椎骨動脈解離で入院して No.19|山へ!
※この記事は回想録です。
さて。
前回、マダムたちの存在感が強すぎて、肝心の膝がどうなったのかを書き忘れていた。
両側にがっしりとした金具の入った、立派な装具を作ってもらった。
これのおかげで、松葉杖がなくても歩ける。
退院後は1週間ほど仕事を休ませてもらった。
我が家は最寄り駅から心臓破りの坂がある。
ゆっくり、ゆっくり。
気をつけないと、そのまま転がっていきそうだ。
まだ引っ越して間もなく、さらに車通勤から電車通勤に変わったばかり。
膝の心配より、遅刻しないかの方が心配である。
退院後、初めての受診は1か月後だった。
入院中にリハビリをしっかりしておいたおかげで、退院後にリハビリへ通う必要はなかった。
主治医からも、
「どんどん運動しましょう。筋肉をつけましょう」
と言われた。
確か、これで終診になったのだと思う。
本当に申し訳ないほど、治療の記憶がない。
それくらい順調だった、ということにしておこう。
脳の症状も落ち着いている。
膝も良くなりつつある。
そして膝を手術してもらってから、3か月後――。
私は、夢だった上高地を歩きに行ってきた。
思えば脳外科に入院してから、山へ行くことはできなかった。
これが、手術後初めての山である。
そうは言っても、無理はできない。
憧れの上高地を散策できれば、それで充分。
まさかピークを極めなくてもいい。
上高地まではマイカー規制があるため、バスで向かう。
終点の上高地バスターミナルに着いて、登山届を書いていた。
すると、片足を少し引きずるように歩く、おじさん……いや、お兄さんが近寄ってきた。
山の案内をしてくれている人なのだろうか。
「泊まり?」
「穂高登るの?」
「ひとり?」
いろいろ聞いてくる。
そして、私の登山届を覗き込んだ。
私の今日のゴールは、
『明神池』。
もし行けそうだったら、
『徳沢』。
明神池なんて、上高地から1時間ほど。
観光客がスニーカーでも歩いていける距離だ。
徳沢まで行っても、2時間ほどで行ける。
お兄さんは、ちょっとびっくりしたような顔をして、私の装備をまじまじと見た。
ガチの山登りスタイルである。
そして、履き古した私のトレッキングシューズを、何やら考え深げに眺めている。
たぶん、
「そんなにやる気満々の装備なのに、徳沢までしか行かないの?」
と思ったのだろう。
私は満面の笑顔で言った。
「病み上がりなんで!!」
そして、
「行ってきまーす!」
と出発した。
すると後ろから、
「川の右側歩くと、山が綺麗に見えるよー!」
と教えてくれた。
ありがとう、お兄さん。
行ってきます。
そして、憧れの上高地は――
すごい人だった(笑)。
さすが上高地。
河童橋。
梓川。
その背景にそびえる穂高連峰。
もう、どこを見ても美しい。
病み上がりじゃなかったら、絶対に涸沢カールまで行って、満天の星空を眺めながらビールを飲みたい。
明神池までの道は、高低差もほとんどない、本当に散歩道だった。
そんな道を歩いていると、向こうから続々と人がやってくる。
戦いを終えて、疲れ切った戦士たちである。
何日もかけて山を登ってきたのだろう。
大きな荷物を背負って、みんな疲れている。
山ではすれ違う人と「こんにちは」と挨拶をする。
でも、さすがにこの戦士たちには「こんにちは」が言いづらい。
元気そうな人には、
「こんにちは」。
ものすごく疲れていそうな人には、そっとしておく。
わかる。
疲れているときって、「こんにちは」すら出てこないんだよね。
明神池まで歩いた。
そして――
もちろん徳沢まで行った。
行かないわけがない。
徳沢まで来る観光客は、ぐっと少なくなる。
私はそこで、山から下りてきた人たちを眺めていた。
どこ登ったのかな。
いいな。
私も行きたいな。
そんなことを思いながら、お土産を買った。
もう、すべてが美しかった。
キラキラしていた。
帰りたくなかった。
脳の手術をしてから、初めて来た山。
膝の手術をしてから、まだ3か月。
でも私はもう、
「山を歩けた」
ことより、
「もっと先まで行きたい」
と思っていた。
帰りのバスが早い時間だったので、名残惜しいけれど急いで戻った。
バスターミナルまで帰ってきて、行きに声をかけてくれたお兄さんを探した。
教えてもらった道、本当に綺麗だったよ。
ありがとう。
そう言いたかった。
でも、もうそこにはいなかった。
旅先でほんの少しだけ言葉を交わして、そのまま二度と会わない人がいる。
なのに、なぜかずっと覚えている。
さて。
感傷に浸っている場合ではない。
私には、山登りの後のルーティンがある。
ソフトクリームを食べるのだ。
これも山へ行く楽しみのひとつ。
憧れだった上高地。
今回は明神池、そして徳沢まで。
充分だった。
……いや。
次は、もっと先まで行きたい。
いつか涸沢カールまで。
満天の星空を眺めながら、ビールを飲もう。
その日を楽しみに。
今日はソフトクリームを食べて帰る。
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