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チロル会音楽部~ロック青春記 第27話*老松との出会い

 ピアノ教師としてスタートを切って五年が経過した頃、それと並行して、音楽制作の仕事も行うようになっていた。
 パソコンとシンセ音源を使って、CM用音楽、テレビ番組のテーマ曲やBGM、劇伴音楽、各種団体の愛唱歌、市の広報車用音楽等、様々な依頼があった。
 電子オルガンのコンクールでは、エマーソンのような攻撃的な作風が威力を発揮したが、商業音楽を数多く手掛けるためには、ある特定のスタイルだけにこだわってばかりはいられない。そんなわけで、曲を作る時の自分と、プログレキーボード小僧だった自分とは、完全に切り離して考えていた。

 その頃、上田市を拠点とする文芸同人『顔』に加入し、エッセイを何本か投稿したことがあった。
 そんな中に、ある一本の梅の木を題材にして、自分の幼少時を描いた『微笑みの木』という一編があった。
 同人誌が刷り上がると、会員は皆それぞれ十冊のノルマが課される。僕は、その中の一冊を、上田市塩田地区に住む、知り合いの方に渡してあった。音楽制作の仕事を通じて知り合った、某広告代理店に勤務する十歳年上の方で、名を堀内さんと言った。

 その堀内さんから一本の電話をもらったのは、平成四年十二月のある日のことだった。
 仕事の依頼かと思ったが、そうではなかった。
 開口一番、彼はこう言った。
 「エッセイ読んだよ。面白かった。いやぁ、なかなかいい感性してるねぇ」
 ここで、声のトーンが少し変わった。
 「それでね。実は君に会ってほしい男がいるんだ」
 紹介したい人物がいるという。その人は彼の幼馴染みで、ある一本の木に強くこだわっているという。
 「実は、その木が、今、枯れそうになっていてね。奴はそれを何とかしたいと思ってるんだけど、理解してくれる人がいなくて孤立してるんだよ。君だったら分かってくれるんじゃないかと思って、それで電話したんだよ。何とか協力してやってほしいんだ」
 聞きながら僕はこう思っていた。
 ― 自分にとってのあの梅の木のように、その人の思い出が染みついている木なのだろう ―
 僕はすかさずこう訊いた。
 「その木は、その人にとって何か特別な木なんですか?」
 「簡単に説明できないんだよ。直接会って、話を聞いてやってほしいんだ」
 「わかりました。ぜひ会って話を聞いてみたいです」
 「近いうちに、僕が場をセッティングするから」

 年が明けて、堀内さん宅で新年会が行なわれ、電話で聞いていた彼の友人と、初めて顔を合わせることになった。
 堀内さんから紹介されると、その人は、松の木のことを雄弁に語り始めた。
 その木は、里山の頂上に聳える大松で、かつてそこが村だった頃、共同作業の場となっていた。その木はそういう場に立ち、住民の心を一つに纏めるための象徴松だった。その木が、マツクイムシ被害に遭い、枯れそうになっている。なんとかしたいのだが、地域が様変わりした現在、多くの住民が耳を傾けようとせず、孤立状態から抜け出せないでいる。
 そう語る彼の顔には、疲労の色が浮かんでいた。
 彼の名は村山隆。
 その後「老松保存会」を立ち上げ、会の事務局長を務めることになる。

 後日、松の木が立っている里山の頂上に案内された。威風堂々とした佇まいに圧倒されたことを覚えている。幹のあちこちにヒトクチタケが群生しているのが痛々しかった。枯れたばかりの松に生えるキノコである。
 そこから、彼の地道な活動が始まった。残された切り株の年輪から、およそ二年の歳月をかけて、様々な史実が発掘されて行くのである。
 孤立状態から始めた保存活動も次第に賛同者が増え、「老松保存会」が結成されるまでになった。
 そして、平成八年六月。第一回目の役員会が開かれることになるのだが、その日を迎えるにあたって、村山さんからあることを頼まれた。
 「曲を作ってくんねえか…」
 皆の心を一つに纏めるために、そして会の存在を広く知らしめるために、音楽の力を借りたいのだと言われた。
 役員会のときに、松枯れへの怒りと悲しみをテーマにした六分余りの一曲『Big Tree Elegy』を発表。
 うねるようなストリングスと和太鼓の重々しい響きに支えられ、尺八による主旋律が悲痛な叫びを鳴り響かせた。
 以後、例会が開かれるたびに、一曲ずつ増えて行き、創作への取り組みが信濃毎日新聞の東信版や上田ケーブルビジョン、東信ジャーナルなどでも取り上げられ、会の存在と共に、作曲家としての僕の名前も知られるようになって行く。
 特に上田ケーブルビジョンなどは、四十分越えの単独取材番組を放送してくれたうえに、文字テロップだけが流れるときに、BGMとして使用してくれるなど、積極的にバックアップしてくれた。その甲斐あって、町で「テレビ見ました」と挨拶されたこともあったし、イベントへの出演依頼も目に見えて増えて行った。
 そして、会結成から二年後の平成十年、十二曲から成る組曲『松の木の物語』が完成するのである。
 そこには、松の木の周囲に広がる様々な美しい自然、動物たち、人々の祈り、祭り、災害、武田と上杉の戦いなど様々な情景が描き出されている。表向きには、徹頭徹尾、そういった説明だけを貫いてきたが、制作の裏話的なことを白状すると、ここには、かつて自分が、少年時代に愛しんだ音楽が息づいているのである。
 ドラムセットの音は使っていないが、和太鼓を使いながらも基本的なビートはロックである。
 祭りの躍動感を表すために、曲の一部に、イエスやELPを思わせる不規則拍子を取り入れた。合戦の重さを表すために使ったストリングスと木管楽器の響きは、初期キング・クリムゾン。人々の祈りを表現している箇所は、ピンク・フロイドの『原子心母』。のどかな田園風景を描いた一曲は、エルトン・ジョンの『フレンズ』で聴かれるポール・バックマスター編曲による室内オーケストラ。中学時代に末原君のお父さんから借りたレコードで出会ったサウンドである。そして、戦国武将の行軍を表す部分、楽器編成は違えど、もろにエマーソンである。
 商業音楽の場合と違い、テーマが「松の木」でさえあれば、音楽的には何の縛りもなかった。初めからプログレ的要素を取り入れようと思っていたわけではないが、創作が進むにつれ、どうしても元プログレ少年の顔が出てしまうのだった。

 この組曲制作については、ひとつ大きなオマケも付いてきた。制作時期が、長野冬季オリンピックの前年と重なっており、県内各地で開催された盛り上げコンサートへの協力を依頼された。その時点で出来上がっていた数曲を披露したのだが、それがコンサートの主催者であり、オリンピックの音楽主幹を務めていた方の耳に留まり、フラワーセレモニーのBGM作曲を依頼された。
 男子スキージャンプの団体戦で、原田、船木ら日本チームが優勝し、花束贈呈式が行われた時、会場で鳴り響いていたのが、その曲である。
 この曲の大半は、オーケストラ・サウンドで構成されているが、中間部では、主旋律として、シンセサイザーの図太い響きが高らかに鳴り響く。そこには、キース・エマーソンからの影響がもろに出ている。
 ちょうどCD『松の木の物語』の制作と時期が重なったため、ボーナストラックとして収録してあり、二重の意味で思い出深い一枚となった。

 CD制作の際には、かつてザ・レイクのドラマーだった中間君が力になってくれた。彼は、福岡で音響関係の会社を営んでおり、曲が出来あがったあと、自分でやったことは、DATに録音するところまで。その後の作業、三千枚のCDが完全パッケージされるまでの工程を、すべて彼が引き受けてくれた。
 CDが完成すると、信濃毎日新聞が記事として取り上げ、それを目にした一市民の方が、祝賀会の場を設けてくれた。
 その日、九州から中間君、府中からベーシストの日高康寛君が駆けつけてくれた。
 今になって気付いたのだが、この二人と僕は、高校時代、ザ・レイクが解散した後に組んだキーボード・トリオ、トライトンのフルメンバーである。
 一緒にラジオやテレビのローカル番組に出演し、EL&Pのナンバーや、僕が作曲したオリジナル曲を演奏した仲間だ。   
 二人は、その後の打ち上げにも参加し、祝杯を交わした後、ふらふらになるまで飲み明かした。  

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