
人生どん底の僕を救ったのは自分を褒めることだった②
平凡で、たしかに幸せだった頃
※本作は全14回の連載です。第1回から読む →
人は、失ってからしか、その価値に気づけない
陳腐な言葉だ。何百回も聞いた。けれど、本当にその意味を骨の髄で理解したのは、僕がすべてを失ったあとだった。
だから先に言っておきたい。この章で僕が書くのは、まだ何も失っていなかった頃の、なんてことのない毎日のことだ。
事件も、ドラマもない。けれど、どうか飛ばさないでほしい。この「なんてことのない毎日」こそが、のちの僕が血を吐くほど取り戻したかったものだからだ。
20代の終わりから30代のはじめ。あの頃の僕には、彼女がいた。
のちに婚約までして、そして僕を捨てていく人。けれど、それはまだ先の話だ。あの頃の僕らは、ただ笑っていた。
そして、もう一つ。あの頃の僕は、会社で同期の誰よりも早く出世していた。
「出世競争に負けたアラフォー」を名乗る今の僕からは、想像もつかないだろう。でも、本当だ。あの頃の僕は勝っていた。勝っているつもりだった。それが後にどれだけ僕を苦しめるか、まだ知らずに。
はじまりは、仕事の取引先だった
彼女と出会ったのは、仕事だった。
取引先の女性。最初は、ただのビジネスの相手だった。打ち合わせのテーブルの向こうに座っている、きちんとした人。それが第一印象だった。
けれど、何度か顔を合わせるうちに気づいた。彼女は、仕事の話の合間にこぼす冗談が、妙におもしろい人だった。僕がくだらない返しをすると、声を上げて笑ってくれた。打ち合わせが終わってエレベーターまで見送る、ほんの数十秒。それがいつの間にか、僕の一日でいちばん楽しい時間になっていた。
仕事の関係から二人の関係に変わるまで、そう時間はかからなかった。
付き合いはじめたとき、僕は心のどこかで「自分には不釣り合いだ」と思っていた。そう感じる男は多いと思う。彼女は特別に派手な人ではなかった。けれど、一緒にいると世界が少しだけ柔らかく見えた。職場で気を張っていた肩の力が、彼女の前ではすっと抜けた。
恋に、不器用だった僕
ここで少しだけ、それまでの僕の恋愛のことを書いておきたい。
正直に言うと、僕は恋愛にひどく不器用だった。
大学時代、僕の学年は150人ほどいたが、そのうち女性はたったの10人ほど。圧倒的に男ばかりの環境で、恋愛の機会なんて、ほとんどなかった。
一度だけ、忘れられない苦い思い出がある。
大学のとき、僕は1ヶ月間、アメリカに短期留学をした。子供の頃から貯めた、あのお年玉をはたいて。そこで同じクラスになった一人の女性を、好きになった。
慣れない異国の地で、僕は必死に勇気を振り絞って告白した。
結果は、玉砕だった。
「ごめんね。日本に、彼氏がいるの」
そう言われて、僕の初めての海外での恋は、あっけなく終わった。
思えば、僕の恋愛はいつもこうだった。うまく立ち回れない。器用に人の心をつかめない。だから僕は、恋愛にずっと自信がなかった。
だからこそ、そんな僕が、あの取引先の彼女と出会って、生まれて初めて「この人と結婚したい」と心から思える人に巡り会えたとき。
僕は、のめり込んだ。人生のすべてを割いて、愛した。
不器用な人間ほど、一度本気になると加減がわからない。持てるものを全部、注ぎ込んでしまう。のちにヘリコプターを飛ばし、教会を貸し切り、800万円を彼女を見返すために賭けてしまう、あの極端さ。その根っこには、恋に不器用で自信のなかった僕の、危うい一途さがあったのだと思う。
ジブリの世界が、二人の場所だった
僕らには、二人の「定番」があった。
ジブリだ。
展示会があれば、二人で足を運んだ。あのふわっとした世界の中を、彼女は少し前を歩きながら「ねえ、これ見て」と僕を振り返る。トトロの前で、ナウシカの原画の前で、彼女は子どもみたいに目を輝かせた。その横顔を見ているのが、僕は好きだった。
映画もよく一緒に観た。新しい作品が公開されれば、当然のように二人で行く。観終わったあと、近くのカフェで「あのシーンがよかった」「いや、僕はあっちが」と、どうでもいいことを真剣に語り合った。
今でも、ジブリの音楽が流れてくると、胸の奥がきゅっとなる。あの頃の、なんてことのない、けれど確かに満たされていた時間が、一瞬でよみがえる。
休みの日は、特別なことをしなくてもよかった。彼女の部屋で、二人でだらだらと映画を観る。途中で彼女がうたた寝をして、その寝顔を見ながら、僕は「あぁ、しあわせだな」と口に出さずに思った。
スーパーで一緒に買い物をして、彼女が「今日は鍋にしよう」と言って、二人で安い白菜を一玉カゴに入れる。レジで小銭を数える。そんな、どこにでもある、誰も褒めてくれないような毎日。
でも、断言できる。あれが、僕の人生でいちばん「普通に幸せ」だった時期だ。
毎日の晩酌が、いちばんの幸せだった
僕は、彼女と出会ったその時から「この人と結婚するんだ」と思っていた。
大げさじゃない。本当に、出会った瞬間からそう感じていた。だから僕は、自分の人生のほとんどすべてを、その人のために割いた。仕事も、趣味も、二の次でよかった。彼女を愛すること。それが、あの頃の僕の生きる中心だった。
彼女は、実家暮らしだった。
門限があった。だから泊まりのデートは、あまりできなかった。夜になれば、彼女は家に帰っていく。名残惜しい気持ちで、僕は駅まで送る。そんな日々だった。
だからこそ、たまに二人で行く旅行は格別だった。
門限を気にせず、朝まで一緒にいられる。同じ部屋で、同じ朝を迎えられる。それがどれほど特別で、幸せなことだったか。旅先での彼女のはしゃいだ顔を、僕は今でも覚えている。
でも、いちばんの幸せは、もっと地味なところにあった。
晩酌だ。
二人で、その日あったことをぽつぽつ話しながら、お酒を飲む。安いつまみと、安いお酒。テレビがつけっぱなしになっていて、彼女がくだらない冗談を言って、僕が笑う。
ただ、それだけの時間。
でも、僕にとって、その「毎日の晩酌」が、人生でいちばんの幸せだった。
今ならわかる。僕が本当に欲しかったものは、ずっとこういうささやかな時間だったのだ。ヘリコプターでも、800万円でも、出世でもない。安いお酒を挟んで、好きな人と笑い合う。たった、それだけ。
なのに僕は、それを失ってから長い長い回り道をして、ようやくそのことに気づくことになる。
あの頃の僕は、「比べて」いなかった
なぜ、あんなに満たされていたのか。
答えは、シンプルだ。誰とも比べていなかったからだ。
あの頃の僕は、同期の年収も、友人の暮らしも、SNSに流れてくる誰かのキラキラした生活も、そこまで気にしていなかった。自分の手の中にあるささやかな幸せで、ちゃんと満たされていた。
のちに僕は、この「比べない」という宝物を、自分から手放してしまう。そして、地獄に落ちる。けれど、それもまだ先の話だ。
仕事でも、僕は「勝って」いた
正直に書こう。あの頃の仕事は、絶好調だった。
僕は、同期の中でいちばん早く昇格した。
といっても、役職がつくような大層なものじゃない。等級が一段、上がっただけの、最初の小さな昇格だ。それでも、大企業と呼ばれる会社で、それなりの数の同期がいる中で、最初に一歩前に出たのが僕だった。上司に認められ、期待をかけられ、新しい仕事を任された。僕は、自分が「できる側の人間」だと思っていた。
特に、忘れられない仕事がある。
ある新規事業の事務局を任されたときのことだ。社内のいろんな部署から人が集まって、新しいことを立ち上げる。けれど、こういうプロジェクトは、最初は熱量があっても、だんだん参加者のモチベーションが下がっていく。忙しい本業の合間に駆り出されて、みんな疲れていくのだ。
そこで力を発揮したのが、僕のたった一つの特技だった。
人を褒めることだ。
僕は昔から、人の長所を見つけるのが得意だった。事務局として、僕は参加者一人ひとりの動きをよく見ていた。誰かが小さなアイデアを出したら、すかさず「今の視点、めちゃくちゃいいですね」と本気で言う。資料を作ってきた人がいたら、「ここのまとめ方、わかりやすい」と具体的に褒める。
お世辞ではなかった。僕には、人のいいところが自然と目に入った。
すると、不思議なことが起きた。褒められた人が、もう一度がんばってくれるのだ。場の熱量が下がらない。むしろ上がっていく。「まけぼくさんがいると、なんかやる気が出るんですよね」と、何人もの人に言われた。
その新規事業は、うまくいった。その実績も、僕の早い昇格を後押しした。
僕は、自分のこの力を誇りに思っていた。
けれど、今になって、はっきりと思う。
僕はあのとき、これだけ人を褒める力を持っていたのに、たった一人、自分自身のことだけは、一度も褒めたことがなかった。
他人の小さな成長には気づけるのに、自分の頑張りにはまったく気づかない。むしろ、自分には誰よりも厳しかった。「これくらいできて当然だ」「もっとやれ」「まだまだだ」と、心の中の僕は、いつも自分を見下していた。
昇格しても、嬉しさは一瞬だった。すぐに「次はもっと上だ」と、自分を追い立てた。
ヘリコプターの上で、僕はプロポーズした
付き合って4年が過ぎた頃、僕は決心した。
この人と、結婚したい。
僕にとって、それはごく自然な流れだった。一緒にいるのが当たり前で、この先の人生も当然この人と歩んでいくものだと、疑いもしなかった。
そして僕は、ヘリコプターを選んだ。
プロポーズの場所に、ヘリコプターを。
今思えば、らしいといえば、らしい。僕は昔から、ここぞという場面で派手な「一発」に賭ける男だった。地味にコツコツも嫌いじゃないくせに、肝心なところで、最大の演出をしたくなる。
夜景の上を、ヘリコプターが飛んだ。眼下には、宝石をばらまいたみたいな街の光が、どこまでも広がっていた。ローター音が低くこもる狭い機内で、僕は隣に座る彼女のほうへ体を向けた。そして、その光の海に背中を押されるように、言った。
「一生をかけて、幸せにするから。結婚してほしい」
本気だった。一生をかけて、幸せにする。その言葉に、嘘はなかった。
彼女は、頷いてくれた。
あの瞬間、僕は文字通り、人生の頂上にいた。地上のはるか上、光の海の上で、愛する人が「はい」と言ってくれた。仕事も順調で、同期の先頭を走っていて、コツコツ貯めた結婚資金もあった。僕は、何もかもを手にしていた。
ここから先は、ずっと上り坂だと思っていた。
結婚して、子どもができて、家を買って、歳を取っていく。そんな「普通の幸せ」が当然のように続いていくと、信じて疑わなかった。
通帳の中の、希望だった800万円
結婚に向けて、僕はそれまで以上にお金を貯めた。
派手な貯め方ではない。毎月の給料から、コツコツと。飲み会を一回断って、その分を貯金に回す。欲しかったものを諦めて、口座に入れる。地味で、地道な作業だった。
通帳の数字が、少しずつ増えていく。10万、50万、100万……。その数字が増えるたびに、彼女との未来が一歩ずつ近づいてくる気がした。この金は、二人の未来のための金だ。そう思うと、節約も苦じゃなかった。
そうして貯まっていったのが、のちにすべてを飲み込むことになる、あの800万円だ。
今この数字を書くだけで、胸の奥がきしむ。
けれど、あの頃の800万円は、希望の数字だった。絶望の数字ではなかった。二人の未来のための、まばゆい希望の数字だったんだ。それだけは、わかってほしい。
しあわせの絶頂は、転落のはじまりだった
今、過去を振り返って、はっきりと思うことがある。
あのヘリコプターの上が、僕の人生のピークだった。
そしてピークとは、そこから先は下りしかない、ということでもある。
でも、当時の僕を責める気にはなれない。だって、あの頃の僕は、ちゃんと幸せだったのだから。彼女を愛していたし、未来を信じていたし、仕事でも勝っていた。
ただ、一つだけ。
あれだけ満たされていたのに、僕は一度も、自分自身に「よくやってるな」と声をかけたことがなかった。同期の先頭を走っても、ヘリコプターでプロポーズを成功させても、心の中の僕は「これくらい当然だ」と、自分を褒めなかった。
その「自分を褒められない癖」は、満たされている間は、見えなかった。
でも、すべてが崩れたとき。その癖は牙を剥いて、僕自身に襲いかかってくる。
もし、タイムマシンがあるなら。僕はあの頃の自分に、こう言ってやりたい。
「お前は今、十分にしあわせだ。それに気づけ。比べるな。焦るな。その手の中にあるものを、もっと大事にしろ。そして、彼女を失っても、お前の人生は終わらない。だから、あとで来る『あの選択』だけは、絶対にするな」と。
でも、タイムマシンはない。
あの頃の僕は、自分の幸せにも気づかず、これから来る転落にも気づかず、ただのんきに、未来を信じていた。
そしてその未来は、ある日の彼女のひと言から、音を立てて崩れはじめる。
(③へつづく)
※全話は連載マガジンにまとめています。