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サスペンス小説『木曜日の彼女は』【5】   

     後藤が訪ねてきた翌日、私は朝の光ですっきりと目覚めた。小一時間ほどだったが、生身の人間と話しただけで、しっかりと体力を使ったらしい。
     少しだけ清々しい気分で、水を飲もうとキッチンに行くと、シンクのヘリに黒いものが蠢いていた。顔を近づけて見ると、蟻の行列だ。黒いラインは、ガスコンロの上の棚にある砂糖の容器まで続いていて、容器には夥しい数の蟻が群がっていた。
     思わず後ずさる。
     昨日、後藤がこの棚を検分した時、砂糖の容器が倒れたんだろうか。
     蟻はキッチンの小窓の隙間から、今も続々と入ってきている。仲間なのか、そうでもないのか、容赦無く室内に入り込んでくる黒く蠢くもの。まるで、うちに訪ねてくる、正体のわからない訪問者たちのようだ。
     全身の毛が逆立って鳥肌が立つ。
     私は殺虫剤を探す。でも見当たらない。
     急いで着替えて、帽子を被り、財布を掴むと、サンダル履きでコンビニへと走った。
     2ヶ月ぶりの外出は、切羽詰まっていたために無防備だった。

     無事、コンビニのレジで殺虫剤を買い、自動ドアから出ようとしたら、正面に男性が立ちはだかった。避けて出ようとするが、同じ方向へ男も動く。自動ドアの開閉に反応して、客の入店を知らせる電子音が繰り返し鳴り続ける。
    「すみません、どいてもら……」えませんか? と言い終わらないうちに、男が言った。
    「さ〜やさん。僕です」
     目を合わせないように、私は下を向いていたが、彼の自信に満ちた声に引き寄せられるように顔を上げた。彼の顔に焦点を合わせる。
     驚くほど白い顔に、切れ長の目。薄茶色の瞳はガラス玉のようだ。左目の端に泣きぼくろがある。ずいぶん、艶っぽい青年だった。誰だろう。思い出せない。
     青年はすいと私の腕を取って、外へ連れていく。あまりにも自然で、抗う隙がなかった。コンビニの脇まで数歩。時間にすれば数秒の出来事だった。
    「離してください」
     やっと声を出す。
    「ああ、ごめんなさい」
     青年はそう言って、すぐに腕を離した。
    「誰なんですか」
     私は帽子のつばの下から盗み見るように、彼の顔を窺う。さらさらの茶色い髪。見れば見るほど、なんて綺麗な青年だろう。
     青年は、口角を上げて静かに微笑む。
    「覚えていませんか?」
     私はなおも彼の顔を盗み見ながら記憶を辿るが、見覚えがない。
     そこで思い出す。
     ー犯人が接触してくることも考えられますーという後藤の言葉。
    「何も、何も覚えてないし、何も見てないから!」
     私は脚をもつれさせながらも駆け出した。サンダルが脱げそうになり、バランスを崩しかけたが、体制を立て直して走った。この2ヶ月、ろくに歩いてもいなかったのだから、私の筋肉は衰えていて、とても走れるような状態ではなかった。走るというより、よろけながら歩いているようなものだったと思う。
     でも無我夢中で脚を動かし、だいぶ進んだと思えるところで一瞬後ろを振り返ったが、青年はこちらに首を向けたまま、直立不動だった。うっすらと笑っているように見えた。
     脚の筋肉が悲鳴を上げている。それでも私はなんとか走って走って、アパートに着くと後ろを振り返りながら鍵を開ける。もんどり打って玄関に転がり込み、内鍵とチェーンをかけた。

     四つん這いで寝室まで行き、乱れた呼吸のまま、後藤に電話をした。
     でも、こんな時に限って呼び出し音が響くばかりだ。何度も掛け直す。留守電にさえならない。
     私は流れてくる汗を手の甲で拭う。冷蔵庫に麦茶があったはずだ。立ち上がろうとしたら、ふくらはぎが攣った。痛い。どうにか筋を伸ばして、攣ったふくらはぎを揉んでいたら、涙が出てきた。
     なんで私ばかり! なんで! こんな目に遭うの?
     頼みの綱の刑事は電話に出ず、私の全身の筋肉は痙攣していて、呼吸もうまくできない。部屋には蟻が蠢いていて、部屋の外には得体の知れない奴らが群がり侵入を企んでいる。
     私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、気を失うように眠りに落ちた。

     後藤からの着信で私は目覚めた。
    「三浦さん、どうしました?」
    「なんで電話に出てくれないんですか……」
     強く抗議したつもりだったが、力が入らず、また涙が溢れ出して、涙声になってしまう。
    「すみません。スマホを車に置きっぱなしにしてしまって。どこにあるのかわからなくて、探していたんです」
    「そんな……」
     あまりのタイミングの悪さに呆れてしまう。あの時、すぐに誰かをコンビニに寄越してくれていたら、あの男を捕まえられたかもしれないのに!
     私は今朝の出来事を説明した。
    「そうでしたか。三浦さん、私が繋がらなかったら、110番でもいいんですよ。次からそうしてくださいね」
     幼子に言い聞かせるような口調だった。
    「その男は、どんな風体でしたか?」
    「とても綺麗な男性でした。茶色い目、サラサラの髪で」
    「年齢はどのくらいに見えました?」
    「20代……前半だと思います」
    「背格好は?」
    「小柄な方だと思います。見上げなくてよかったから。スラッとしてました」
    「三浦さんは160くらいでしたっけ?」
    「は? あ、はい、163です」
    「じゃあ、その男は170前後ですかね。服装は?」
    「わからない……グレーとかベージュとか、目立たない色だった気がします」
     矢継ぎ早の質問に答えているうちに、不思議と気分が落ち着いてきた。
    「ファンの人とか、本当に過去に面識のあった誰か、ということは考えられますか?」
    「わかりません。でも20代くらいの人と接点なんてないと思うんです」
    「そうですよね」
     相槌を打つと後藤はしばらく黙った。すぐに行きます、と言ってくれることを私は期待していたが、期待は裏切られた。
    「今夜は目立たないところから張り込みをさせますよ。パトロールも強化させます」
    「後藤さんは……」
     来てくれないの? その言葉を飲み込みながら、大丈夫、まだ私には理性がある、正気を保っていられる、と自分に言い聞かせた。でもそれは、こうして後藤と話をしているからだということもわかっている。
     ひとりで考えを巡らせる時間が長くなれば、私はまた壊れてしまうだろう。なんとかしなければ。誰かと繋がっていなければ……。
    「明日の夜、伺っても構いませんか。そうだな、8時には行けると思います」
     涙が出るほど嬉しかった。私は何度もお礼を伝え、電話を切る。
     明日の8時まで、なんとか乗り切ろう。今日のあの青年の顔を思い出さないようにして。
     そこで私はハッとする。彼には泣きぼくろがあった。そんなに大きいわけじゃないけれど、印象に残るホクロ。後藤に伝え忘れた。顔の特徴として大切な情報だったのに。
     そして記憶から消し去ろうとしていた彼の顔をもう1度思い浮かべてみる。するとなんだか、あのホクロに見覚えがあるような気がしてきた。顔見知りなんだろうか。
     私は再び後藤に電話をかけ、このことを話した。電話の向こうでサラサラとメモを取っている音が聞こえた。

     その夜、湿気が膨らんで雨になった。雨音が私を滅入らせる。
     音を消したテレビ画面には、情報バラエティ番組。あの頃の私のような、アイドル崩れのタレントが行列ができるパスタ屋のレポートをしている。行列に並ぶ人々にマイクを向け、大袈裟に笑ったり、頭を抱えたり、表情をくるくる変えながら、彼女は画面を賑やかしている。この役は、本当に誰がやってもいい。男性タレントでも、お笑い芸人でも、局アナでも。この女性タレントは何をもって視聴者に顔を売るのだろう。テレビはいつも薄っぺらい。
     と、不意打ちでドアチャイムが鳴った。状況が変わって後藤が来てくれたのだろうか? それとも?
     私はゆっくりと玄関まで進み、ドアスコープを覗いた。
     涼しげなベージュのワンピースを着た女性が、赤い傘を畳んでいるところだった。俯いているので顔は見えない。一瞬、元マネージャーの飯島かと思ったが、背格好が全く違う。
     私は恐る恐る声を掛ける。
    「どなたですか?」
     彼女が顔を上げて、ドアスコープを見た。真っ白い顔。赤い唇。美しい女性だった。
    「さ〜やさん。私を覚えていませんか?」
     私は驚いて、ドアスコープに強くおでこを押し付けながら、向こうを見る。
     泣きぼくろがあった。
     今朝のあの青年?
    「まさか、コンビニの?」
    「そう。お邪魔させてもらえませんか? 話したいんです。少しだけでいいから」
     柔らかな声が響く。
    「何もしませんよ。ほら、何も持ってない」
     彼はスパイホールに向けて両掌を広げる。手ぶらだった。右手でサラサラの茶色い髪を掻き上げた。髪が肩まであるのはエクステだろうか。

     なぜだろう、私は導かれるようにドアを開けてしまった。といってもチェーンはつけたままだ。彼の顔を直に見たかったのだ。細く開いたドアの隙間から覗くと、彼の顔は廊下の蛍光灯に照らされ、青白く、息を飲むほど美しかった。
    「誰なの? 何を話したいの?」
    「ここでは話せないよ」
     声が1オクターブ低くなった。姿形は女なのに、声は男。その違和感が脳の芯を揺する。
     彼はドアの隙間から手を差し伸べてきた。のけぞったが、逃げきれず、首筋に触れられた。彼はすぐに手を引っ込め、私に触れた指先を見つめてから、そっと咥えた。指には品のいいピンクベージュのネイルが光っている。
    「本当に覚えていない?」
    「……知らない。あの事故の関係者なの? はっきり言ってよ!」
     ドアの隙間でしばらくの間、私たちの視線が絡まり合う。微動だにせず、彼は指を咥えたまま私を見つめている。そして小さく息を吐く。
    「いいわ。また来る。部屋に入れてくれるまで、話さない」
     彼はくるりと背を向けて、赤い傘を手にして帰っていく。ヒールの音が廊下に響く。こんな雨の中を、華奢なパンプスを履いて、わざわざここへ来た意図はなんなのだろう。
     少なくとも私は、それほど恐怖を感じていない。本能的な恐ろしさを彼には感じないのだ。かといって味方でないこともわかっている。だけど、無意味な攻撃を彼はしてこない。マスコミや野次馬とは違う。
     本当に知り合いなのかもしれない。でも誰だろう。全く思い出せない。

     そして私は不思議に思う。後藤は張り込みとパトロールをさせると言ったのに、今、私たちが玄関先で小競り合いをしている間、警察関係者は誰も来なかった。
     三度みたび私は後藤に電話をする。呼び出し音が鳴り続ける。
     なぜこんなにも電話が繋がらないのか。取り調べでもしているのだろうか。だとしても、私の名前を見たらすぐに電話を取りそうなものだ。
     数分後に電話がかかって来た。
    「さっき、朝の男が訪ねて来たんです」
     状況を説明してから、警官が見張っていた素振りがなかった、と伝える。電話の向こうでハッキリと舌打ちが聞こえ、私は耳を疑う。後藤のあの微笑みと舌打ちがひどくミスマッチで不気味な気がする。
    「申し訳ない。確認します。すみませんが、三浦さん、詳しいことは明日また」
     後藤はそれだけ言うと、電話を切る。
     何か大きな事件が起こっていて、借り出されているのかもしれない。それなら、なかなか電話が繋がらないことも、こちらに駆けつけてくれないことも、説明がつく。そうだ、きっとそうだ。

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    #創作大賞2025 #ミステリー小説部門


     
     
     

    美柑

     
     
    noteデビューを機に、小説を書き始めました。 数年前にとある国に移住し、永住権保持者になりましたが、 息子が「日本の学校へ行きたい」と言い出したため、現在、一時的に東京暮らし。 TBS NEXT Writers Challenge 2025 一次選考通過(シナリオ公募)。

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