何か話があるんでしょ?|創作短編小説【中編】
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「俺さ」
「はい」
「たぶん」
「はい」
そこで一度、言葉が止まった。
彼女は急かさなかった。
ただ、少しだけ首を傾げて、僕を見ていた。
居酒屋の照明は少し暗かった。
テーブルの上には、ほとんど空になったビールジョッキと、梅酒のグラスと、冷めかけた唐揚げがあった。
唐揚げは冷めても唐揚げだ。
冷めた唐揚げにも、それなりの人生がある。
いや、今は唐揚げの話ではない。
僕は何を言おうとしているんだ。
いや、わかっている。
わかっているから、言えない。
医学的なことなら言える。
「この症状なら、この疾患を考えます」
「この検査を追加します」
「この治療を始めます」
そういうことなら、最近ようやく少し言えるようになってきた。
でも、これは違う。
恋愛に鑑別診断はない。
いや、あるのかもしれない。
好きなのか。
居心地がいいだけなのか。
後輩として大事なのか。
疲れているから依存しているだけなのか。
当直明けで判断力が落ちているのか。
アルコールのせいなのか。
梅酒のせいなのか。
唐揚げのせいなのか。
唐揚げは関係ない。
たぶん。
「先輩?」
彼女が言った。
「顔、すごいですよ」
「すごい顔?」
「何かの告知前みたいな顔してます」
「不吉な例えやめて」
「じゃあ、採血の結果を見て予想外に悪かった時の顔」
「医療者すぎる」
彼女は少し笑った。
その笑い方を見て、なぜか少し落ち着いた。
僕は息を吸った。
「お前のこと、好きなんだと思う」
言った。
言えてしまった。
告白というより、診断だった。
問診。
診察。
検査。
鑑別。
そして結論。
僕は君が好き。
病名としては、かなり重症である。
治療方針は不明。
予後も不明。
ガイドラインもない。
彼女は少しだけ目を丸くした。
本当に少しだけ。
そして、笑った。
「知ってます」
「……知ってたの?」
「だいぶ前から」
「じゃあ言ってよ」
「それは先輩が言うことでしょ」
「そういうもの?」
「そういうものです」
そういうものらしい。
恋愛には、僕の知らないルールが多すぎる。
不文律が多い。
院内ローカルルールより多い。
「付き合ってくれますか」
「順番、今ですか」
「すみません」
「いいですよ」
「いいの?」
「だから、いいですよ」
彼女は、少し呆れたように、でも嬉しそうに言った。
その表情を見て、胸の奥がじんわり熱くなった。
派手な音楽は鳴らなかった。
花火も上がらなかった。
隣の席のサラリーマンは枝豆を食べていた。
店員さんは奥でジョッキを洗っていた。
世界は、僕らのために止まったりはしなかった。
でも、僕の中では、何かが静かに変わった。
恋愛に慣れていない2人の恋は、中学生みたいだった。
いや、中学生に失礼かもしれない。
今の中学生の方が、たぶんもっとちゃんとしている。
少なくとも僕よりは、LINEの返し方がうまい。
最初のデートは、映画だった。
何を見たかはあまり覚えていない。
覚えているのは、映画館の暗さと、隣に彼女が座っていることを妙に意識していたことだ。
肘掛けがある。
肘掛けがあるのに、こんなに緊張するとは思わなかった。
肘掛け。
お前は一体、何を分けているんだ。
人と人か。
心と心か。
ポップコーンの領地か。
手が触れそうで、触れない。
触れたらどうする。
いや、触れなかったらどうする。
映画に集中しろ。
できない。
主人公が走っている。
なぜ走っているのか。
たぶん重要な場面だった。
でも僕の頭の中では、肘掛けが主役だった。
映画が終わった後、彼女が言った。
「先輩、全然見てなかったでしょ」
「見てたよ」
「途中、スクリーンじゃなくて自分の手見てましたよ」
「手相が気になって」
「嘘下手ですね」
手を繋いだのは、その帰り道だった。
駅までの歩道。
夜。
店の明かり。
少し冷たい風。
彼女の手が、僕の手の横にあった。
近い。
近いが、遠い。
あと数センチ。
その数センチが、医学部6年間より難しかった。
僕は意を決して手を伸ばした。
小指が触れた。
彼女は何も言わなかった。
逃げなかった。
だから、握った。
手が小さかった。
でも、弱くはなかった。
彼女は少しだけ僕を見て、言った。
「遅いです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「すみません」
「だから」
2人で笑った。
その日から、僕らは少しずつ恋人になっていった。
恋人になる、というのは不思議だ。
告白した瞬間に、急に世界が変わるわけではない。
翌日も病院はある。
当直もある。
採血もある。
怖い看護師さんもいる。
PHSは鳴る。
上級医には怒られる。
カルテは終わらない。
でも、少しだけ変わる。
スマホを見る回数が増える。
休憩中に、彼女の机を見る。
夜、帰る時に、誰かと待ち合わせることがある。
コンビニでアイスを買う時、2つ買う。
そういう小さいことで、生活の形が変わっていく。
デートらしいデートもした。
水族館に行った。
魚を見ながら、僕は言った。
「この魚、何考えてるんだろうな」
「何も考えてないんじゃないですか」
「そんなことないだろ」
「先輩よりは考えてるかもしれませんね」
「ひどい」
「だって、告白まで遅かったし」
「魚に負けた?」
「負けました」
水槽の前で、僕は魚に敗北した。
人生は厳しい。
カフェにも行った。
彼女は甘いものが好きだった。
僕はコーヒーを頼んだ。
「先輩、甘いの食べないんですか」
「食べるよ」
「じゃあ頼めばいいのに」
「なんか恥ずかしい」
「何がですか」
「男がパフェ頼むの」
「令和ですよ」
「令和か」
「令和です」
彼女はパフェを一口くれた。
甘かった。
普通においしかった。
「おいしい」
「でしょ」
「次から頼む」
「成長ですね」
恋愛とは、パフェを頼めるようになることでもあるのかもしれない。
たぶん違う。
でも、僕にとってはかなり大きな変化だった。
当直明けに朝ごはんを食べることもあった。
病院近くの牛丼屋。
朝の光。
疲れた顔。
白衣の下にスクラブ。
彼女は味噌汁を飲みながら言う。
「今日、先輩の顔、過去最高に死んでます」
「記録更新?」
「はい」
「めでたいな」
「めでたくないです」
「そっちは?」
「私はまだ生きてます」
「強い」
「先輩が弱いんです」
「知ってる」
そんな会話をしながら、牛丼を食べる。
恋愛小説としては地味だ。
とても地味だ。
でも、僕はそういう時間が好きだった。
綺麗なレストランより、疲れた朝の牛丼屋。
イルミネーションより、研修医室の蛍光灯。
高価なプレゼントより、コンビニで買ったプリン。
そういうものの方が、僕らには合っていた。
もちろん、喧嘩もした。
恋人になると、楽しいことだけではない。
それまで笑って済ませていたことが、少し引っかかるようになる。
返信が遅い。
予定を忘れる。
疲れている時の言い方が雑。
会う約束をしていたのに、急な呼び出しで流れる。
医者同士だから理解できることもある。
医者同士だから余計に腹が立つこともある。
「今日、会えるって言ってましたよね」
「ごめん、病棟で急に」
「それはわかってます」
「じゃあ」
「わかってるのと、寂しくないのは別です」
言葉が刺さった。
正しい。
正しすぎて、何も言えない。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないです」
「じゃあどうすれば」
「それを私に聞かないでください」
彼女はよくそう言った。
「それを私に聞かないでください」
この言葉は、その後の人生で何度も出てくる。
恋愛でも。
同棲でも。
結婚でも。
育児でも。
僕は大事な場面で、つい相手に答えを委ねる癖がある。
どうしよう。
どうしたらいい?
どう思う?
もちろん相談は大事だ。
でも、相談の顔をした責任放棄というものもある。
彼女はそれを見逃さなかった。
そのあたりからすでに、僕は少しずつ教育されていたのかもしれない。
研修医としてではなく、人間として。
2年目の終わりが近づいていた。
僕は小児科に進むことを決めていた。
子どもを診るのは怖かった。
大人より小さい。
症状を言えない。
親の不安も背負う。
でも、どうしても小児科に惹かれていた。
小児科の病棟には、独特の明るさがある。
泣き声。
笑い声。
キャラクターのシール。
小さな靴。
点滴台を押しながら歩く子ども。
しんどい場所なのに、どこか生きる力が強い。
そこに惹かれた。
彼女は内科に進むつもりだった。
大人をじっくり診たいと言っていた。
「先輩、小児科っぽいですよね」
「そう?」
「なんか、子どもに振り回されてそう」
「それ褒めてる?」
「半分」
「半分か」
「でも、向いてると思います」
そう言われた時、少し嬉しかった。
彼女の「向いてる」は、軽くなかった。
ちゃんと見た上で言う人だった。
3年目。
僕は別の病院で小児科の後期研修を始めた。
彼女はまだ1年、元の病院に残った。
そんなに遠くはない。
電車で行ける。
会おうと思えば会える。
最初は、そう思っていた。
でも、距離というのは距離である。
近そうに見えても、日常から少し外れるだけで、人は簡単に会えなくなる。
僕の病院は忙しかった。
小児科の後期研修は、想像以上に濃かった。
外来。
病棟。
救急。
NICUの手伝い。
当直。
カンファレンス。
朝早く行き、夜遅く帰る。
休日も勉強する。
しないと怖い。
子どもは待ってくれない。
病気も待ってくれない。
PHSも待ってくれない。
恋人は。
恋人は、待ってくれていたのかもしれない。
でも、待ってくれていることに甘えていた。
彼女も忙しかった。
2年目研修医として、後輩も入り、責任も増えた。
夜の電話は減った。
LINEの返事も短くなった。
「今日どうだった?」
「疲れた」
「こっちも」
「また今度会おう」
「うん」
今度。
便利な言葉だ。
何も決めなくても、何か決めた気になる。
今度会おう。
今度話そう。
今度ゆっくり。
今度。
今度は、時々、来ない。
ある日、久しぶりに会った。
駅前の居酒屋。
付き合い始めた頃によく行った店だった。
でも、空気が少し違った。
話題はある。
仕事の話。
病院の話。
共通の知り合いの話。
でも、間があった。
以前は気にならなかった沈黙が、少しだけ怖かった。
「最近、忙しそうですね」
彼女が言った。
「うん」
「小児科、大変ですか」
「大変」
「楽しい?」
「楽しい。怖いけど」
「そっか」
彼女は笑った。
その笑顔は優しかった。
でも、少し遠かった。
僕は焦った。
焦ったのに、何を言えばいいかわからなかった。
会いたかったよ、と言えばよかったのかもしれない。
寂しかった、と言えばよかったのかもしれない。
でも言えなかった。
代わりに僕は言った。
「そっちは?」
「普通です」
普通。
その普通が、普通ではない気がした。
でも、踏み込まなかった。
踏み込めなかった。
いつもの悪い癖だ。
様子を見る。
恋愛で様子を見る男は、だいたい何かを失う。
帰り道、手を繋いだ。
でも、前より少しだけ力が弱かった。
どちらの力が弱かったのかは、わからない。
自然消滅。
その言葉が頭に浮かんだ。
嫌な言葉だ。
自然というくせに、全然自然じゃない。
何もしないことを、自然と呼んでいるだけだ。
連絡が減る。
会う回数が減る。
会話が減る。
そのまま、終わる。
誰も悪くないような顔をして終わる。
でも、たぶん悪い。
少なくとも、僕は悪い。
なのに、何もしなかった。
いや、できなかった。
どうしたらいいのかわからなかった。
わからないなら聞けばいいのに。
僕はまた、聞けなかった。
そんなある夜。
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