
【美術展2025#55】岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ@東京都現代美術館
会期:2025年4月29日(火)〜7月21日(月)
絵画、彫刻のみならず、建築や環境文化圏計画、絵本、ロボット開発などの幅広い表現領域でも革新的な仕事を手がけ、さらには文化全般にわたる批評家としても活躍してきた岡﨑乾二郎(1955-)。その活動の根底には私たちの「認識」と「世界」を結び直す力としての「造形」があります。
AIをはじめとする科学技術の革新、環境危機、政治状況の混沌…。私たちが捉えてきた世界、社会を制御してきた制度は急速に失効しつつあるように思えます。世界は崩壊しつつあるのでしょうか。
しかしその問いに対し、岡﨑は、「世界は崩壊しているのではない。動揺しているのは私たちの認識である。」と言います。岡﨑にとっての「造形」とは、私たちが世界を捉える、その認識の枠組み自体を作り変える力です。すなわち、認識を作りかえることで世界の可塑性を解放し、世界との具体的な関わりを通して認識の可塑性を取り戻すことです。造形とは、この二つの可塑性を実践的に繋ぎなおすことだと彼は言います。
近年国際的な評価も高まるこの作家が大きく転回した2021年以降の新作を中心として、過去の代表作を網羅しつつ、その仕事の全貌を展望します。
──なんどでも世界は再生しつづける。而今而後(これから先、ずっと先も)。
「かんじろう」ではなく「けんじろう」と認識したのはかれこれ四半世紀くらい前だろうか。
きっかけとなった作品は覚えていない。
それともどこかで読んだ批評文の類からだっただろうか。
いずれにせよあまり聞かない漢字の読みが印象的で頭の片隅にはずっと存在していた作家。
近年になって急に方々で作品を目にする機会が増えた気がする。
昨年だけでも高橋龍太郎コレクションやUESHIMA MUSEUMなど。
アートフェアとかでもちょいちょい目にしたな。
孔子の論語から引用したという「而今而後」と題された今回の展覧会。
解説文では「これから先、ずっと先も」という意味だとしている。
知名度の割には意外だが東京では初めての大規模個展とのこと。
2021年に岡崎氏は脳梗塞で倒れた。
その時期を本人は「展開」と呼んでいるが、それが差し詰め「而今而後」でいうところの「而今」に当たるのだろうか。
展示は「展開」を境として「而前」と「而後」に別れている。
「而前」は初期の立体作品から始まる。

一筆書き的に平面から立体へ。

《あかさかみつけ》《おかちまち》《そとかんだ》など、東京の地名が作品タイトルとして付けられている。
名付けの法則やルールを考えてもわからない。
もしかしたらタイトルにはそれほど深い意味はないのかもしれない。
部屋を進むと「たてもののきもち」シリーズを大型化したような立体作品が転がっている。

こちらの大型立体作品はパーツを組み合わせて作られているので、「たてもののきもち」シリーズとはコンセプトが全く異なるのだが、この作品がここにあることで後半の立体作品群の匂わせとしてつながっていく。
大型平面作品が掛けられるエリア。

部屋が中央で分割され、同じような平面作品が並ぶ。
迷路に迷い込んでしまったようにも感じる。

タイトルはちょっとした詩くらいのボリュームがある。
途中で読むのを諦めた。

小さいのもある。
これくらいのやつだったら家に飾りたい。

「ゼロサムネイル」シリーズは2005年頃から制作し始めたが、当初は絵画のためのスケッチ、構想を留めておくメモ、いわば絵画的なインデックスのようなものだった。小さな画面のそれぞれは(1枚1枚の絵画が、本来備えていなければならない)その絵画にしか表されていない固有性=キャラクターの手がかりが含まれている。タイトルは、その手がかりを読み解くためのもう一つの手がかりともいえる。画面とタイトルという二つの手がかりのセットは、絵画や物語が生み出されるところの、特定の場所を想起=再生させる(作者にとっては)いわば最小限の絵画の素である。

ただしタイトルの意味はやはりよくわからない。
迷路は続く。

陶作品やパッチワーク作品もある。

ドローイング。

階を移動する。
今回吹き抜けスペースが使われていないのが勿体無い。

中階では「展開」が語られる。


「展開」後、2022年からの新たな絵画シリーズ。

やはり迷路が続く。

展示の部屋割りは「展開」前と同じで、そこに並んでいる作品群のスタイルもやはり「展開」前と一見同じなのだが、透明感と彩度が増している。

「展開」前には無かったゼリー状の厚塗りや蛍光色も多く目につくようになる。
そしてタイトルはさらに長文に。


言葉の意味はよくわからんが、とにかくすごい自信だ。
最後は立体作品。

土練機から荒削りに捻り出したような大きな作品が並ぶ。
なんだこれは。
大量の粘土を練ったのかと思いきや、よく見ると継ぎ目が見える。
3Dプリンターで拡大出力した樹脂製の塊にUV耐性コーティングを施したものだそうだ。
アナログな見た目だが最先端の技術で制作されている。

細部まで詳細にスキャンされているので大型化してもリアルな存在感は損なわれていない、というかリアルそのもの。
だが(あえて残しているのであろう)継ぎ目によってハッと我に返り、スケール感と質感の概念を揺さぶられる。

巨人の粘土遊び。
見た目が美しいわけでもない、なんの役にも立たない(むしろ置き場に困る)でかいガラクタ。
これらの作品が欲しいか欲しくないかと聞かれたら全く欲しくはないのだが、作品に対峙した時、なんだか今まで体感したことのない不思議な感覚に襲われた。
最後に2025年の最新作。
発展途上のAIが生成した謎物体のような不気味なヤバさが漂う。

2025
なんでこんなの作ろうと思ったのだろう?
こんなの作ってどうするのだろう?
という衝撃を受けた。
ある意味これも感動?
小さめの平面作品は家に飾りたいと思った。
だがそれも考えてみたらその作品そのものが好きというよりも、「岡﨑乾二郎」の作品だからなのかもしれない。
ぶっちゃけ言うと嫌いではないが特に好きなわけでもない。
「ピカソだから、マティスだから、○○だから、素晴らしいのだ」みたいな感覚。
(いや、私はピカソもマティスも好きなのだがイメージの例として)
だから、後半の今まで見たこともなかったような造形の立体作品を前にして、「私の作品は賑やかしのインテリアではないのよ。それならあなたこの立体作品を飾れるもんなら飾ってみなさいよ。」と静かに詰められたような気がした。
コレクション展も行く。

開館30周年を記念して、さらに60年遡り1935年からの90年間を10年単位で振り返る。
日本近現代美術の歴史が一気通貫でわかりやすく展示されていた。
いつの時代も芸術家たちは、時代を感じ、時代に問い、時代を先読みし、表現の領域を広げ、美術史を更新してきたんだなあと感動。
1990年代以降は私自身も実際に「目撃」してきた作品群が連なるのでよりリアルに時代の推移を体感できた。
3月に鎌倉で見た岩竹理恵+片岡純也の作品が数点コレクションされていたのには驚いた。

片岡純也
この部屋のみ写真撮影可。
大型作品が並ぶ。


そしてラスボス。
今となっては見慣れたこの作品だって初めて「目撃」した時は衝撃を受けたもんだ。

1998
今回「目撃」した岡﨑乾二郎の立体作品も、いずれ美術史の1ページとしてアーカイブされることになるだろう。
その頃にはまた新たな芸術家の未知の表現に対峙して、感動したり、困惑したり、未来を思い描いたり、過去を懐かしんだりと、さまざまな感情を揺さぶられているのだろう。
だから美術って面白い。
そして知覚の幅を広げ、世界の解像度を高めるような新しい作品を見せてくれる(くれた)人々を尊敬する。
更新されていく美術史を「目撃」し続けたい。
そう、これから先、ずっと先も。
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