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ずれていく言葉たち② シンデレラのスニーカー

    「日頃から好きと言ってくれること」
    画面の向こうで、彼は静かに頷いた。
    「それから、二人の関係を隠さないこと」
    付き合いたい、と言った彼に出した条件はこの二つだった。
    秘密主義のような彼に、この二つの条件をクリアするのは、無理だろうと思った。

    そんな予想は外れて、
    「もちろんだよ」
    彼は即答した。

    超遠距離恋愛で、ほとんど会えることはないし、彼はそれでいいんだろうか?彼は、私が料理嫌いなことを知っていたっけ?
    とにかく、それでいいから、こういう展開になったのだと、自分を落ち着かせた。

    それから、残りの確認も怠らなかった。
    「LGBTじゃないよね。レズビアンとかゲイに偏見はないけど、私はできれば男の人と付き合いたい」
    相手は、目を丸くして、それから笑って言った。
    「いや、よくそう間違えられるけどね。れっきとした男です」
    あ、間違えられるんだ。確かに綺麗な顔をしている。

    「潔癖症だったりしないよね」
    彼は、カメラで部屋の中を映して回った。
    「どう思う?」
    今度は、私が目を丸くして笑う番だった。
    「うん。できれば、ある程度綺麗好きがいいかな」
    「それは、まずい」
    彼は慌てて画面を戻した。

    これまで、潔癖症とかその他諸々の理由で、手がつなげないとか、キスができないとか、そんな人ばかりと付き合ってしまってうんざりしていた。

    私は、身を乗り出して頬杖をついた。
    「私にちゃんと好きって言ってくれるって、本当?」
    「うん」
    「じゃあ、今言ってみて」
    彼は、少し耳を赤くして口ごもった。
    ゆっくり心の準備をして、
    ずいぶんかかってそれを言葉にした。

    そんなに深刻にならなくてもいい。
    いい意味の言葉なのに、なんでそんな難しいんだろう。
    それでも、なんとか私の条件はなんとか満たせそうだった。
    「これから、よろしくお願いします」
    と返事をした。

    最初の数日、彼は律儀だった。
    夜になると
    「すき」
    と送られてきた。
    こちらから、
    「ダーリン♡」
    と送ると
    「はにー♡」
    と返ってきた。

    好きより、ハニーの方が断然恥ずかしい気がした。私は、一人で照れ笑いしながら、ベッドを転げまわった。
    ただ、その「すき」が何故ひらがななのか、心に引っかかった。子供が子供に言うみたいで、大人同士の関係には、なんだか届かない気がした。

    彼は、私に好きと伝えると言ったけれども、だんだん無理しているのが分かってきた。
    一週間ほど経つと、「すき」もなくなってしまった。
    「何か言うことない?」
    と聞くと、渋々、「すき」、と言ってくれるという具合になっていった。

    そしてある日、通話の途中で、とうとう彼は、本音を曝け出した。
    「好きって、特別な言葉だから、会った時のために大事にとっておきたい」
    驚きもしなかった。そうなる気はしていた。
    「会うのって、半年後だよ」
    「うん。でも、そんな、ポンポン言えるような軽い言葉じゃない」
    そういう風に考える人が多いのは知っている。
    だから、付き合う前に、ちゃんと確かめたのに。


    土曜日の朝に、友達とジョギングへ行った。
    川沿いを走った。新しく買ったスニーカーの紐は、まだ馴染まず、何度もほどけた。
    「先に行って」
    結びなおすたびに、同じように走る人たちが、私を追い越していく。

    しばらくすると、彼女が向こうから走ってくるのが見えた。
    「最後まで行ったから、戻ってきた」
    息を弾ませながら、彼女はそう言った。
    私はしゃがんだまま、ほどけた紐をもう一度結んだ。
    今度は、少しだけ強く。

    そのあと、カフェへ行った。
    私は、生クリームとアイスクリームが乗ったアイスラテを頼んだ。
    歩道の端に設けられたカフェエリアは春の陽の光を浴びて、ほんのり暖かかった。
    「結婚する前は、好きとか言ってくれなかったの?」
    「付き合うときに一回言われたきりだよ」
    「さすがに、それは少ない気がするけど」
    「大事な時だけで十分。その時が、あの時だった」
    彼女は続けて言った。
    「逆に、毎日言われたら、うざくない?」
    うざい、という言葉が少しだけ引っかかった。ずっと一緒にいるとそうなるのかもしれない。
    「好きな人だったら、うざくないよ。おはようだって、顔合わせたら、毎日言うよね」
    「そうかな、そういえばもう、おはようも言わなくなった」
    彼女は、前回おはようと言ったのはいつだろう、と思い出すように、遠くの空を眺めた。
    「犬のコロちゃんには、毎日おはようって言ってキスするんだけどね」
    私は、思わず吹き出した。
    彼女は、アイスコーヒーを一口飲んで、続けた。
    「メッセージの『すき』なんてさ、予測変換で出てきたの押してるだけかもよ。」
    ああ、と思った。
    確かに、自動的に出てきたのを押してるだけかもしれない。

    どうやら、世の中は、言葉はいらないという方に傾いていて、私は要求しすぎのようだった。
    でも、欲しいものを諦めて心の奥にしまいこむのも、違う気がした。


    「今日は、近くのお祭りを見に行ってきました」
    そんな言葉が写真と一緒に送られてきた。夜店が並ぶ境内や、夜空の花火の写真。
    「雰囲気すごくいいね。何か夜店で買った?」
    「イカ焼き。お祭りだと美味しく感じるよね。今度一緒に行こうね」

    彼は、何色が好きなんだろう?お揃いの浴衣の柄まで色々想像して、楽しい気持ちになった。それだけで、十分なのかもしれない。彼が私のことを好きだというのは分かっていた。そして、私はそれを一点の曇りもなく信じていた。それなのに、心は切実にその言葉を欲しがった。


    眠る前に、ゆらゆらと揺れる小さなオレンジの明かりを一つ灯して、過去を思い返した。
    ずっと前に付き合った人のこと。

    彼は、愛情表現をしない人だった。
    潔癖症で、手を握ることすらできなかった。どうやって、付き合うことになったのかも思い出せない。

    「もう、別れたい」
    そう私が切り出した最後の瞬間にだけ、
    「好きだから、行かないでほしい」
    と、すごく真面目な顔をして手を差し伸べた。
    その度に、私は引き戻された。

    そんなことを何度か繰り返したあと、彼は病気になった。
    自分の命が後数ヶ月だと分かり、ほとんどベッドに寝たきりになって初めて、
    「好き」
    という言葉を使うようになった。

    私は、その言葉を信じられなかった。
    愛情というより、ただ鎖を付けられているように思えた。
    一人で死ぬのが怖いだけなのだと、冷めた目でしか見られなかった。
    自分の冷たさにゾッとしたけれど、それまでの積み重ねがなかったから仕方ないと、自分に言い聞かせた。

    最後の時に愛の言葉を言っても、遅い。
    同じことを繰り返したくなかった。
    好きは毎日の中で少しずつ重ねて、そうすることで揺らぎのない真実になる気がした。少なくとも私にとっては。


    「好き」と言うかどうかの論争は、そのあともたまに繰り広げられた。
    大抵は、私がその言葉を欲しくて堪らなくなるときだった。

    本当の理由を言えば、もう少し寄り添ってくれたかもしれない。
    けれど、前の彼や心の傷のことを持ち出すのは、なんだかルール違反のような気がした。自分の人生の切れ端を背負わせるなんてできなかった。

    画面の向こうの彼は、最初の約束を忘れたように、凛として自分の考えを主張した。
    「そんな毎日好き好きって言ったらさ、ありがたみがなくなるじゃん」
    「そうかな」
    「意味がどんどん薄れる」
    「ふぅん」
    確か、友達もそんなふうに言っていた。
    彼は、あの子とだったら、考えが合うのかもしれない。

    「たとえばさ、じゃあ、嫌い、って毎日言い続けられたらどう思う?」
    「そんなこと言う人いないでしょ。極端だね」
    「たとえばの話だよ。毎日嫌いって言われたら、慣れて、気にならなくなる?」
    「うーん」
    彼は、考えているようにも見えたし、うまく想像できないようにも見えた。
    「私だったら、毎日嫌いって言われたら、どんどん嫌になる。衝撃は薄れるかもしれないけど、その人のことを嫌いになるし、たぶん憎んでしまうと思う」
    「そうかもしれない」
    「好きだって、心から言っていたら、毎日でも薄まることはないと思うな」
    返事はなかった。
    彼の表情は固いままだったけれど、頭は何度も何度も上下に動いた。
    私は勝手に、彼は納得したのだと思った。

    それでも、事態は変わらなかった。
    「好き」と言って欲しいとお願いした時だけ、
    「すき」
    とメッセージを送ってくれた。

    しばらくして、私が言わせた「すき」は、積み重ねにはならないのだと分かった。
    彼のこの言葉に何が込められているのか考えた。
    もし、その問いを投げかけたら、
    「好きという気持ちを込めたら、大事な時に薄くなるから、なるべく込めないことにしたんだよ。」
    と、悪気のない笑顔で返事がきそうだった。
    その上、自分の意思で言うときには、「好き」の方を使うのだ、という意思が込められているような気がした。
     
    「好き」という気持ちが溢れ出さないなら仕方ないんだ、と、なんとか自分を丸めこんだ。

    楽しそうに喋るところが好き。
    君の言ったこの言葉に心が惹かれる。
    真剣になると、声の少し低くなるところが好き。
    沈黙のあとに、ちゃんと戻ってくるところが好き。

    私は、彼の好きなところがいくつでも出てくるのに。
    幸せと疑心暗鬼の間で揺れながら、私たちは会えない時間をやり過ごした。


    一年ぶりに彼に会える日が来た。
    駅の改札で待ち合わせをした。画面の中の登場人物が、突然本物の人間になって目の前に現れたような感覚だった。彼は覚えていたよりも背が高くて、戸惑った。

    「こんにちは、久しぶり」
    「久しぶり、会いたかった」
    そう彼は言って、私をギュッと抱きしめた。
    会えなかった時間が、少しずつ埋められていくような気がした。
    近くの喫茶店に入って、色々な話をした。
    手を繋いで、どこまでも続くイルミネーションを眺めながら歩いた。
    終電の時間近くになって、駅に戻った。私たちの行き先は逆だった。
    彼は、私の額にキスをすると、
    「また明日」
    と私の肩をそっと押し出した。

    ホームから、彼の姿を探した。彼も私を探していた。目が合うと、二人同時に小さく手を振った。すぐに、交差するように電車が入ってきた。

    彼は、結局「好き」とは言わなかった。いつまでとって置くつもりなのだろう。私がここにいられるのは、たった二週間なのに。

    その間の何日かは、仕事の休みをとってくれた。

    温泉地まで足をのばした。
    駅前の小さな商店街を歩いて、湯気の立つ温泉まんじゅうを半分ずつ食べた。彼は、熱いから気をつけて、と言って、私の分を少し冷ましてから渡してくれた。
    旅館の近くには、細い川が流れていた。川沿いの道には、まだ少しだけ紅葉が残っていて、風が吹くたびに、水面に赤い葉が落ちた。
    「寒くない?」
    彼はそう言って、つけていたマフラーを外して、私に巻き直した。
    その指が頬に少し触れた。
    時間が、一瞬止まったような気がした。そのまま、彼が「何か」を言ってくれるのを待った。
    「この道、いいね」
    時計の針を進めたのは、その言葉だった。

    彼が私のことを好きだと思ったのは、もしかして錯覚だったのかもしれない。私は、彼の手をとり、先に立って無言で歩き出した。足を早め、振り向きもしなかった。
     
    旅館に着いて部屋に荷物を置いた。
    少し無理をして履いていた、ヒールの細いパンプスを脱ぐと、急に等身大の自分に戻った気がして、気持ちが緩んだ。

    庭の散策に行くことになった。
    本当は、スニーカーも持ってきていた。でも、まだ履き替える気になれなかった。
    彼の隣を歩くなら、綺麗な靴の方が似合う気がした。


    石畳の隙間にヒールが何度も引っかかって、そのたびに彼が振り返った。
    「大丈夫?」
    「大丈夫」
    反射みたいにそう答えると、彼は少しだけ困った顔をした。
    「痛いなら、痛いって言っていいよ」
    靴の話をしているのだと分かっていた。
    それなのに、一瞬、胸の奥を見られたような気がした。

    緑の茂る散歩道に入ったところで、彼は急に笑って、
    「もう無理しなくていいよ」
    と言った。
    次の瞬間、体がふわりと浮いた。
    彼は私をお姫様抱っこして、ゆっくり歩き出した。

    充分に幸せなのに、夜になると、心が翳った。彼は隣に眠っているのに、一人でいるよりひとりぼっちのような気がした。彼の大事な言葉は、彼の心の奥にしまわれたままだった。

    目が覚めると、彼はもう隣にはいなかった。
    「おはよう。」
    襖を開けると、窓から木漏れ陽が差していた。
    「おはよう。コーヒー飲む?」
    彼は、広げた新聞から視線を外して言った。
    「新聞、ロビーで貸し出してたんだ」
    私が、何か言おうとしたのを新聞のことだと思ったようだった。
    「あのね…」
    あのね、その先が出てこなかった。
    …何かいうことない?
    でも、こんな素敵な朝を、言い合いに変えたくなかった。
    「あのね、コーヒーはミルクたっぷりで」


    最後の日、彼はホテルまで送ってくれた。
    「楽しかった。もっと一緒の時間を過ごしたい」
    「私も、もっと一緒にいたい。大好きだよ」
    「ありがとう。俺も、すごく大事に思ってる。今度は、俺が会いに行くから待ってて」
    彼は、すごく名残惜しそうだった。
    「電車、最終になっちゃうから。じゃあ」
    そう言って、彼はロビーから出て行った。

    部屋に戻ると、とたんに胸が締め付けられた。
    一人では、いられなかった。
    タクシーを呼んで、彼と最初に出会ったバーへ向かった。

    他に客はいなかった。
    奥の小さなステージで、ピアノトリオが演奏をしていた。
    私は少し離れたテーブルに座って、ホットチョコレートを頼んだ。
    痛みに気付いてハイヒールを脱ぐと、踵の皮が剥けていた。
    無理して履く靴。
    彼とはもう、終わりなのかもしれない。
    そう思うと、不思議なくらい静かだった。
    あれだけ欲しかった言葉を、彼は最後までくれなかった。
    それなのに、泣き出すこともできなかった。

    ピアノが弾き始めたメロディーを辿る。
    ふふーふ ふんふふん。
    No, no, they can’t take it away from me
    無意識に口ずさんでいた。
    その意味が後から浮かんだ。

    私から何かを取り上げようとしているのは誰だろう。
    彼ではない気がした。
    これまでのことを、ひとつずつ思い出していた。
    気遣ってくれるメッセージ。
    送ってくれた写真。
    額にキスをしてくれたこと。
    巻いてくれたマフラー。
    「会いに行く」と言った声。
    彼は最後まで「好き」とは言わなかった。
    でも、何も積み上がっていなかったわけではなかった。

    差し出されたガラスの靴は、合わなかったわけではないのかもしれない。
    私はその靴が、思っていた形と少し違うだけで、合わないものだと決めかけていた。

    「誰か」はたぶん、私の中に残っていた、古い怖さだった。
    彼が差し出してくれた手や、
    歩幅を合わせてくれた時間や、
    何度も振り返った顔。
    そういうものまで、失くしてしまうところだった。

    バッグの中に放り込んだ黒いスニーカーのことを思い出した。

    私は、冷めてしまったホットチョコレートを飲み干して、店を出た。
    外は少し寒かった。

    私は足元を見た。
    紐が、片方だけほどけていた。
    しゃがんで、それを結び直した。
    まだ歩ける、と思った。

    どこへ行くのかは、まだ決められなかった。
    それでも、立ち止まったままではいたくなかった。



     
     
    自分の中の違和感や、言葉にしたくなったものを書いています。

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