
人生どん底の僕を救ったのは自分を褒めることだった③
「結婚はできない」と告げられた日
※本作は全14回の連載です。第1回から読む →
世界が止まった
ヘリコプターの上で「はい」をもらってからの僕は、まだあの光の海の続きを歩いているつもりでいた。
けれど現実は、そうさせてくれなかった。
婚約をして、さあこれから式の準備を、というまさにそのとき、世界のほうが先に止まった。
コロナ禍だった。
街から人が消え、結婚式も、会食も、「人が集まること」のいっさいが悪いことのように扱われた季節。僕らの計画も、当然のように宙づりになった。式場の話も、両家の顔合わせも、何もかもが「落ち着いたら」という便利な言葉のなかに、そっと仕舞い込まれた。
僕は、たいして気に病んでいなかった。時期が悪かっただけだ、落ち着けばまた進めればいい。そう思っていた。婚約という事実だけは揺るがない。彼女との未来は、もう約束されている。そう信じて、疑わなかった。
止まった時間のなかで、彼女の心が、僕の知らないところで静かに動きはじめていたことに。僕はまるで気づいていなかった。
新宿中央公園
ある日、彼女に呼び出された。
新宿中央公園。高層ビルの谷間にある、あの公園のベンチに、僕らは並んで腰かけた。
久しぶりに顔を見られただけで、僕は少し浮かれていた。コロナで会う回数が減っていたぶん、隣に彼女がいる、ただそれだけのことがうれしかった。
彼女は、しばらく黙っていた。膝の上で、手をきつく組んでいた。
そして、前を向いたまま、静かに言った。
「ごめん。やっぱり、結婚はできない」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
心臓がひとつ大きく鳴って、そのあと、まわりの音がすうっと遠ざかった。結婚はできない。けっこんはできない。何度、頭のなかでなぞってみても、意味だけがどうしても結ばなかった。
「……え?」
僕に言えたのは、それだけだった。
夜景の上で「一生をかけて幸せにする」と誓った相手が、昼下がりの公園のベンチで「結婚はできない」と言っている。あのきらめきと、この静けさの落差があまりに現実離れしていて、僕はうまく受け止められなかった。
彼女は、その理由をぽつぽつと話した。コロナで、いろいろ考えてしまって。この先が、不安になって。きっとマリッジブルーなのだと、僕はそう思うことにした。いや、そう思いたかった。
「そうか。不安だよな。こんな時期だもんな」
自分に言い聞かせるように、僕は言った。一時的なものだ。落ち着けば、また戻る。そう信じようとした。
公園の木が、風でかすかに揺れていた。都会のどまんなかなのに、その午後はやけに静かだったのを、覚えている。
見せかけの「わかった」
家に帰っても、頭のなかはぐちゃぐちゃのままだった。
僕を追い詰めたのは、彼女の言葉だけではなかった。親戚だ。
婚約の話は、もう親戚じゅうに広まっていた。いつ式を挙げるんだ、相手はどんな人だ、早く挨拶に連れてこい。悪気のない、けれど確実に僕の首を絞めてくる、まわりの期待。
その圧のなかで、彼女からは「結婚はできない」と言われている。
板挟みになった僕は、情けないことに、その圧に押し流されるようにして、一度は婚約破棄を受け入れてしまった。
「わかった。君がそう言うなら」
そう口にした。けれど、それは受け入れたふりにすぎなかった。心の底では、まるで諦めていなかった。むしろ、失うかもしれないと思った瞬間に、彼女への気持ちはもう一度、燃え上がった。
諦められない。もう一度、本気を見せれば、きっと。
そうして僕は、また「派手な一発」に走る。
教会
僕は、教会を貸し切った。
二度目のプロポーズの舞台に、教会を。
ヘリコプターの次は、教会。こうして書いていると、当時の自分の肩を掴んで揺さぶりたくなる。地道に話し合うのでも、誠実に向き合いつづけるのでもなく、また、たった一度の大きな演出にすべてを賭けたのだ。
しんと静まった聖堂の、高い天井の下で。僕は彼女に、もう一度伝えた。やり直したい。結婚してほしい、と。
彼女は、断った。
二度目の、「ごめん」。
その一言は、広い聖堂に小さく響いて、すぐに吸い込まれるように消えた。あれだけの演出も、あれだけの本気も、彼女の心にはもう、何ひとつ届かなかった。
がらんとした教会に立ち尽くしたときの、あの空っぽな感じを、僕はたぶん一生忘れない。
本当の理由
本当の理由を知ったのは、それからしばらく経ってのことだった。
彼女が「結婚はできない」と言ったのは、マリッジブルーなんかじゃなかった。コロナのせいでもなかった。
彼女には、ほかに男がいた。
それも、同じ会社の同期だった。
僕が教会まで貸し切って「もう一度」と頭を下げていたころ。彼女の心は、とっくにその男のところにあったのだ。
相手は、熊本の出身だという。いわゆる、九州男児。
僕は、寝取られていた。
その事実を知ったときの感情を、どう名づければいいのか、いまでもわからない。悲しみとは違った。悲しみなら、公園のベンチでもう味わい尽くしていた。これは、もっと暗くて、粘つく感情だった。
屈辱、というのが、いちばん近い。
ヘリコプターを飛ばし、教会を貸し切り、二度も頭を下げた自分の姿が、急に道化のように、みじめに見えた。彼女が「不安なの」とうつむいていたその裏側で、僕はひとり、舞台の上で滑稽に踊らされていた。同期の先頭を走っていたはずの男が、人生でいちばん大事な場面で、これ以上ないほど無様に負けたのだ。
「九州男児に、寝取られた」
その一行が、頭のなかで何度も、何度も、再生された。
あの男には、してみせた
さらにあとになって、もう一つ、残酷な事実を僕は知る。
彼女は、その同期と付き合いはじめた。そして、僕と婚約していたころには決してしなかったことを、その男とは一つ、また一つと、していった。
まず、実家を出て、一人暮らしを始めた。僕と付き合っていたあいだ、彼女は「家の事情があるから」と実家を離れず、門限があって、泊まりのデートすら、ろくにできなかったのに。あの男とは、あっさりと家を出て、半同棲を始めたという。
そして、その男を両親に会わせた。両親は反対したらしい。けれど彼女は、その反対を押し切ろうと、必死に両親を説得しているのだと、人づてに聞いた。
その話を聞いたとき、頭を鈍器で殴られたような気がした。
僕のときは、一人暮らしもしてくれなかった。両親に反対されても、僕のために争ってくれることはなかった。「家の事情」を盾に、僕はいつも静かに、後回しにされていた。
なのに、あの男のためには、彼女はそのすべてをやってのけた。
答えは、単純だった。彼女は、僕のためにはそこまでする気にならなかった。それだけのこと。差し出された愛の重さが、たぶん最初から釣り合っていなかったのだ。
この事実は、くすぶっていた「見返したい」という火に、大量の油を浴びせかけた。
見返したい
ここから、僕の本当の地獄が始まる。
ふつうなら、こういうとき、人は泣いて、傷ついて、時間をかけて少しずつ立ち直っていくのだと思う。
でも、僕は違った。
失恋の悲しみは、いつのまにか、まったく別の感情にすり替わっていた。
見返したい。
その一心だけが、僕を動かしていた。あいつらに「捨てたのは間違いだった」と思い知らせたい。どれだけすごい人間か、見せつけてやりたい。みじめなまま終わって、たまるものか。
そうやって僕は、自分の人生の主導権をまるごと、「見返したい相手」に明け渡してしまった。僕の心は、もう僕のものではなくなっていた。彼女と、あの男の影に、朝も夜も支配されていた。
そして、いちばんたちが悪かったのは。
人を褒めるのがあれほど得意な僕が、こんなときですら、自分には優しい言葉のひとつもかけてやらなかったことだ。
「二度も振られて、よく耐えたな」とも。
「お前は、悪くない」とも。
「つらかったな」とも。
一言も、言わなかった。かわりに僕は、自分をこう斬りつけた。
「無様だから、捨てられたんだ」
「もっとすごい男になって、見返せ」
「このまま終わったら、ただの負け犬だ」
他人にはあんなに優しくなれるのに、自分にだけは、刃物のように容赦がない。あの「ねじれ」が、どん底に落ちた瞬間、牙を剥いて、僕自身を内側から食いはじめた。
通帳
見返したい、という炎に炙られながら。ある夜、僕は通帳を開いた。
そこには、800万円があった。
彼女との未来のために、こつこつ積み上げた、希望の数字。二人の、結婚資金。
その数字を見つめているうちに、僕のなかで、何かがカチリと、ずれる音がした。
この金で、一発、当ててやろう。
大きく増やして、見返してやる。地道に働いて出世を待つなんて、そんな悠長なことはしていられない。一発逆転だ。ヘリコプターも、教会も、僕はいつだって大きな一手に賭けてきたじゃないか。今度も、そうすればいい。
いま、これを書いている僕は、あの夜の自分の肩を、力いっぱい掴んで止めたい。
その金に、手をつけるな。それは、お前が何年もかけて積み上げた、努力の結晶だ。見返すために使う金じゃない。お前が立ち直るための、お守りなんだ。頼むから、やめてくれ。
でも、届かない。
あの夜の僕は、もう誰の声も届かないところにいた。自分自身の声さえ、届かないところに。
震える指で、僕は証券口座にログインした。
そして、信用取引という名の崖から、自分の足で飛び降りていく。
(④へつづく)
※全話は連載マガジンにまとめています。