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チロル会音楽部~ロック青春記 第26話*熱血キーボード小僧、その後

    マジシャン めどう

     昭和六十年春。高校卒業後、十二年の歳月が流れていた。
     かつてのバンド仲間の中で、末原康志君と鮫島秀樹君の両名が、それぞれプロのミュージシャンとして活躍しているのは知っていた。
     僕自身、音楽自体は続けていたが、その形は随分変化していた。
     二十九歳。音大を出てから二年。
     僕は、長野県上田市に移住し、ピアノ教師としてのスタートを切ることになる。
     かつてプログレ・キーボード少年だったことは、すでに“過ぎ去った思い出”となっていた。
     ところが、過ぎ去ったはずの熱き思いが、意外な形で再び息を吹き返すことになる。

      その春、所属することになった音楽教室が、ビクターの教育システムを採用しており、ピアノと並んで、初期教育の“リトミック”、そしてビクターの電子オルガン“ビクトロン”のための独自のメソッドを、三つの柱として掲げ、力を入れていた。
     入職して間もない頃、同期採用された若手講師が集められ、ビクター本社から派遣されてきた営業社員によって、二段鍵盤と足鍵盤からなる電子オルガン、ビクトロンの説明を受けた。
     会社にとっては、それがビクトロン講師を育成するための第一歩だったのだが、自分にとって、それはまったく違う意味を持っていた。
     初めてその鍵盤楽器を見たその瞬間、胸が躍った。楽器の形状やオルガンの音色など、かつて憧れたハモンドそっくりに出来ていた。しかも、そこにアナログ・シンセサイザーが搭載されていて、僕の目には、子どもに教えるため教育楽器ではなく、70年代ロック・キーボーディストのための最強兵器として映った。

     その後、ビクターのメソッドを使った指導講師によるレッスンを何度か受講させられたが、その教材、そして行儀よく椅子に腰掛けて足鍵盤を踏み鳴らすスタイルに興味が持てず、指導講師相手に、かつて自分がステージでプレイしていたアドリブ・フレーズを披露したり、キーボード主体の人気バンドだったエマーソン、レイク&パーマー(略称EL&P)のアルバムを聴かせたりと、準備されたコースに全く乗っかろうとしなかった。しばらくして、指導講師にそのレッスンの中止を願い出ることになる。営業の上層部には、ピアノ教育一本に絞らせて欲しい旨を伝え、とくに反対も無く受諾された。

     その少し前のことである。レッスン時に指導講師から、コンクールに出場する自分の生徒のために、EL&Pのヒット曲『タルカス』をアレンジしてもらえないかと頼まれた。かつて、プログレの代表曲として自分が最も魅かれた曲だ。その際、前年の全国大会のプログラムを見せてもらったのだが、優勝曲として記載されていた曲名が、なんと、『タルカス』と同じく、キース・エマーソン作曲の『ピアノ協奏曲』だった。
     ロック・ファンへの受けが悪く、人気低迷の原因ともなったその大作が、今まで知り得ずにいた世界で形を変えて生きていた。それは、新鮮な驚きだった。
     商業ベースのヒットチャートとは無縁のこの世界であれば、自分のやりたいことを、そのまま生かせるかもしれない。そんな思いが、脳裏をよぎり、凍り付いていた“時”が、ふたたび流れ出した。

     その生徒のレッスンを初めて見たときのことを今でもよく覚えている。目に輝きのある中学3年生の女の子だった。タルカスを弾く手の動きが、実に俊敏でアグレッシブ。フットペダルや足スイッチの操作などは、ほとんど神業のように見えた。
     中三と言えば、僕が音楽仲間と共にロックに熱中し始め、キーボードのスター・プレイヤー、キース・エマーソンに出会った頃だ。
     ポピュラーソング・コンテストにチャレンジし、キーボードの上で指を高速で走らせ、爆音で会場を驚かせたあの頃の熱気を思い出し、指導する側に立つ自分もワクワクし、コンクールのための特別レッスンにも力が入った。
     そしてこの年、その子にとって初めての地区優勝を果たす。

     翌年は、この生徒のためにオリジナル曲を作ることになる。エマーソン風のスピーディーな曲で、アナログ・シンセによるメインテーマ、リズムボックスをフットスイッチを使って変則的にオン・オフさせた不規則拍子、足鍵盤の超絶技巧ソロなどを取り入れた、異色を放つ否が応でも“目立つ”曲。県予選、そして地区大会では、絶大な効果を発揮し、一人目立ちし、当然のように優勝。
     全国大会では、他に派手な曲が多数出てきたため、その中に埋もれてしまった感があり、残念ながら入賞を逃してしまった。

     さらに翌々年は、音楽的な充実を図り、プロコフィエフのピアノソナタ第七番の一楽章をエマーソン風にアレンジして再チャレンジ。  
     この曲は、高校時代から、いつかハモンドで弾いてみたいと思っていた曲だった。そして、ついに全国大会で最優秀賞を受賞することとなった。
     タルカスで地区優勝した年以降、コンクールの度に、複数の参加者からアレンジを依頼されるようになる。長野は、関東信越地区優勝の常連となり、全国優勝者も複数回出るようになった。
     こうして、自分自身はオルガンの講師資格を持たず、直の生徒も全くいないにも関わらず、コンクールの度にアレンジを頼まれ、せっせと五線譜を書き続けているうちに。いつしか「長野にアレンジをしてくれる人がいるらしい」という噂が広まって行った。
     そしてある年、コンクール全国大会会場で、東京の講師からもアレンジを依頼される。
     その生徒は、かつて長野県の諏訪地区にいたことがあり、地区大会でたびたび好結果を出しており、顔も名前も知っていたので、シンパシーを抱くことも容易だった。
     ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタをチョイスし、これまたエマーソン風アレンジを土台にし、様々な要素を盛り込み、まさに心血を注いで取り組んだ。
     一、二枚ずつ書き上がるたびに、DTMで制作したデモ演奏をカセットテープに録音し、譜面に添えて郵送した。その度に、担当講師からの好反応が得られた。
     地区大会が近づき、演奏も急ピッチで仕上がり、周辺の期待も高まって来た頃、特別レッスンを請われ、上田市から、JR信越線に乗って何度か東京に出向いた。
     上田駅から特急列車に乗り込み、東京へと近づくたびに、学生時代を思い出し、日常空間から遠ざかり、時を遡っているかのようにわくわくしたことを覚えている。
     そうこうするうちに「東京地区の参加曲がスゴイ」という前評判が高まり、下馬評通り、当然のように優勝。
     この取り組みは、ピアノ教師としての経験や学習とはほぼ無関係で、むしろ、それと並行して進めてきた音楽制作業で、CMやテレビ番組のために、試行錯誤しアイディアを捻り続けたことが生かされていた。
     ピアノ教師としての表の評価には繋がらない“裏活動”に、あそこまで情熱をささげられたのは、“結果を出したい”という単純な上昇志向の表れでもあったが、それ以上に、それが、キーボード小僧だった頃からの“見果てぬ夢”の実現だったことが大きかった。
     自分自身がステージの中央に立つことはなくても、あの頃追い続けた音は、確かに、自分の中で生き続けていた。

     思いを一つにして、最大限の頑張りを見せてくれた生徒たちや、保護者、先生、そしてその周辺の方々に、心から感謝している。

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