笑った。
その笑いで、言葉が出た。
「でも、楽しい時も、しんどい時も、できれば一緒にいたいです」
「はい」
「たぶん、これからも迷うし、うだうだするし、あなたに怒られると思います」
「はい」
「でも、怒られながらでも、一緒にいたいです」
彼女は少しだけ目を伏せた。
僕は箱を開けた。
「結婚してください」
言った。
ようやく言えた。
城の前では言えなかった。
花火の下でも言えなかった。
完璧なタイミングでは言えなかった。
ゲートを出た後のベンチだった。
でも、言えた。
彼女は笑った。
それから、少しだけ涙を浮かべた。
「よろしくね」
人生で一番、安心したかもしれない。
僕は息を吐いた。
たぶん、花火の時間からずっと止めていた。
「サイズ、違ったらごめん」
「そこ今言います?」
「大事かなと」
「大事ですけど」
「不安で」
「先輩らしいですね」
彼女は指輪を受け取った。
ぴったりだった。
奇跡だった。
いや、たぶん店員さんのおかげだ。
僕の実力ではない。
でも、少しだけ自分を褒めた。
締まらなかった。
相変わらず。
でも、人生最高の気分だった。
結婚の準備は、想像以上に大変だった。
入籍日。
両家挨拶。
式をするかどうか。
職場への報告。
名前の変更。
住所変更。
書類。
書類。
書類。
人生は、節目になると急に紙が増える。
医療も結婚も、結局書類である。
彼女は段取りがうまかった。
僕はその後ろをついていった。
「先輩、これ出しました?」
「何だっけ」
「これです」
「あ、まだ」
「今日中です」
「はい」
「返事はいいんですよね」
「成長です」
「行動もしてください」
「はい」
結婚しても、僕は指導されていた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
結婚式は大きくはしなかった。
親しい人だけ。
病院の人も少し。
研修医時代の同期も来た。
あの美人看護師も、別の席にいた。
相変わらず綺麗だった。
僕は少しだけ緊張した。
妻が横で小さく言った。
「何見てるんですか」
「いや」
「昔のチャンスですか」
「言い方」
「逃した魚」
「もう釣り上げられてるので」
「誰に?」
「あなたに」
妻は少し笑った。
「よろしい」
結婚式のスピーチで、同期が言った。
「彼は本当に不器用で、恋愛に関してはたぶん院内最弱でした」
会場が笑った。
やめろ。
だが否定できない。
「でも、隣にいる人にだけは、ちゃんと不器用なまま向き合っていたんだと思います」
少しだけ、いいことを言われた。
腹が立つ。
いいことを言われると、照れる。
照れると腹が立つ。
面倒な人間である。
そこから数年が経った。
紆余曲折はあった。
医師夫婦の生活は、ロマンティックだけでは回らない。
当直。
呼び出し。
洗濯。
掃除。
家賃。
食費。
保険。
そして妊娠。
妊娠がわかった日、妻は検査薬を持って、少し変な顔でリビングに来た。
「先輩」
結婚してからも、時々僕を先輩と呼ぶ。
「はい」
「できたかも」
一瞬、何のことかわからなかった。
いや、わかった。
でも、頭が理解するまで少し時間がかかった。
「え」
「赤ちゃん」
その言葉で、胸の奥が熱くなった。
嬉しい。
怖い。
信じられない。
不安。
全部が一気に来た。
感情の救急搬送だった。
「本当に?」
「たぶん」
「病院行こう」
「行きます」
「今?」
「今ではないです」
「そうか」
「落ち着いてください」
「落ち着いてる」
「全然落ち着いてないです」
妻は笑っていた。
少しだけ涙目だった。
僕もたぶん、変な顔をしていた。
妊娠中、僕は役に立ったり立たなかったりした。
医師だから何でもわかる、というわけではない。
むしろ中途半端に知っているから不安になる。
検査値。
エコー。
週数。
リスク。
ネットで調べるなと言う側の人間なのに、自分は調べる。
愚かである。
「調べすぎです」
妻に言われた。
「いや、確認を」
「確認じゃなくて不安の増幅です」
「はい」
「医者なのに」
「医者でも不安になります」
「それはそう」
出産の日。
僕は、何もできなかった。
本当に何もできなかった。
声をかける。
手を握る。
水を渡す。
助産師さんの指示を聞く。
それだけ。
医師免許は、分娩室で僕を助けてくれなかった。
いや、僕が助ける側ではない。
妻が頑張っていた。
子どもが生まれた。
小さかった。
泣いていた。
僕も泣いた。
普通に泣いた。
泣くつもりはなかった。
でも泣いた。
「泣いてる」
妻が疲れた顔で笑った。
「泣いてない」
「泣いてます」
「これは汗」
「目から?」
「目汗」
「嘘下手ですね」
小さな命を抱いた時、怖かった。
軽い。
軽すぎる。
こんなに軽いものが、こんなに重い意味を持つのかと思った。
父親になった。
なった、はずだった。
でも実感は遅れてきた。
出生届を出す時。
夜泣きで眠れない時。
ミルクを作る時。
抱っこで腕が痛くなる時。
少しずつ、父親にされていった。
僕は育休を取った。
病院初だった。
上司には少し呆れられた。
「本当に取るの?」
「はい」
「男で?」
「はい」
「そうか」
その「そうか」に、色々入っていた。
でも取った。
根回しもした。
調整もした。
周りに頭も下げた。
「すみません、ご迷惑おかけします」
「いや、大事なことだから」
そう言ってくれる人もいた。
「時代だねえ」
そう言う人もいた。
時代。
便利な言葉だ。
でも、時代という言葉の後ろで、誰かが最初に動かないと何も変わらない。
僕は別に立派な思想で動いたわけではない。
ただ、妻が限界だった。
子どもが小さかった。
僕も関わりたかった。
それだけだった。
育休中、僕は何度も打ちのめされた。
赤ちゃんは予定通りに動かない。
寝ない。
泣く。
また泣く。
なぜ泣く。
ミルクか。
オムツか。
眠いのか。
暑いのか。
寒いのか。
抱っこか。
違うのか。
診断がつかない。
小児科医なのに。
いや、小児科医だからといって、我が子の泣き声が全てわかるわけではない。
妻は強かった。
でも、その妻も疲れていた。
夜中、部屋の薄暗い光の中で、2人で赤ちゃんを見ていた。
「寝ないね」
「寝ない」
「どうする?」
「どうしよう」
「それを私に聞かないでください」
「すみません」
このやりとりは、ずっと続くのだと思った。
夫婦とは、同じ会話を形を変えて繰り返すものなのかもしれない。
数年後、2人目も生まれた。
家はさらに騒がしくなった。
おもちゃは増えた。
洗濯物も増えた。
食費も増えた。
僕の自由時間は減った。
睡眠時間も減った。
でも、不思議と増えたものもあった。
笑い声。
写真。
予定。
心配。
守るもの。
家では妻が一番強い。
これはもう疑いようがない。
病院でも強かった。
家でも強い。
たぶん80歳になっても強い。
勝てる気がしない。
そして今。
僕は幼稚園の門の前にいる。
夕方。
空は少しオレンジ色だった。
園庭から、子どもたちの声が聞こえる。
小さな靴が並んでいる。
先生たちが忙しそうに動いている。
僕は仕事帰りの服装で、スマホと水筒と小さなリュックを持って立っていた。
「パパー!」
長男が走ってくる。
後ろから次男。
二人とも靴を履き違えている。
なぜだ。
人類は靴を左右で作ったのに。
なぜ君たちは毎回間違える。
進化とは。
文明とは。
育児とは。
「パパ!」
二人が抱きついてくる。
重い。
いや、重くなった。
昔は片手で抱けた。
今は両手でも腰が痛い。
子どもは成長する。
親は老いる。
腰は裏切らない。
いや、裏切る。
かなり裏切る。
「今日なにしたの?」
僕が聞く。
長男が言う。
「ブロック!」
次男が言う。
「たたかった!」
「誰と?」
「わかんない!」
わからない戦い。
壮大である。
「先生に怒られなかった?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけか」
「パパも怒られる?」
「家でよく怒られる」
「ママに?」
「そう」
長男は納得したように頷いた。
納得しないでほしい。
「早く帰るよー」
妻が少し離れたところから言う。
仕事帰りの妻は、疲れているはずなのに、動きが早い。
相変わらず強い。
「聞いてる?」
「はい」
即答する。
研修医時代より返事がいい。
成長である。
たぶん。
「何ニヤニヤしてるの?」
「いや」
僕は首を振る。
幼稚園の帰り道。
夕焼け。
子どもたちの声。
隣には妻。
昔は、恋愛小説の主人公なんて、自分とは別の種類の人間だと思っていた。
美人な人とスマートに恋をして。
花火の下で迷わずプロポーズして。
大事な場面で、ちゃんと大事なことを言える人。
そういう人のことだと思っていた。
でも、たぶん違った。
隣の席でカップラーメンを食べていた後輩と、いつの間にか一緒に暮らしていて。
大事な場面では、やっぱり言いそびれて。
結局、相手に「何か話があるんでしょ?」と言わせて。
それでも、今こうして幼稚園の前に立っている。
まあ。
悪くない。
かなり、悪くない。
「パパー!早くー!」
「はいはい」
僕は歩き出す。
次男が僕の手を引っ張る。
長男が前を走る。
妻が「走らない」と言う。
長男は少しだけ走るのをやめて、また走る。
妻がもう一度言う。
「走らない」
今度は止まる。
さすがである。
僕の言うことは一回では止まらない。
妻の言葉には、何か見えない力がある。
医療でいうところの即効性である。
帰り道、ふと思う。
もしあの時、美人看護師に何か言えていたら。
もし二次会の後、もう一軒行っていたら。
もしあの夜、後輩に笑い話として話していなかったら。
もし自然消滅しかけた時、彼女が来てくれなかったら。
もし夢の国のゲートで、彼女が足を止めてくれなかったら。
たぶん、今ここにはいない。
人生は、大きな決断で変わるように見える。
でも実際は、小さな情けなさと、小さな勇気と、誰かの少し強引な優しさで変わっていくのかもしれない。
僕は恋愛小説の主人公ではないと思っていた。
たぶん、今でも少し思っている。
だって主人公にしては、締まらない。
告白は居酒屋。
プロポーズはゲート外のベンチ。
日常は靴の左右と幼稚園の迎え。
けれど。
恋愛小説が、誰かを好きになって、その人と生きていく話なのだとしたら。
僕も、少しだけ主人公だったのかもしれない。
気づくのが、だいぶ遅かっただけで。
「パパ、抱っこ」
次男が両手を伸ばす。
「歩こうよ」
「だっこ」
「重いんだよ」
「だっこ!」
妻がこちらを見る。
「抱っこしてあげたら?」
「はい」
僕は次男を抱き上げる。
重い。
本当に重い。
でも、温かい。
長男が僕の服を引っ張る。
「パパ、ぼくも」
「無理」
「えー」
「腰が終わる」
「こし?」
「大人になると大事になるところ」
長男はよくわからない顔をした。
妻が笑った。
その顔を見て、思う。
ああ。
悪くない。
かなり、悪くない。
いや。
たぶん。
ものすごく、いい。
