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80歳になってもケーキが食べたいので、今のうちからフランス菓子を再構築しておくことにした

    メンタルマッチョ降格


    私は、自分のことをメンタルマッチョだと思っていた。
    パティシエとして10年以上、厨房に立ち続けてきた。グラニュー糖も薄力粉も在庫が10キロを下回るとヒヤヒヤする、というのがプロとしての正常な感覚というものだ。

    休日に何をするかといえば、パティスリーをはしごして新作のケーキを買い、家で組み立て直して「これは次のメニューに活かせる」などとアイディア帳のページを増やす。もしくはアイスかパンかチョコを食べて歩いている。毎週のように新メニューの考案に追われるのが、私の日常だった。



    そんな私が、妊娠したとたんに心が折れた。

    「心が折れる」という言葉は、もともと女子プロレスから生まれたらしい。たしかに、あの響きにはゴングの音がする。

    タイトなスケジュールも、無理難題も、鬼のような仕事量も、私は折れずにやってきた。メンタルマッチョを自称するだけのことはあった。


    しかしパティシエ歴10年以上の私が、ついに負けた相手は「砂糖と小麦粉」である。我ながら情けない話だが、これは本当のことなので仕方がない。甘いものが食べられなくなった。小麦粉も、無理だった。試合終了である。

    パティシエにとって味見は仕事の根幹である。しかし飲み込むことができない。仕上がりの確認は、口に含んで、吐き出すしかなかった。無念だ。私生活においても、仲違いは10ヵ月、続いた。

    世間には妊娠にまつわる様々な伝聞が飛び交っている。炊き立てのご飯の匂いがダメになるとか、フライドポテトが無性に食べたくなるとか。だが私の体が選んだのは、よりにもよって砂糖と小麦粉の全面拒否であった。プロとしての命綱を、体が自ら断ち切りにかかったのだ。まったく、不義理な体である。

    身体からの警告


    このまま一生、甘いものが食べられないのではないか。そう思った。それはずいぶんつまらない人生だ。ケーキのない人生など、ピアノのない音楽のようなものではないか。

    しかし、赤ちゃんがママの敵なはずがない。起き上がる気力も失くしながら、そう思った。むしろ、これは何かを伝えようとしているのではないか。


    思い返せば、私はパティシエとしての日々の中で、砂糖と小麦粉を当然のように摂り続けていた。味見、食べ歩き、試食──それらは仕事であり、喜びであり、そして体への負荷でもあった。体の声を聞く余裕など、微塵もなかった。このまま20年、30年と同じペースで走り続けたら、老後にとんでもないことになるのではないか。体が、未来の私に向けて警告を発していたのではないか。そう確信した。

    そのとき、数年前に友人が言っていた言葉を思い出した。子育て中の彼女は、「子どもに体によいおやつを手作りしたい」と言っていた。当時の私には、それがなかなか難しい要望に聞こえた。私はずっと、お客さんを驚かせるためのものを作ってきた。デザインの美しさ、味の意外性、食べ終わった後の至福感──それが私の仕事だった。「体によい」などという地味な制約は、管轄外ように感じていたのだ。
    だが今、その言葉は自分のことになっていた。

    新しい課題

    そこで私はひとつの問いを立てた。
    「制限する」のではなく、「持続可能である」ことが大事なのではないか。
    砂糖をやめるとか、小麦粉を断つとか、そういう話ではない。80歳になっても、夫と笑いながらピザを食べたい。ラーメンも食べたい。ケーキだって食べたい。好きなものをずっと食べ続けるために。だから、日常のおやつを少し、体が喜ぶものに変える。根本から、見直すのだ。

    夫は結婚前、食べるものなど一切気にしないタイプだった。それが私の手料理を食べるようになってから、体が変わった。今では私以上に食への意識が高い。砂糖を使わずに作ったおやつを出すたびに、「そんなこともできるの?」と目を丸くして喜んでくれる。今は二人で、食べるものと体を動かすことを、一緒に大切にしている。子どもが大きくなっても、一緒に元気に遊びたいから。同じ方向を向いている人がそばにいることが、こんなにも心強いと、初めて知った。

    だから余計に思う。
    80歳になっても、この人と笑ってケーキを食べたい。
    そのために、今日のおやつを、ちょっとだけ体が喜ぶものへ。

    フランス菓子を再構築


    そう決めたとき、パティシエとしての職人魂に、静かに火がついた。
    「静かに」というのが重要である。私はどちらかといえば熱血タイプではなく、好奇心が制御不能になる研究者タイプだ。麹、ドライフルーツ、米粉、オートミール──今まで縁のなかった食材を片っ端から買い込み、試作を始めた。台所が実験室になった。

    正直に言えば、「身体によいお菓子」をおいしいと思ったことは、ほとんどなかった。素朴な味、地味な見た目。ネーミングだけのなんだかモソモソしたもの。そんな印象をずっと持っていた。

    でも今は、手に入る食材が違う。そして何より、私には技術がある。
    「健康にいいから、味が落ちても仕方ない」そんな言葉は、プロとして絶対に言いたくない。

    フランス菓子で培ってきた技術がある。乳化や保水、香りのバランス、食感のコントラスト。砂糖も小麦粉も使わなくても、それらを駆使すれば、もっとおいしくできるはずだ。見た目だって、妥協しない。ショーケースに並ぶ美しいケーキを達を再現したい。

    私は美味しいものに対しての執着が強い。

    この度、「美味しい=身体に優しい」という新ルールにアップデートする運びとなりましたが、フランス菓子へのリスペクトは忘れずに、キッチンに立ち続けたいと思っている。


     
     
    未来のパティシエに残したい「レシピに縛られない技術」と、「自分を犠牲にしない働き方」。食の歴史や文化、哲学が好きです。美味しいものが食べたいので、心も身体も健康には気をつけています。

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