
真昼の銀河を履く女 ―母から授かった「狂気」という名のお守り―【野生の継承③】
私は、母の狂気を背負って生きている。 だが、それを悲しいと思ったことは一度も無い。むしろ、その呪いこそが私を救ってきた。
その狂気は、十五年履き古されたパンツの穴から漏れる、真昼の銀河のような光だった。
ふてぶてしくも強靭な母に、私は感動すら覚えている。 母は言う。**「美人で何が悪いんじゃ~」**と。
母は生まれてすぐに捨てられた。「女の子は稼げないから」という理由で。 暖かい家庭を夢見た母は、小学校二年生で実家へ逃げ帰った。だが、祖母は「アンタは見識が高いから嫌いや!」と母を邪険にした。母は大人の預かり知らない所で、確固たる自我を確立していたからである。
幼少期、母は富豪の家に出入りしていた。自分の置かれた境遇が極貧だった母にとって、それは眩い経験だった。 家の主であるお婆さんは、お琴や三味線から美しい音色を響かせ、庭にある那智黒の石を愛でていた。嫁は、丸くてツルツルした形の整った石を持ち上げ、漬物を漬けていた。その嫁が漬ける漬物を、家族全員で食べる。
その光景の中に、母はいつか本当の家族と共に食卓を囲めるかもしれないという一縷の希望を見ていた。幼稚園にも行かせてもらえなかった母は、唯一の学びの場であるその家で、幸せに暮らしている人々の知恵を吸収しようと、鋭い眼光を光らせていたのだ。
祖母は、幸せを求めて激しく自己主張する母に「悪い子」の烙印を押した。そんな祖母に、母は「三つ子の魂百までなんじゃわ~」という言葉を投げつけながら反抗した。
圧倒的に美しい母は、大人達に執拗にいじめ抜かれ、泥水をすすりながら過酷な幼少期を過ごした。それ故、母は娘である私に、生き残るための**「戦闘員としての魂」**を植え付けた。
虎と呼ばれた秘書、お風呂の闘争
極貧生活の中で、沸々と怒りの炎を燃やしながら幼少期を過ごした母は、やがて大手企業に就職。受付嬢を経て重役秘書になった。 ここでも母は、成功者の有り様を目に焼き付ける。百貨店の外商が持参する美しい品々や、重役達が磨き上げる菊花石を羨望の眼差しで見つめる母。
しかし、祖母は母の成功を複雑な心境で眺めていた。「貧乏人らしく、大人しくしとけ!」祖母は母にそう言い聞かせてきたからだ。母の成功は、家庭内に大きな嵐を運んできた。
ある日、実家にお風呂を作ろうとした母に、祖父が猛然と立ちはだかった。 「風呂はな~、一カ月に一回入っとったらええんじゃわ~」
自らそのお手本を示す祖父は、言い放った。「ワシは、結構(綺麗)じゃ」と。だが、その誤解は、祖母がこっそり祖父の黄ばんだ枕カバーを洗っていたところから生まれていた。
赤子の頃より「虎」とあだ名された母は、父親めがけて言い放った。 「この家の家計はな~、私が支えよるんじゃわ~」 「そんなことも知らんのか、アホが!」
こうして、母は清潔な体で会社に行く権利を手に入れたのだった。
落馬の王子との出会い
やがて、母は所持金たったの三万円だった「落馬の王子」と結婚する。 両親に仕送りをしていた父は、寒空の下、コートを買うお金も持ち合わせておらず、地べたを這いつくばっていた。厚かましくも、父は母に言った。
「大丈夫、私に借金はなか!」 「一緒にのんびり暮らして行かんね!」と。
母はこの貧乏青年を「正直だ!」と、すっかり気に入ってしまった。不思議なことに、祖母もまた、この澄んだ目をした青年にすっかり参ってしまい「お婿さんに当たった」と大喜びした。
敵対していた祖母と母が、共通の人物を応援することで、二人の間に雪解けムードが漂い始めた。こうして父は、我が家の平和のシンボルとしての地位を築くことになったのだ。
父は言った。「普通の女はつまらんと!」 父は、自分の実力を大いに発揮できる「猛獣」を生涯の伴侶に選んだ。幼い頃から多くの人の中で揉まれて育った父は、自らの人間操縦術に絶対的な自信を持っていた。
父の毒は、それと分からず静かに効く。父が猛獣を手懐けるのに、多くの言葉はいらない。母が毒を吐き、周囲を焼き払おうとする時、父はとぼけた顔をして、軽やかに言葉を繰り出す。
「幸せやないね!」
この一言だけで母の毒を抜いてしまうのだ。父こそが、この虎を乗りこなす真の騎手だった。
ある時、祖母は父の独身時代の写真を嬉そうに見せてくれた。 そこには、ボロ小屋の前ではにかみ笑いをする骸骨みたいな父が写っていた。これを見た私は、「豚にすら乗っていない」と父を揶揄し、祖母に「人間は見た目ではない!」と諭されてしまった。
だが、何も持たざる父は、どう見ても落馬しているに等しかった。
ケーキの略奪と生存本能
そんな一筋縄ではいかない両親のもとで、私の野生は育まれていった。
小学校低学年の頃、母がケーキを買ってきた。そのうちの一つを残して眠りについた翌日。冷蔵庫を開けた途端、母の声が頭上から鳴り響いた。
「ざまあみさらせ!」 「食いもんはな、見たらすぐ食っとけ! 分かったか!」
母は闇夜に紛れ、ケーキを鷲掴みにして胃の中に流し込んでいたのだった。 だが、それは私にとって想定内の出来事だった。黙って立ち尽くしていると、父は笑って「ケーキの一個や十個でくよくよするんでなか」と言った。
母は、私が怒り、それを力に変えて自分に挑戦してくることさえ願っていた。「かかって来い!」と。その意味では、私は母にとってまだ物足りない存在であったのかもしれない。
世界は隙を見せれば奪われる。だが、奪われたところで命までは取られない。 そんな豪快な生存本能が、我が家の日常だった。
中学生の頃、母と同じ匂いを纏う友人が、同級生の悪ガキに「ブス」と罵られた。彼女は間髪入れずに反撃した。 「おまえの金玉、腐っとるんじゃけんのー」
この日を境に、彼女は「完全なアホ」のレッテルを貼られたまま学校生活を終えたが、友人に後悔の色は一切見られなかった。静まり返る校庭で、私は彼女の中に自分を見つけて震撼した。「自制心の欠如は、世間ではアホと定義されるのだ!」と。
剥き出しの自分で生きることの代償を突きつけられた私は、実験的に、一年間の沈黙という苦行に身を投じた。「良い子」を演じて手に入れられる、普通の幸せというものを実感してみたかったからだ。
沈黙を守り、石を投げられても微笑む私の魂は、日に日に痩せ細っていき、吐き気すら覚えるようになってしまった。
結局、私は「良い子」という称号の中に価値を見出すことができなかった。良い子を演じることは、時に自分の尊厳を差し出すことになるからだ。他者からの攻撃に黙って耐えたとしても、彼らに対して何の傷跡も残せはしない。
このような灰色で息苦しい日々に私は疲弊し、結局、野生へと帰った。最初から、私に普通の子は無理だったのだ。 自らの内なる声は体から溢れ出し、まるで海鳴りの中に身を置いているような違和感に、私は我慢ならなくなってしまった。
どんよりと曇った私の表情を見た母は言った。 「アンタ、人間っちゅうもんを尊敬し過ぎてへんか?」 「他人は、アンタの人生に何の責任も持ってくれへんのや!」と。
「誰かの期待に応えるのは、もう、止めなんじゃわ~」
私は自分を解き放った。
それから年月が流れ、大人になった今も、私はあの時の「解放」を武器に社会を泳いでいる。
洗濯機「銀河」
結婚に際して父が持参したのは、独身時代から使用していた東芝の二層式洗濯機、その名も「銀河」だった。 母はこの二層式洗濯機で、十五年洗っても穴の開かなかったグンゼのパンツ達に愛着を持っている。ガガガーと轟音を立て、ブルブルと震えるその洗濯機は、父の手直しによって二十年以上の年月を耐え抜いた。この修理は、母の強い要請によるものだった。
母は、この「銀河」という同志をこよなく愛していた。 「洗濯物、痛まんでエエな~」と。
十五年目以降、遂に母の年代物のパンツ達が悲鳴を上げ始めた。細かな穴がポツポツと現れ始めたのだ。それでもである。母は、それらをさらに五年以上も履き続けた。
嫁入り当時、小さかったパンツ達はその年月とともに巨大化し、凡人には到底理解できないであろう不気味な芸術作品と化していた。母は、それをガシっと掴み上げて、誇らしげに笑った。
「風通し良くなったな~、エエやろ~?」 「夏にぴったりやな!」 「ドロちゃん(泥棒)にも盗まれへんし!」
真夏の太陽の下、そのパンツの穴から漏れる光の中に、私は**「真昼の銀河」**を見た。それは、獲物を狩る時、母が放つ異様な輝きと重なった。
夕暮れ時、日の光を纏わないそのパンツは、急にグロテスクなただの布切れへと成り下がってしまう。母は蛍光灯の下で、その穴開きパンツを綺麗に畳んで、桜の木で作られた高級箪笥にしまう。まるで、眩い宝石を並べるかのように。
母は、常に矛盾の中に身を置いてきた。自分はボロ家に住みながらも、身の回りには常に眩い光に包まれた人達がいて、自らの生活と比較し続けていたのだ。
極貧家庭でハンカチの一枚も買ってもらえなかった程、過酷な幼少期を過ごした母にとって、たとえ穴開きパンツであったとしても、それは宝物なのだ。母のちぐはぐさを、私は不思議な気持ちで眺めていた。
「箪笥と釣り合わないかもね……」
この時、母の背中からは、得体の知れない強烈な光が放たれていた。 すると突然、私の脳内に、炎天下で雄々しく咲き誇るヒマワリの姿が現れた。パンツの大穴。それは、まるで、ヒマワリの種の集合体を思わせた。幼き日、私は、そのブラックホールに恐怖した。
交通事故と最強の闘争服
私達家族は知らなかった。この後、母の最強パンツの地位が脅かされる日がやって来ようとは。
ある日、父の運転する車で買い物に出かけた母は、後ろから追突された衝撃で宙に舞った。腰を強打した母は、そのまま病院へ向かった。看護師が「レントゲンを撮りましょう!」と言った瞬間、付き添っていた父が、ぽかんと口を開けて絶望的な顔をした。
父の心はざわついたそうだ。 「今日は、どっち(パンツ)のやったと……?」
いつもは強気な母自身も、この時ばかりは自分のパンツを心配した。「貧乏な患者だと思われて、雑に扱われへんやろうか?」 母が恐れたのは世間体ではなく、医療の質の低下という実利であった。
母は、病院の待合室でこっそり自分のパンツを確認した。 「今日は、エエやつ、履いとったわ!」 ホッと胸をなで下ろす父。
この話は、母の実母にも伝わった。祖母は顔を歪めながら、私に言った。 「花甘露ちゃん、ほやから、パンツはエエの履かなあかんねんで!」
交通事故から我々家族が学んだのは、そんな事だけだった。
母は、その後もグンゼの穴開きパンツを履き続けた。穴開きの最強パンツ。 それは、「世間に負けへんぞ!」という母の**「闘争服」**なのだ。「ボロは着てても、心は錦」と胸を張りながら、母は今日もそれを身に付ける。それは、現在ある程度の富を手に入れた母の余裕の表れでもあった。
ヒスイ海岸の漬物石
そんな母の夫である父が、家庭円満のために心がけていること。それは「妻子野放し」を装うことだ。時に、やんわりと「導きおじさん」としての顔が現れる。
父は、多くの兄弟に揉まれて育ったツワモノだ。「変人キラー」としてその名を馳せている。
ある日、富山県のヒスイ海岸に解き放たれた母は大喜びだった。母は石が大好きだ。それも、ヒスイではなく「漬物石」に目が無い。 冬風が吹く寒空の下、ツルツルの漬物石を物色すること四時間以上。その間、全く石に興味の無い父は、何をしていたのか謎である。
遠くで母が叫ぶ。「お父さんも協力せなな~」 やがて日が暮れ、薄暗い誰もいない海で、まだ石拾いを止めようとしない母。放っておけば、倒れるまで海に居るだろう。
ここで、父が出動する。 「お母さん、寒いと!」 「お腹空いたと!」 「メシば食わんと、病気になると!」
母は渋々我に返り、帰宅に同意した。モノは言い様だ。もしここで父が「価値も無い石を拾うな」「荷物になる」などと正論を吐いていたら、暗い寒空の下で大喧嘩になり、夜メシどころではなくなっていたはずだ。父は母の飼い馴らし方を、完全に熟知していた。
野生を生き切る心得
祖母は母を小さな盆栽の鉢の中に閉じ込めようとしたが、結局、母はその鉢をぶち壊して、生命体としての輝きを手に入れた。母が娘に焼き付ける狂気を祖母は嫌悪したが、その姿を見る母は、高笑いをしながら甘美な喜びに浸っていた。この種の狂気は、他者にも確実に深い爪痕を残す。その喜びは、私にも伝染した。
かつて亡き友人は、私の中の狂気を発見して乱舞した。 「貴方は普通を知る必要がない。普通を知れば、貴方はつまらない人間になってしまうから」と。
自分の身に起こる不都合な真実を、真っ直ぐに見つめて力に変える。打ちひしがれ、自分を騙したところで何が得られるというのか。
「この世にある、どんな汚れも承知して生きて行け」
その母の言葉は、私の一生のお守りとなった。 私は泣かない。初めから他者に対する期待をしないばかりか、過度な尊敬の念すら抱かない。そうすれば、騙された、傷付けられた、優しくされなかったとか、そんなことで自分の人生を狂わされたりはしないからだ。
また、周りの人達の目を気にして、挑戦することを止めたりはしない。他人は好き勝手なことを言うが、決して自分の人生に責任を取ってくれたりはしない。
私は一年ほど前、転職した。「新しい風を吹き込んでほしい」という建前で迎え入れられたはずが、いざその風を吹かせようとすれば、途端に周囲の視線は冷たく突き刺さる。
私は今の会社で、あるベンダーとの交渉の末、過去最安値での契約締結に成功した。その過程で、私は持てる野生のすべてを総動員した。 営業担当者の息遣い、言葉の端々など、すべてに注意を払い、私は確信した。「このベンダーは、絶対に契約を取りたがっている!」と。
そこで、「上司は、値段しか見ていなくて。私も困っているんです」と事情を明かし、共通の敵を示すことで、私は営業担当者の感情に訴えかけた。この、自分を表に出さない手法は、父が使う高等戦術そのものだった。
だが、それを見た私の教育係は、呆れた顔をして私を叱責した。 「業者なんかと詳しい話をするな!」 「舐められて殺られるぞ!」と。 確かに、泥臭く相手の懐に飛び込む私の姿は、危うく見えたかもしれない。
だが、私は顔色一つ変えずに、彼の発言を切り捨てた。 「あっ、そう」と。 母なら、間違いなくそうするからだ。
これは、「殺るか殺られるか」といった次元の話ではなかった。物事の表面しか見ていない彼の発言は、薄っぺらく響き、母から受け継いだ野生の本能に火を付けた。
獲物を狙う狩人の如く、八カ月もの間、同じベンダーからの電話を取り続け、私は時を待った。ターゲットを追い詰める時の、あの緊縛した快感を脳内に充満させながらだ。私は、他社製品の長所や欠点、このベンダーの製品の改善点を、はしゃぎながら話し続けた。契約するかどうかも分からないベンダーとのやり取りを、長々と続ける私は冷たい視線を浴びた。
この時、私の頭の中に、母の漬物石への執念がまざまざと蘇った。 目的を達成するまで、恐ろしいまでの情熱を注ぎ続ける、あの母の姿だ。
母から授けられた動物的勘は的中し、一度も「値下げしてください!」と言わなかったにも関わらず、年末、ベンダーは自ら値下げを申し出てきた。この時、脳裏に焼き付いた母の狂ったような高笑いが、私の中で充満した。
私は心の中で密かに呟いた。
「仕留めた」
と。
契約締結後、厚かましくも「契約成立の記念に、御社のキャラクターグッズをください!」とお願いしたところ、ベンダーは快諾してくれ、それらは段ボール箱で送られてきた。私はこれらの品を、自分に冷ややかな視線を送り続けた人達に分け与えた。
私は本能的に知っていた。冒険し、泥を被らなければ、あの「真昼の銀河」のような輝きは手に入らないことを。 交渉を終えた私は、静かに母という銀河に思いを馳せた。
母は常に、自分の意志や欲望に対して誠実だ。その純度は時として狂気の域に達し、周囲を焼き払う。だが結局のところ、その自分への忠誠心こそが、自分を守り抜く唯一の盾になるのだ。効率化やルールが魂を削る現代において、この泥臭さこそが人間を取り戻す手段かも知れない。
私は今日も、真昼の銀河を履いて戦場へ向かう。
十五年履き古したパンツのように、ボロボロで。世間からは頭がおかしいと笑われるかもしれない。だが、 それでいて、誰にも汚せない、直視できないほど眩しい誇りを抱いて。
本作は、普通という檻を壊し、独自の野生で生き抜く家族の軌跡を綴った**【野生の継承 三部作】**の第3弾です。
【野生の継承 三部作】 完結しました
第1弾
エリート上司の毒を抜く、父の「そろばん」と「猛毒の直言」【野生の継承①】|花甘露
第2弾
真珠館の静寂を粉砕した、元重役秘書による「一撃」【野生の継承②】|花甘露
▼このシリーズをまとめたマガジンはこちら
真昼の銀河を履く ―わが家の野生生存記録―|花甘露|note