
新出雲物語39|第六章 須佐之男命、日向国で日巫女に遇う④ |父の遺作を公開する
この作品は、父が生前に書き残したものです。
原稿用紙のまま残されていたものを、書き写して公開しています。
原文には手を加えず、読みやすさだけ整えています。
興味を持ってくださった方は、是非最初からお読みいただければ幸いです。
※中国漢の時代、日本を〈倭国〉と表わしていた。漢時代倭は「カ」または「クヮ」と発音され「ワ」は呉音である。この原義は「柔順な」とか「なよやか」の意味を持っている。前述の「魏志倭人伝」の一節に「倭地温暖、冬夏食生菜」とあり、「倭地では冬でも生野菜を食べている」と、記されている。つまり邪󠄂馬壹國では冬でも野菜を収穫できる温暖の地であった・・・この記述は邪󠄂馬壹國が日本の何処にあったかを暗示している。※
二日後の朝、高木守に先導されて須佐之男命一行五十人は大淀川沿いに上流の高城の郷へ向った。進路の左前方に鰐塚山があり、これが目印であった。一行が高城の郷に差しかかった時、日は高千穂の峰にかかり始めていた。
高木守は尊一行を止め数人の伴人を従えて郷長の館へ向った。この郷の生れである高木守は郷人との知り合いも多く、周辺の地理にも詳しかった。
高城の郷長は通報を受けて高木守の来訪を館の門外で待っており、高木守が近づくと、
「よくぞ来てくれた・・・今年は曾於の者共数多現われ困り果てしところ、先に助人を送りくれたるもとても足らぬ」
と、伝えた。
高木守は、
「此度は北の国を統る尊を頭に五十人の兵の援けがあり争いも終えられると思いまする。尊をはじめ篠栗守、兵の長である武守の宿をお願い致しまする」
と、申し出た。
「そは易きこと、他の兵は民の家に分けて泊れるようにいたそう」
と、郷長は快諾した。
翌日の朝、須佐之男命は大淀川上流の峠道に二隊の兵を配置して曾於族の侵入を防ぐ作戦を執った。一つの隊の指揮は武、別の一隊は篠栗が指揮を執りそれぞれ二十人配属された。尊は十人の側近の兵十人と郷より選ばれた十人と共に後方に待機していた。
日が東の空の中程に昇った時、曾於族三十人が警備の二隊に近づいて来た。武は彼等が至近距離に到するまで動かず、一人一人の顔が判別できる程になった時、単騎馬を駆り進みくる一隊の正面に出て、
「ここは日向国の高城の郷なり・・・妄りに入ることはならぬ・・・疾く戻るべし」
と、大声で呼ばわった。
曾於族一隊は馬に跨り剣をかざした荒武者の出現に驚いたが、単騎だと思い先導者が、
「相手は一人なれば恐ることなし」と言いながら手にした棒を振りかざして立ち向かってきた。
武が踵を返し十数歩退いた時、追って来た曾於の一団に待機していた二隊の兵が左右から襲いかかった。曽於の一団は慌てふためいて混乱に陥った。
この時、須佐之男命は騎乗のまま曾於の一団の前に進み出て、
「我は須佐之男なり、これより先許可なく進むことはならぬ・・・頭はこれに出でませい」
と、叫んだ。
すると一団の中央にいた一団を指揮していた若者が前に進み出て、
「我は大隅彦と申す・・・野にある稲穂なればこれを採るは我等の慣いなり」
と、樫の棒を振りかざし尊に迫って来た。尊は一歩も退かず「愚かなり」と言って、剣を抜きざま、樫の棒を中程で切断、切り離された棒の半分は宙に舞い上がった。曾於の一団は肝を潰し逃げんとした時、武の率いる兵が退路を塞いでしまった。曾於の一団は進退きわまり、得物を捨て両手をあげた。
両手を大地に頭を下げた大隅彦に下馬した尊は厳かに宣べた。
「飯を民に与えるは長の務めなれば、其方の行為《おこない》いたずらに責むるにあらず・・・されど高城の郷の民人が耕し実れる稲穂を奪うは許されぬことなり。この年、我等が得たる実りよりいくばくか其方等に与えよう・・・これにて来たる年には自ら田を耕し稲を育てよ。これより先、峠を越えこの地に入りてはならぬ」
これを聞いた大隅彦と曾於族の一団は感謝の表情を見せ、一族の長の後継、大隅彦は、
「此度のことお赦し下され・・・これより先二度と日向の地に入らぬこと誓い申す」
と、答えた。
尊は高木守を呼び種籾を与えるよう指示した。
一刻後、高城の郷より届けられた稲穂を手にした大隅彦と曾於の一団は尊に頭を下げて謝意を表わし峠を南へと降りて行った。
曾於一団が去るのを見届けた尊は篠栗守、高木守、武守を前にして
「曾於の者を殺めるは易し・・・されど、殺むれば恨みは消えぬ、ゆえにかく扱いたり」
と、説いた。
曾於族侵入の懸念がなくなり高城の郷では稲穂の刈り取りが順調に進み二日でその収穫を終えた。須佐之男命と篠栗は高木と郷長と協議し、収穫された稲穂の約二割を受け取ることになった・・・それは例年曾於族により掠奪されて来た数量に満たないものであり、高城の郷長は喜んで同意した。
明くる朝、尊一行は郷長と郷人達に見送られ阿波岐原(宮崎市)経由で帰途に就いた。