
ずれていく言葉たち③ 選ばれなかった返事
日曜の朝は、カフェで過ごすことが習慣になっていた。緑で飾られた隙間から、向こうの川に陽が反射し、光の粒子が降り注ぐのが見えた。初夏のこの時間の、この場所の空気が好きだった。たいていはノートパソコンを開いて、仕事の残りを片づける。
アイスコーヒーを頼んだ。
「お待たせしました」
ウェイトレスがテーブルに置いたのはホットだった。
あ、と思って顔を上げると、彼女はもう踵を返していた。呼び止める気にはならなかった。
「またか」
ため息のように口からこぼれた。こういう、言うにも足らない小さなことは、いつも自分のところに回ってくる気がした。
そのまま一口飲んだ。ホットを飲んだからといって、世界がひっくり返るわけでもなかった。
その時、向こうから美香が店に入ってくるのが見えた。
彼女は、向かいの椅子に座ると、早速話し始めた。
「啓吾、来週の水族館、何時に待ち合わせする?」
それは、リニューアルオープンしたばかりの水族館だった。吹き抜けの天井まで届く巨大な水槽を魚たちが泳ぎ、その姿がライトアップされて幻想的な空間を作り出す、と紹介されていた。彼女はこういうのが好きだろうと思って誘ったのだ。案の定、彼女はとても喜んだ。
「三時くらい?夜までいたいよね」
そう返事をして、急に心が重くなった。三時に待ち合わせて、着くのは四時近くになるかもしれない。見て回って、どこかで食べて、それでも暗くなるには少し早い。もう少し遅く待ち合わせればよかったね、と彼女に言われる気がした。
「そうだね、今度こそ、ライトアップ見たいよね」
今度こそ、と言う言葉が自分を責めているような気がした。
「この間の遊園地のこと言ってるの?」
「そういう意味じゃなくて、私はただ、ちゃんと話したかっただけ」
彼女は、俯いてコップの水を飲んだ。
「うん。だから、話してるじゃん」
思いのほか、柔らかい声が出た。
楽しいはずの予定が、少しずつ採点表みたいに思えてきた。前も、こうやって気持ちが重くなって、遊園地の予定をだめにした。
水曜日、俺は、残業を途中で切り上げ、いつものファミレスに向かった。七時から、文学系ディスカッショングループの集まりがある。
入会して、まだ三回目だった。
電車の乗り継ぎが思いのほか上手くいき、早く着いてしまった。
他のメンバーを待つ間、なんとなく頼んだ、バニラアイスクリームをフォークで掬っていた。
最初は良かった。固めのアイスがフォークに刺さって食べやすかった。少しずつ溶け始めたそれは、フォークの歯の間から流れ落ちていく。それでも、何度も掬って少しずつ食べていた。テーブルに備え付けのカトラリー入れを覗いたけれど、スプーンは全部出払ってしまっていた。
店内には低い音量で、ジャズが流れていた。
Darn That Dreamか。
こっちは夢どころじゃない。フォークで食べるしかないアイスクリームだ。
テーブルの向こうからひょろりとした男がゆっくり歩いてきて、向かいに座った。そして、そのままスプーンを差し出した。
「町田さん、スプーンを使った方がいいんじゃないですか?」
心の奥で黒い雲のようなものがムクリと動いた。
「俺、アイスクリームはフォークで食べる主義なんで」
自分の言葉に、煽られる。
フォークで食べてるんだから、それくらい思いつけよな。
そういうところなんだよ。
だから、お前は文学を読んでも表面しか撫でられないんだ。
そう心の中で思った。
男は、
「面白い主義ですね」
と微笑むと、差し出したスプーンをすっと引っ込め、目の前のテーブルにナプキンを敷いてその上にそれを置き、持っていた本を開いた。
今度は、面白い主義という言葉が心を引っ掻いた。
馬鹿にされているような気がした。
向かいのボックス席では、母と小さな娘がご飯を食べていた。娘は、ハンバーグを食べたフォークで、そのままスープを掬おうした。スープがフォークの歯の間から流れ落ちるのが目に入った。
反射的に、スプーンを使わなきゃ。そう思った。
母が、
「スプーンを使ったら?」
とスプーンを差し出した。娘はフォークをテーブルの上に置くと、にっこり笑ってそれを受け取った。
娘に向かって微笑む母親を見て、啓吾は自分の母を思い出した。
けれど思い出したのは、微笑んでいる母ではなかった。
少し苛立っている母だった。
子供の頃、学校帰りに友達と歩いていて、犬に吠えられたことがある。
「猛犬注意」の貼り紙がある家だった。何度も通ったことのある家なのに、それまで吠えられたことは一度もなかった。
二人ともランドセルをガタガタ揺らしながら、百メートルくらいを全速力で走った。
「ばっくりした!」
ハァハァと息をしながら、その言葉を言った。
友達も、ハァハァと息をしながら、ちょっと考えた顔をして、
「啓吾、それって、『びっくりした』じゃないの?」
と言った。
え?
アニメや漫画で見たセリフや文字が、頭の中を駆け巡った。
「ばっくりした」と「びっくりした」が、ようやく結びついた。
「『ばっくりした』は、僕が考えた言葉だよ。すごくびっくりした時に使うんだ」
でまかせだったけど、間違えていたことを認める気にはなれなかった。この間まで、「とうもろこし」のことを「とうもごろし」と真面目に言っていたくせに。偉そうに、僕に注意するなんてどうかしてる。
家へ帰って、なぜこれまで自分の言い間違いを直してくれなかったのかと、母を責めた。
母は、キャベツを千切りにしながら、
「小さい時から、何度も直そうとしたわよ」
と繰り返した。話を聞いているのか分からなかった。
近寄って見上げた母は、苛立ち、うんざりしたような表情を浮かべていた。
*
「魚のショーが幻想的で、すごくきれいなんだって。美香と一緒に見たい」
そう言い出したのは啓吾だった。
そのために、新しく水色のワンピースを買った。彼はこういうフワフワの女の子らしい格好が好きだ。それに合わせて髪にも、ゆるくパーマをかけた。
「オットセイと写真撮影できるんだって。イルミネーションも始まるんだね」
彼にメッセージを送った。
日曜日カフェで、なんとなく気まずくなった気がしたので、探りを入れてしまった。
彼からも、「楽しみだね」、と返信が来た。
ほっとした。
啓吾は、そういうものを見つけるのが上手かった。
駅のポスターの端に写った夜の水槽とか、誰も気に留めない川沿いの小さなカフェとか、古本屋の棚の奥にある詩集とか。
何でもないものを、少しだけ特別なものみたいに差し出してくれる。
木曜日。ランチタイムに、携帯がピコンと鳴った。彼からのメッセージだ。
「日曜日、あの辺り混むかもね。駐車場大丈夫かな」
確かに混むのかもしれない。でも電車で行くと、ずいぶん歩くことになる。
「一緒にいられるなら、渋滞だって楽しいよ。駐車場、予約できるとこ探してみようか」
だいぶ経ってから、
「そうだよね。駐車場は見ておくよ」
と返事が来た。
金曜日、合鍵で彼の部屋へ入った。窓際に飾ってあるポトスの葉が何枚か茶色く焼けて、元気がなくなっているのが目に入った。土を触ってみると、すっかり乾いていた。キッチンへ行って、コップに少しだけ水を汲んだ。彼が根腐れを気にしているのは、知っていたけれど、これはあんまりだと思った。
ガチャガチャと鍵を回す音がして、彼が帰ってきた。ジャケットを脱いでカバンを置くと、窓際に目をやった。
「美香、ポトスに、水あげたの?」
声が不機嫌そうだった。
「うん、土がカラカラに乾いてたから。前に言われた通り、指を第二関節まで入れて確かめたよ」
自分の声が言い訳がましく聞こえた。
「上の方が乾いてても、下の方はまだ水分残ってるんだよ。俺の植物枯したいの?」
私は、おたまを手にしたまま視線を落とした。フワフワで暖かかったはずの熊のスリッパは、いつの間にかぺたんとつぶれていた。
「ポトスは本当に死にかけていたんだよ。ありがとうと言われてもいいと思う」というセリフが浮かんだけれど、そんなことを言ったら、彼の怒りに火を注いでしまうのは明らかだった。
言い訳を考えるのをやめたとき、前にも似たことがあったのを思い出した。
遊園地へ行く約束の前、太ったんじゃないかと言われた。体重は変わっていなかったのに。
「残念だけど、自己管理ができないんじゃ遊園地には連れていけないね」
その一言で、約束はなくなった。
「もういい。今日は帰って」
彼はそういうと、ベッドルームに行った。怒った声と態度なのに、彼の緊張が少し緩んだ気がした。私は、謝った方がいいのかもしれないと思い、エプロンを脱いでおずおずと部屋の前まで移動した。ドアは少し開いていたけれど、トントンとノックして返事を待った。そっと覗くと、彼はベッドにごろんと横になっている。部屋に入っていいのか分からず、そのまま声をかけた。
「ごめん、勝手にポトスに水をあげて」
彼は何も言わなかった。
しばらく待って、それから、
「日曜日は水族館行くよね?」
と尋ねた。
やっぱり返事はなかった。
荷物を取りにリビングへ戻ると、水をあげたポトスは少し元気を取り戻していた。
日曜日は結局、水族館へは行かなかった。
そのことには触れないまま、さっきからどうでもいい話が続いている。私とは何の関係もない話題だし、啓吾に切実に関わることでもなさそうだった。それなのに、会話全体がどこか特定の結論へ向かって誘導されているような気がした。
「疲れた」
と思わず口にした。
長くなりすぎた会話を切るための、軽いため息のようなものだった。
彼は少し怖い顔をした。
「俺、美香の負担にはなりたくない。そんなに俺と話すのが疲れるなら、別れてもいいんだよ」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
声色だけは申し訳なさそうで、私の疲れを気遣ってくれているように聞こえた。気を使うなら、そこまで話を飛ばす前に、何に疲れたのか確かめてもよさそうなものなのに。
それは言葉にしなかった。
彼の方がずっと頭が切れるし、何に疲れたのかはっきりと言わなかった自分が悪かったのかもしれない。
突然湧いた別れ話に、胸がドクンドクンと波打った。
心臓の音に、時計の秒針が時折重なった。
「違うんだよ、その話題に疲れただけだよ」
作り笑いをする自分が嫌いになりそうだった。
「言い訳でしょう。本当はどうだか分からない」
彼はこれ以上なく傷ついたような顔をしていて、自分のことを疲れると言われたのだという思い込みは、もう崩せそうになかった。ただでさえ疲れているところに、新しい決断事項まで差し出されてうんざりだった。週末まで待って、よく考えてみようと思った。
「少し時間を頂戴」
彼は、その言葉に少しほっとしたように見えた。
こんなことで、私が本当に別れを考えると、想像もできないのだと思った。
私はもう、どうでもよくて、いつものように微笑んだ。
あっという間に水曜日がきた。
本は好きだった。俺は、文学グループに入る前から、人並み以上には読んできたつもりだった。けれど、先週のディスカッションに挙がった本は、文体に癖があって、普段ならあまり読まないタイプのものだった。
「まだ、文学初心者なんで、お手柔らかに」
そう言って、愛想笑いでその場を切り抜けた。そこにいた皆が、その本を読んで本当に内容を理解したのだろうか。半分以上は知ったかぶりをしているに違いない、と思った。
一週間かけて、その本を読んだ。
読んでしまえば、よくあるプロットで、今まで読んだ何かと似たような内容だった。こんなのについて、それらしく話し合っていたのか。
ファミレスにつくと、既に数人のメンバーがドリンクバーのドリンクを目の前に、本を広げていた。自分もコーヒーを注いで席に戻ろうとした時、眼鏡をかけた女性が話しかけてきた。
「町田さん、このあいだ、文学初心者って言っていたでしょう。なかなか、とっつき辛いわよね」
曖昧に頷いた。
「これ、少し読みやすいし、もしかしたら好きかもと思ったんだけど」
そう言って、女性は持っていた文庫本を手渡してきた。表紙には『のらりくらり男』とあった。ぱらぱらめくると、間が多くて、文体も柔らかかった。自分はそこまで初心者じゃない、と思った。なんでこの人は、自分よりも物の分からない相手に話すみたいな顔をしているのだろう、と思った。この女性よりはたくさんの本を読んできたはずだという自負はあった。
彼女の席にちらりと目を向けると、軽そうな恋愛小説が置いてあった。そんな本を読んでいる人が、自分の読む本に口を出してくること自体、どこかおかしく思えた。
「主人公の男の心理描写が中心の本で、なかなか面白かったんです。もし、よかったら読んでみてください」
女性の方を向こうとも思わなかった。
「今、ちょうど別の本を読み始めたところなんだ。だから遠慮しておくよ」
鞄から、『アバンギャルドな湿地帯』というタイトルの、灰色に覆われた荒野が描かれた表紙の文庫本を取り出した。少し前に話題になった小難しい文学本だった。
女性は一瞬目を見開いて、
「ちょっと趣味が合わなかったみたいですね。ごめんなさい」
と少し背中を丸めて、自分の席に戻っていった。
彼女は、隣に座った男性と話始め、さっき自分に薦めた本を手渡した。前回のディスカッションのまとめ役をしていた男だった。彼が、「面白そうな本だね。心理サスペンスは好き」と言ったのが耳に入った。彼の方も、お薦めの本を彼女の携帯に送ったようだった。
夜になって、あの本のタイトルを思い返した。
あれはもしかして、俺のことを『のらりくらり男』だと言いたかったのではないか、と頭をよぎった。
考えれば考えるほど、そういう気がしてきた。
そうでなければ、もっと、誰でも読むような当たり障りのない本を持ってくるのではないだろうか。
なんて、失礼な女性だろう。
時計の針が一時を回る頃には、その考えがもう実体化して自分を笑っているような気すらした。腹が立って、一睡もできなかった。
朝方には、眠い目を擦りながらサークルの退会届を書いていた。
*
私は、カモミールティーを飲みながらソファで本を読んでいた。突然、ドアが開いて誰かが入って来る音がした。啓吾が、平日にうちに来るなんて珍しい。リビングのドアが開くと、外の生ぬるい空気が流れてきた。部屋の中とは別の時間が、そのまま入ってきたようだった。
彼は私を見るなり、吐き出すように言った。
「昨日の会合に、メガネの女がいてさ、自分は、文学と言えるかも微妙な恋愛ものを読んでいる癖に、気取っちゃって。俺に『のらりくらり男』なんて本推薦してくるんだぜ。馬鹿にしてるよな」
啓吾から出た言葉は、食虫植物の顔になって茎を伸ばし、私の心にかじりついた。まんまるだった私の心は抉られて三日月のような形になった。この生き物が私の心を好んでいることには、もう気づいていた。
一度噛みつかれると、元に戻るまでたいてい一週間くらいかかったし、その頻度は少しずつ増えていた。
別れ話をされたとき。
水族館デートが流れたとき。
不本意な人に不本意な助言をされたと、怒ってる彼の話を聞いたとき。
とうもろこしやアイスクリームの話を聞いたときでさえ、本当はありがとうと笑って済ませられたはずなのに、と心は沈んだ。
私からみれば、メガネさんも、食虫植物に食べられた仲間だった。
彼の言った「初心者です」に呼び寄せられた。自分が初心者だったときに、誰かがしてくれたように、自分もしただけだろう。相手が読むかどうかは、相手次第。でも、彼の視線や言葉の端々から、何か自分は見下されていると感じただろうことは想像できた。彼は、彼女の心を削って自分の自尊心を保ったのだ。
私は何も言わずに、ミントティーを入れて、ソファの前に正座して座った彼の前に置いた。立ちのぼる湯気が、彼の心そのものみたいに頼りなく見えた。彼は、マグカップにふぅっと息を吹きかけて、そのままカップをテーブルに置いた。
次の日、仕事の帰りに本屋に寄って、『のらりくらり男』という本を探した。
心に湧いた不安に正面から向き合えず、のらりくらりと身をよじるような男の話だった。
一週間経っても、三日月は満月には戻らなかった。
彼と紡いでいくはずだった夢を手放す時が来たのだ。
*
美香から連絡が来なくなって、二週間が経った。
「ごめん」
そこまで打って、消した。
「文句ばかり言って、ごめん」
「デートの予定をぶち壊して、ごめん」
「不安だったんだ」
「自分が、ちゃんとできないんじゃないかと思って」
送ってしまえば、その意味を自分で引き受けなければならないのだ、と思った。
その覚悟すらできなかった。
送らなかった返事だけが、いつまでも残った。
画面に表示される日付だけが、一日、また一日と古くなっていく。
それなのに、まだそこに何かを返そうとしていた。
遅い、と思った。
誰に言われたわけでもない。
けれど、その言葉だけは、はっきり聞こえた。