
ずれていく言葉たち① 傘の代わりに
あらすじ
「おはよう」「好き」「ごめん」
何気ないはずの言葉は、親密な関係の中で、確認になり、鎖になり、逃げ道にもなる。遠距離の相手から毎朝届く「おはよう」に会話の空洞を感じる女。愛されていると分かっていながら、「好き」と言われないことに過去の傷を重ねてしまう女。相手に届くはずだった返事を選べず、自分を守る言葉ばかり選んでしまう男。三つの関係を通して、言葉が届くこと、届かないこと、そのあいだで少しずつずれていく心を描く連作短編。
傘の代わりに
朝七時にはもう在宅で仕事を始めている。海外の企業の出社時間に合わせているので、始まるのは人より早い。
壁時計の針が八時に届きそうなのをみて、さっきから胸がざらついていた。
少し経つと、携帯がピコンと鳴った。
そのメッセージが誰からなのか、何が書いてあるのか、もう見なくても分かった。通知表示で、仕事の連絡ではないことだけ確認して、ばつ印を押して消した。表示名の横に見えたアイコンだけで十分だった。
この儀式を終えると、コーヒーを淹れに机を離れる。
エスプレッソメーカーに挽いたばかりの粉を入れ、コンロに乗せる。食洗機の中の食器を出す途中で、裏返し忘れたお椀の水がスカートにかかった。小さく息を吐いて、食器用タオルで拭いた。
ほんの小さなことなのに、八時前のざらつきのせいで、必要以上に気に障った。椅子に座って、ぼんやりすると、見てもいないメッセージの羅列が目に浮かんだ。
あの人からの、おはよう。午後三時、こちらからの、おはよう。
あの人からの、おはよう。午後四時半、こちらからの、おはよう。
あの人からの、おはよう。
あの人からの、おはよう。
こちらから、「連絡は三日に一回でいいです」
あの人から、「どうしたの?パートナーなんだからさ、言ってよ」
あの人からの、おはよう。
ポコポコと音が鳴り出して、我に返った。コーヒーの香りがキッチンに漂う。マグカップに淹れたてのコーヒーを注ぎ、ミルクを入れてデスクに戻った。
彼とは星空撮影サークルで出会った。みんなで郊外へ出て、暗い場所で三脚を立て、星が出るのを待つあいだ、ぽつぽつ話すような集まりだった。
その帰り、たまたま目的地まで送ってもらうことになった。
「今日は、天の川も見えて最高だったね」
新月の夜は、厳かで好きだ。助手席からもまだ、満点の星空が見えていた。
「そうだね。俺が撮った動画に流れ星が幾つか写ってた」
「私は、今日赤道儀試したとこ。流れ星は写ってないと思う。いいな。流れ星」
「ファイルサイズ小さくしたら、送ってあげようか」
「本当?そうしてくれたら嬉しい」
彼の横顔は、いつも見る静かな表情とは少し違って、目が笑っているように見えた。
「俺、なかなか、人に打ち解けられないんだよね」
言われてみれば、いつも端の方で、持ってきた温かい飲み物を一人ですすっていた。
「でも、何故だか君には色々話せる。これってすごくめずらしい」
彼はちらりとこちらに視線を向けた。なんだか、褒められたようなくすぐったい気分だった。もしかして、誰にでも使う口説き文句かもしれない、とも思った。
けれど、そのあと顔を合わせた時も彼は、似たようなセリフを言った。
「自分のことを話せる友達はいない」
「他人にそんなに興味がない」
その度に、彼は私が特別みたいな言葉を続けた。
彼とは自然にメッセージのやり取りが始まった。
「今日は何してた?」
と送って、続けて、
「私は、初めて電動ノコギリを使って庭の木を切ったんだよ」
と打った。
少しすると、返事が来た。
「大変だったね。お疲れ様。今日はゆっくり休んで」
「うん、手がジンジンする。ゆっくり休みます」
そう返してからも、初めての体験からくる興奮と満足感が胸の中に渦巻いていた。プラムの木だったこととか、こっちに倒れてきて焦ったこととか、枝を払ったら光の差し込み方が変わったこととか、そんな小さなことを聞いて欲しかった。それを言いそびれて、なんとなく気分が沈んだ。
他の友達に送り直しても良かったけれど、そうはしなかった。もう一度庭に出て、見上げると、プラムの木はだいぶ小さくなっていて、来年も実をつけることができるのか分からなかった。隣の家との境界を越してしまったのだ。仕方ない。
そういえば、彼に彼女がいるかどうかも聞いていなかった。そこまで、踏み込むのもなんだか躊躇われるくらいの知り合いだった。
何度か車で送ってもらったあと、
「君のことをもっと知りたい」
と彼は言った。
「他人に興味ないって言ってたのに、私には興味持ったの?」
彼は、可笑しそうに笑った。
「はっきりいうね。そうだよ。付き合って」
「いいよ」
私はそう答えた。
彼は三、四日に一度、身の回りで起きた話や、綺麗な風景写真を送ってくれた。彼の目には景色がこんな風に写っているんだ。それを知ることが、だんだん楽しみになっていった。私の方も、目についたものを写真に撮って送った。
そのうち、連絡の来ない二日が過ぎると、彼からのメッセージを待って、気持ちがそわそわし始める自分に気がついた。こちらから送ったメッセージには、忙しいのか、そっけない返事ばかりだったので、なんとなく向こうから来るのを待つようになっていた。
思い切って、電話をした。
「お願いがあるんだけど。あの...、二日に一回はメッセージ欲しいな」
面倒くさい女だと思われたくない、と胸がちくちくした。
「もちろん」
彼は、二つ返事でそう言った。
そして、メッセージは二日に一度判を押したように届いた。
私の心は、前みたいに、来るか、来ないか、と揺れることはなくなった。
その代わり、彼から届く言葉は短くなった。
おはよう。
おやすみ。
たまに、今日もお疲れ様。
前みたいに写真が添えられることは、少なくなった。
彼が携帯で撮ったスナップを、独り占めにしたかった。それが、本当の彼に近づく近道のような気がしていた。
「やっぱり二日に一回じゃなくていいよ。そんな頻繁じゃなくても大丈夫」
そう伝えたけれど、同じようにメッセージは届き続けた。
二週間に一度、会える日は決まっているんだから、それでいいじゃない、と自分に言い聞かせた。その時の彼は、私に会えるのが嬉しそうに見えたし、その度に私も彼のことを好きだと思った。
その日、ちょっとだけ悲しいことがあって、聞いてもらいたかった。
「元気?何してる?」
返事はすぐに来た。
「ニュース見てた。今日は、上司が自分のミスを押し付けてきてすごく腹がたった」
「そんなことがあったんだ。でも、周りのみんなは分かってるんでしょう?情けないね、その上司」
「みんな分かってるけどね。でも、俺の評価は下がってしまうかも」
「もう一つ上の上司に話てみたら?」
「そうだね。そうしようかな。あ、もう寝る時間じゃないの?眠いよね。おやすみ」
突然、話が終わった。
「まだ、眠くないよ」そう書きかけて消した。
会える日が来ると、待ちきれなかったように私は言った。
「ねぇ、いつもさ、私の気持ち聞かないで終わっちゃうよね。眠いよね、おやすみって言って去っちゃうけど、私、まだ話したいことあった」
「え、寝る時間じゃなかった?」
「まだ早かったよ。用事があるなら用事があるって言ってくれればいいじゃない。そうしたら、こっちだって分かるのに」
「う、うん。そんなつもりなかったんだけど」
彼は、小首を傾げた。
そのあとは、おやすみ、というメッセージは来なくなった。私の話は、おやすみと送ってはいけないのだと、彼の中で変換されてしまったようだった。
その代わりに、毎朝、「おはよう」が来るようになっていた。
次に彼に会ったとき、彼は明るい声で言った。
「毎朝おはようと言える関係っていいよね」
恋人 =おはよう、という理想にときめいているようだった。
夢に輝く彼の笑顔は、素敵だった。
私も一瞬、毎朝目覚めると彼がそこにいて、おはようと言ってキスをしてくれる図を思い浮かべ、うっとりした。彼は水色のストライプのパジャマのまま、キッチンに立つ。丁寧に淹れたコーヒーをお気に入りのマグカップに注ぐ。その香りは、寝室まで届く。今日は、マンデリンだな、私のお気に入り。彼は、両手にそれを持って、ベッドに戻ってくる。昨日の続きの今日が始まる。
でも、実際に毎朝受け取るおはようは、想像とは少し違った。
私が働くIT系の職場では、サーバやサービスがダウンしていないか、数分おきに自動的にメッセージを送って確認する仕組みがある。同じ時間に届くおはようは、まるでそれみたいだった。届かなくなった時に意味を成すのだと自分に言い聞かせ、失礼にならないように返事を返し続けた。
彼の反応が欲しくなると、こちらからメッセージを送った。
「今日は、木の枝から直接真っ赤な花が咲いているのを見たよ。そんなの見たことある?」
そう書いて、写真を貼ってみた。その時点でもう、彼の反応が思い浮かんだ。「へぇ、珍しいね」で終わるか、「こちらでも、彼岸花が咲いています」で、そちらの話に移ってしまうか、どちらかだな、と思った。
それくらいでうんざりするなんて、私はどれだけ自分の話を聞いて欲しいんだろう。画面の中の赤い花が、急にわがままの証拠みたいに見えた。
写真ごと、メッセージを消した。
朝から晩まで仕事ばかり。普段は、話題という話題がない私も、その月は色々予定があった。
女子会。久しぶりに友達と出かけることを楽しみにしていた。
彼と話す話題ができたのも嬉しかった。
「女子会に行くんだよ」
そうメッセージを送った。
「そうなんだ、楽しそうだね」
「うん、今回は泊まりなんだ」
「気をつけて。行ってらっしゃい」
会話はそれで終わりだった。
飲み込んだ言葉が胸の中で膨らみ始める。
久しぶりに街に出て、プールがついたホテルに泊まって、夜はみんなでレストランに行くんだ。私が女子トークに混じるなんて、珍しいでしょ。いつも夜は早いけど、頑張って起きているつもり。そこまで一人で口にして、私は机に置いておいた、スーパーミントガムの入れ物をカタカタと振った。
それからも、ことあるごとに、女子会の話を出した。そのたびに、「行ってらっしゃい」「気をつけて」「楽しんで」が、語尾を少しずつ変えながら、組み合わせを変えながら、何度でも返ってきた。
女子会に行ったあと、街や食べ物の写真を送った。それでも、会話は同じだった。
「素敵な場所だね」って、悪い言葉じゃないのに。
もしかすると、女子会、という言葉の時点で、彼の中ではもう足を踏み入れてはいけないことになっていたのかもしれない。
その次の週、友達とのキャンプがあった。
「キャンプにいくんだ。だから、今週末は会えないから」
わざと事務的に伝えた。前もって話した時には、何も聞かれなかった。
私について質問を投げかけてくれることは諦めたはずだった。それでも、次こそは、という火がまだ心のどこかで燻っていた。
しばらくして届いたメッセージはやっぱり、
「気をつけて、行ってらっしゃい」
携帯の画面を消して、もう目の届かないところへ置いた。
キャンプ当日、仕事を早めに切り上げて家を出た。海沿いのくねくねした山道を運転した。青と緑が二層になって遠くまで広がる海が視界に入る。それから、それはすぐに緑の木々に隠れて見えなくなる。それを繰り返すうちに、灰色の雲がかかってきて、雨がポツンポツンと降り出した。あぁ、これはテントを張るのも一苦労だな、と思って、ふと海の方を見ると、虹が見えた。
展望スポットに車を止め、携帯で写真を撮った。画面いっぱいに広がる海の向こうに架るのは、今まで見た中で一番大きな虹だった。
彼のことが思い浮かんだ。この風景を彼と一緒に見ることができたら良かったな。彼の返事なんて考えなかった。
「今、キャンプ場に向かってるところです。
こんな大きな虹がかかっています。
なにかいいことが起きそう」
虹の写真を添付して、送った。
キャンプ場に着いて、携帯を開くと、
「最高じゃないですか。羨ましい」
写真をみつめた。水分が涙腺に集まって行く気がした。でも涙はでなかった。これ以上を欲しがるのは、欲張りなのかもしれない。
職場の知り合いからメッセージが届いた。
「こっちは、雷雨来たけど、そっちはだいじょうぶ?」
別の友達からも数ヶ月ぶりに連絡がきた。
「元気?最近どう?」
「うん、今、キャンプに来てるんだ」
「へぇ、そういうのって誰といくの?」
「友達数人と」
どちらにも、写真を送った。さっき彼に送ったのと一緒のものを。
何かを尋ねられるたび、さっきまで曇っていた場所に少しずつ光が差していった。
彼からは、次の日も当たり前のように、おはよう、と来た。
返事はしなかった。キャンプ場にはほとんど電波が入らなかったから、そのせいだと思うことにした。
キャンプ場を出て砂浜まで歩いた。ザァァ、ザァァと波が打ち寄せては引いていく音を聴きながら、思った。私が、返事をしてもしなくても、彼の時間は同じように流れていくのだろう。
向こうでは、サーファーが長いこと波に乗っていた。あれは、波との会話なのか、波への独白なのか、どちらなのか。
最終日、何人かとトレッキングに行った。道のあるような、ないような道を歩いた。突然上から、大きなヒルが落ちてきた。それを見て、驚いて足を滑らせた。前日の雨でぬかるんでいた急な坂を転げて、ケガをしてしまった。なんとか、キャンプ場に戻り、手当をしたけれど、周りの人を巻き込んでの大騒動だった。
キャンプから帰ると、何日分かのおはように返事をしなかった罪悪感で、また景色の写真を何枚か送った。特に朝日の昇る写真は、神々しくて特別な気がした。
「帰って来ました」メッセージはそれだけにした。
返事は夜になってから来た。
「楽しかったみたいで、何よりです」
まだ、何も話していないのに、楽しかった事になっていた。
雨で湿ったテント、野鳥に食い散らかされた食料、坂道を転げてできたケガ。それを一言で、片づけられて、心がしぼんだ。
これが、小学生の日記の宿題で、先生からのコメントだったら、何も思わなかった。
返す「おはよう」は、もう挨拶というより相槌に近かった。
そのうち、それすら打つのが億劫になった。
夕方になってから「おはよう」と返すこともあった。明らかに変なのに、もうどうでもよかった。彼からは、抗議の言葉のひとつも来なかった。
数日すると、全然返事ができなくなってしまった。
この人とは、もう終わりかもしれない。
「メッセージ、三日に一回で十分です」
別れましょうと言うほど嫌いにはなれなかった。でも、考える時間は必要だった。
「そんな覚悟で付き合うと言ったの?」
言われてもいないのに、そんな声が頭の中に浮かんだ。
「そう答えた時は、覚悟したよ。一生一緒に過ごしたいと思った」
と、もう一人の自分が答えた。
しばらくして、彼から返事がきた。
「急にどうしたの?
パートナーなんだから、何があったのか教えてよ。」
パートナー、という言葉だけが、画面の上で少し浮いて見えた。
その言葉に見合うだけの何かが、私たちの間にあっただろうか。
テキストを打ち始めて、やめた。
少し迷って、ビデオマークのボタンを押した。
「いつも、どこにいくのか、何をするのか、どうだったのか、何も聞いてくれないよね」
私は言った。
「言いたいことあるなら聞くよ」
彼の顔は得意気に見えた。
「でもさ、キャンプ行くって言ったら、どこ行くの?くらい聞くでしょう。
ただの職場の知り合いだって聞いてくれるよ。」
「え?それ普通?俺の周りでは誰もそんなこと聞かないよ」
「私に全然興味ないみたい」
「そんなことない。いつも何してるのかな、と思ってるよ。でも、知らない場所だから言われても分からないし」
「場所知らなくても、どんなとこなの、とか、それだけでいいじゃない」
「説明してくれれば、話聞くんだよ」
「いつも閉じる方に行くじゃん。だから、こっちだって言いづらいんだよ。ひとつくらい聞いてくれたら話せるのに」
「でもそれは、そちらの責任だよね」
「あの、コメントも辛かった。色々あったのに、勝手に楽しかったんだと決めつけられて。前にも、ああいう自己完結はやめてほしいって言ったのに」
「仕事してると自己完結しないとやってけないこと多いよね。君だって、そうでしょう?俺は、それはいいスキルだと思っている。」
「おはようも、だんだん辛くなった。前の日に話せなかったことがたくさんあるのに、おはようで、全部リセットしてなかったことにしなきゃいけない気がした」
彼は、投げやりにため息をついた。
「でも、おはようって、ただの友達に毎日送らないでしょう」
「送らないよ、スパムみたいでしょう」
「でしょ。普通送らないの。恋人だから送るんだよ」
その声は、本当に私を好きでたまらないように聞こえた。
恋人だから特別。その理屈はわかる。
でも、どうしてもスパムはスパムにしか思えなかった。
おはよう、とおはよう、の間に、物語があるから、おはようが特別になるのだと思った。
「私たち、性格合わないね、私はもう無理…」
言うつもりのなかった言葉が、するりと私の口からでた。
一瞬、彼の動きが止まった。空気が凍って地面に突き刺さりそうだった。
「嫌いになったわけじゃない。でも…、ごめん」
私の言葉で我に返ったように、視線を落として、
「そうか。でも、傷が深くなる前で良かった」
と言った。
「そうだね、まだ、三ヶ月。良かったね」
悲しい別れのはずなのに、画面を見ると自分がヘラヘラと笑っていた。
引き留める言葉もなく、会話が切れるみたいに終わった。
傷つけ合って終わるより、きっとこの方がよかった。
思慮深くて、優しくて、私のことを好きだと言ってくれた人。目の前にいるのに、手を伸ばしても、本当の彼には触れることができない気がした。それが辛かった。
冗談だよ、と言いそうになった。でも、相手はきっと変わらない。私は、何も聞かれないことにきっと傷つき続ける。
通話を切ったあと、メッセージ画面に表示してある彼の名前を見つめた。少しすると、画面が黒くなって、自分の顔が映った。自分に向かって微笑む気にもならなかった。そこにあるソファに座り直す気力すらなかった。部屋が薄暗くなるにつれて、床の冷たさがジンと伝わってきた。
時々、喉の奥から嗚咽が込み上げてきた。
それが自分のものだと分かるたび、私はまだちゃんと生きているのだと思った。
別れた、というより、やっと終わったのかもしれなかった。
大好きだったから、心が引き裂かれそうだった。
ただ、このまま続けたら、何度も同じところで傷つくことだけは分かっていた。
一度だけ彼が遊びに来たときに、ベランダにつけてくれた色とりどりの豆電球が、申し訳なさそうに点灯した。短い間だったのに、彼の足跡は思いもかけないところに転がっていた。
携帯で、いつも聞いているラジオをつけた。
静かなトランペットの音色が薄暗い部屋をゆっくりと満たした。
流れてきたのは It Never Entered My Mind だった。
そうか、と思った。
あの人の中には、最初からなかったのだ。
話のつづきを受け取るための、小さな問いが。
ずっと、それをうまく言えずにいた。足りないと思う自分の方が、わがままなのだと思っていた。気がつくのがもう少し早かったら、私たちは未来に進めただろうか。
私は立ち上がって、音に合わせて少しだけ踊った。
腕を持ち上げると、ベランダの豆電球の灯りが手のひらの上で小さく揺れた。心の中で長く燻っていたものが、そのまま溶けて流れていく気がした。
あの人は、雨が降ってきたら、傘をさしてくれる優しさを持っていた。でも、私が必要としていた、「どうだった?」の一言は、最後まで差し出すことはなかった。
どこにいくの。
何があったの。
どうだった。
そんな言葉があってはじめて、次の朝、笑っておはようと言えるのだ。