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ただいまとおでん③ 【父との別れ・そして私のこと】


    わたしが体験した実話のエピソードが
    あなたの“グリーフケア”に繋がりますように



    ♢♢♢♦︎♢♢♢♦︎♢♢♢


    母を天国へ見送ったあの日から四十九日と+1日が過ぎた2024年11月12日、父は静かに息を引き取った。

    【2024年10月・母の部屋の片付けと遺品整理】


    本当は全て残しておきたかったけれど、それをしてしまうとずっと、片付けることができなくなってしまうと思い、大袈裟だけど“心を鬼”にしながら母の部屋の片付けや掃除をしていた。

    同時に、実家にいる父の容態を看に行きつつ、定期検査のために父を病院へ送迎をする日々。

    ーーこの頃、私は自分自身のメンタルバランスを崩してしまっていたーー
    人生で初めて“心の中のカウンセリング”を受けに行き、医師の判断で当分は仕事を“休む”ように伝えられた。
    この時期の私の症状は、“ICD-11 QE84”(急性ストレス障害=ASD)だった。

    【母を天国へ見送った後の父のこと】


    9月ーー母の葬儀で車椅子に乗ったままの父は、とてもか細い声で会場の皆さんへの言葉をこう伝えていた。

    「本来ならば、ステージ4の癌である私が、今年の年末頃に死ぬ予定として、妻や子ども達は生きていた途中でした。しかし、運命と言うのは非常に残酷で、全く予想していなかった出来事が起こってしまいました。私の妻が突然、先に旅立ってしまいました。いま、我々はこの現実をどう受け止めていっていいのかがわからない状況です……。」

    ーー父を定期検査のために病院へ連れて行こうとしたある日、ベッドに寝たきりのままになった父から突然、私はこう言われた。

    「愛、あのな。人生には予想していなかった出来事が起こってしまう時がある。それが嬉しいことだったらいいけど、残酷で悲しいことに遭遇してしまう時もある。お母さんが死んでいたあの日、おまえには一生、記憶の中に残ってしまう、お母さんのあの姿を、ほかの誰でもない愛に、1番に、見せることになってしまった。本当にごめんな。全部、全部、お父さんのせい。本当にすまん。」

    ほとんど体力や食欲もなくなってしまっていた状態の父から、掠れた声で泣きながらその言葉を伝えられた私は、泣くことを我慢できず、嗚咽をしながら父にこう伝えた。

    「お父さん、謝らないで。誰も悪くない。お父さんのせいでもない。誰のせいでもない。ただ、お母さんの人生があの日で終わりだった、ただそれだけの、そういうことだった、って、いうことだけ、だから。だから、お父さんは、いま、ステージ4の癌だとしても、少しでも長く生きてほしい。お願いだから…。」

    私は子どもみたいに泣き、言葉に詰まりながら、、父の部屋で、ベッドの上で横になって泣いている父に、初めて自分の本音を伝えた日でもあった。

    【急変した父の容態】


    それから、数日経ったある日。
    父の様子を見ていると、私の“直感”で、『あ。お父さん、明日やばいかもしれない。』という“予感”があった。

    なので父の主治医でもある先生に電話をし、「もしかすると、近日中に父の容体が急変する可能性があるので、救急車を呼ぶ際、そちらの病院名と先生のお名前を救急隊員の方にお伝えをし、父を運んでもらうように手配してもいいですか?」ということを伝えた。

    ーーその翌日、私の予想通り、父の容体は突然、急変した。
    その日、私は母の部屋を片付け、区役所へ行き、様々な手続きなどを行い、メンタルのカウンセリングを受けに行った帰りだった。

    中学3年生の甥っ子から焦っている声で電話があり、「愛ちゃんやばい。愛ちゃんやばい。じいじがやばい。今どこに居ると?早く、こっちに帰ってきて!!」
    甥っ子の電話の雰囲気から、『これは救急車を呼ぶべきだな。』と思った。
    なので、真ん中の弟たち夫婦、どちらが家に居るのかを確認し、救急車を呼ぶように、そして救急車がきたら救急隊員の方に事前に伝える内容などを全て共有した。

    ーー私が実家へ到着した時、タンカーの上に横になって、意識朦朧としていた父はちょうど救急車の中に運び込まれるタイミングだった。


    無事に病院へ父を運ぶことができた日。
    主治医から父の症状が本気で悪くなっていることと、体重が落ちすぎていることを伝えられた。
    そして、「今夜、病院へ来なかったら、お父様、明日の朝は息をしていなかった状況でしたよ。適切なご判断をされましたね。」と伝えられた。

    ステージ4の父は、脳、背骨、脊髄、肝臓、腎臓や膵臓、腸など、全身にガン細胞が転移しすぎていた。

    ミミミミミ

    7月に一時退院をする前まで、半日以上の抗がん剤投与や放射線治療、それが終わって、猛烈な吐き気を催す時間。
    痛みを緩和するための医療用麻薬の“モルヒネ投与”など……。

    父は一体、どんな気持ちでその時間を耐え、頑張っていたんだろうと思う。
    まだ癌になったことがない私には、その治療がどのくらい過酷でしんどくて、痛くて辛いか……安易に想像できない。

    ミミミミミ

    父の携帯はガラケーだった。
    入院した父から電話やショートメッセージがよく届くようになった。
    その都度、私は努めて“明るく”返信を返す。

    そんなある日、父から言われた言葉がある。
    『愛ちゃんがいつも明るく、みんなのことを考えながら言葉を選んで、みんなやお父さんに伝えてくれてるから、お父さんはとっても気持ちが楽です。治療は本当にきついけど、がんばれてるし集中ができてます。いつも、家族みんなのために考えて動いてくれて、本当にありがとう。』

    そのメッセージを急に伝えてもらった私は、『お父さん、癌になったから?そういう言葉を私に送ってきたのかな?』と思っていた。

    だって、普段の父なら、そんな言葉を絶対に私に伝えてこないタイプの人、だから…。

    【悩んで選んでいる時間がない日々】


    父を救急車で運んだあの日から数日経った頃、主治医の先生からわたしと弟たちへ、病院へ集まるよう、連絡があった。

    先生の元へ駆けつけると、「いま現在、お父様の体重が落ち過ぎてしまっている状況なので、申し訳ありませんが正直、もうこれ以上、癌治療の薬を投与することはできません。なので、今後のことも含めて、どのような場所でお父様が最期を迎えるかということを、ソーシャルワーカーやケアマネジャーの先生を含めて全員で考えていきましょう。一緒に。」

    そこからすぐに、父が最期を迎える“ホスピス”の提案がされた。自宅に帰ることも考えたが、何かあったときがとてもリスクがありすぎると思い、わたしたち姉弟はホスピスへ移動する内容で話を進めていった。


    ▶︎今すぐ受け入れができるホスピスは2箇所
    1つは、実家からとても近い場所
    そして2つ目は以前、父が設計した病院だった



    「施設を、一度見学してから決めたいです。すぐに面談ができるのはどちらのホスピスですか?」と私が伝え、先方のスケジュール確認をしたところ、たまたまのタイミングだと思うが、そこは父が設計した病院のホスピスだった。

    「今すぐに面談と受け入れが可能です。」
    という返答が届いた11月上旬。

    翌日、私は1番下の弟と朝からそのホスピスに向かい、面談へ。
    施設内に入ると、いまその場所に来ている人の名前と体温、この数日間、周りに感染症の疑いがある人と会っていないか、などの質問事項が書かれた用紙に記入し、手指消毒をしっかり行うように指示された。
    他の患者さんにコロナ等の感染を防ぐようにするためだと説明を受け、すぐに隔離された個室へ案内され、ホスピスを担当する女医の先生から、父のカルテを見ながら、今後の流れを淡々と説明してもらった。

    『先生や看護師さんから見れば、いまから死ぬ人間を管理する状況って、日常で普通で当たり前の出来事なんだよなぁ…。』
    私はどこか冷ややかにそう思いながら、その先生や看護師さんからの説明を聞いていた。

    迷う時間は全くない状況だった。
    先生と看護師さんの話を聞きながら、その人たちが纏っている“オーラ”や雰囲気や言葉、声のトーンを感じ取った私は、1番下の弟に「明日、朝一でお父さんをここに移動させよう。」と伝えた。

    ーー翌朝、父の病室に行き、耳元でこう伝えた。
    「お父さん!今日からお父さんが設計した病院に移るからね!今から移動するから。体が揺れるけど、もしどこかが痛かったらちゃんと言ってよ。しゃべれなかったら目で言ってくれたらわかるから、伝えてね!」
    キャスター付きのストレッチャーに移り、ある程度、カラダ全身を固定された状態の父。
    介護用のタクシーで、移動先のホスピスへ向かった。

    【ホスピスでの時間】


    私が手続きなどを色々と行っている時間、1番下の弟は父のそばにいてくれた。
    入院をしていた病棟内に居たときは固形物の食事を全く、食べなかった父。
    だけど、ホスピスに移動したその日の夕飯は、1番下の弟がゆっくりとスプーンで父の口元に運び、ゆっくりと食事をとっていた。

    その日から、ホスピスの父の部屋の中には、家族が1人だけ泊まれるようになった。
    私たちは交代で泊まっていく形をとった。

    毎日、母の部屋の片付け、区役所や年金課や銀行、その他の手続きを行いながら父のホスピスへ通う日々。
    父はホスピスに移動してから、一言も言葉を発しなくなった。
    ただ呼吸をするだけの毎日。
    瞬きをしないから目の中の乾燥を防ぐために、湿らせたガーゼをまぶたの上に置き、目を閉じさせるような形をとっていた。

    ホスピスの中は、全体的に現実の世界ではないような感覚になる空間だった。
    それぞれの個室にいる方たちが亡くなるまでの人生最期のひと時を1分1秒、大切にしながら過ごしている空間でもあった。

    『…深い海の中にいるような無音の空間だ。』

    先生や看護師の皆さん、お見舞いに来ている方の足音や扉の開閉音しか聞こえない空間。
    そして、父の部屋も静寂だった。
    父の呼吸音しか聞こえない空間。
    それでも、父の目だけは私たちが発する言葉に微かに反応していた。

    【父が亡くなる前日の夜】


    私は姉弟を代表して、父の病室に泊まった。
    ホスピスの方から「申し訳ありませんが、ほかの患者様の安全面を考えて、できれば日常生活であまり、たくさんの人と接していない環境の方が宿泊していただけますと、大変助かります。」と、伝えられたのもあったからだ。

    病院内のコンビニで軽食と飲み物を買い、父の様子を見ながらソファーで横になる時間。
    『完璧には眠れない…。』そんな夜だった。

    ベッドの上で呼吸だけをしながら全く動かなくなった父に、私が話しかけると目が左右に動いた時間だった。
    私が父の好きな音楽をiPhoneで再生して歌い、父の手を握り、ゆっくりと揺らしながらリズムをとっていた夜。
    その時間が、父と2人だけで過ごした最期のひと時となった。

    【父の最期】


    翌日、2024年11月12日夕方17時ごろ
    ずっと立ちっぱなしだった私が、父のベッドサイドにあるソファーに座った瞬間、父は静かに息を引き取った。

    その日は朝からとても天気の良い空色で、ホスピスの父の部屋の窓から見えた夕陽の、色が、とても美しい時間帯だった。


    ミミミミミ

    父の葬儀は滞りなく、父の人柄が伝わるような内容で、とてもスムーズに終えることができた。
    母の時とは違い、少しだけ、心の中で“父の死”を覚悟していた部分があった為、とても冷静に受け入れながら対応できている“私”がいた。

    ミミミミミ


    【2024年・12月】


    その後、年末前に両親の納骨を行う日までに父と母、2人分の様々な手続きや色々なことをしなければならない時間でもあった。

    何より大変だったのは、来てくださった方々への“返礼品の発注”
    ありがたいことにとても数が多すぎて、“返礼品”を決めることも大変だったし、お一人お一人のご住所やお名前など、誤字脱字がないように記入していくことに気が遠くなるような作業だった。

    そういった事務的なことを進めながら、納骨の日を無事に終えた2024年の年末までは、まるで超高速な“ジェットコースター”にでも乗っているような感覚になるくらい、一瞬で通り過ぎていった日々だった。。。

    【2025年・心底、悲しかった毎日】


    新年が明けて2025年になった。

    正直、この2025年は私の中で、“生と死”を毎日感じてしまう365日だった。
    頭では理解しているけど、母と父がもう、この世には居ない。
    普通に過ぎていく日常に、わたしの両親は“生きてない”
    その現実に向き合わなければいけない、365日だった。

    そして、母が亡くなったあの日から、母といつも一緒に行っていたスーパーや道の駅、日帰り温泉の場所やご飯屋さんには、しばらく行けなくなっていた。

    外に出ると母親と娘でお出かけしている人たちや、わたしの両親と同じ年齢くらいの方々を見かけるたびに、『いいなぁ。みんな、まだ生きてて。うらやましいなぁ。』と思う気持ちが強く湧き出ていた。


    2025嚴ミミミ
    毎日、ひとり暮らしの部屋の中で過ごす時間、1人ドライブやひとり旅をしている時に、1人で、色んなことを“ぐるぐるぐるぐる”考えて過ごしていた。

    何度も何度も『大丈夫。大丈夫。いつかは今のこの気持ちを整理することができて、抜ける日がやってくる。』
    そう思いながら生きていた。

    無理矢理、“気持ち”を奮い立たせて、“ひとり旅”をしている時、両親が死んでいることを何回も忘れてて…『あ、これ、お母さん好きそう。これはお父さん、使いそうだな。買って帰ろう。』とおもったあと、『…あ、そうだ。もう2人とも居ないんだった。お土産、渡せないんだ。笑』と、また涙が出た。

    そして、両親の初盆や一周忌の日にちは迫ってくる。その準備を行う最中にも、本当にいろいろな出来事が起こってしまい、“呆れるくらい・大変”だった。

    外に出れない時もあった。
    だけど、何とか外出したときには、家の玄関の扉を開けて部屋の中に入るたび、独り言のように『ただいま〜!』と言う癖がついていた。

    母が生きていた頃だったら、キッチンやリビングから『おかえり〜!』という声が聞こえていたはずなのに、今は私の“記憶の中”の母の声しか再生されない…
    “ただいま”と“おかえり”って、結構 、安心できる言葉だったんだなぁ〜……。

    ーーー私は両親を失って、いつも当たり前に居てくれた“存在”がいる日常やその時間は、本当に優しくて、温かくて…無意識レベルで“安心”できていたんだ、と、初めて気がついた。

    【2026年・そしてこれからの私の人生】


    2026年ーーーカウンセリングの先生にしか伝えていなかったことで、もう随分、回復してきている今だから敢えて、ここに残しておく。

    両親が他界した後から特に深夜の時間帯・キッチンに座り込み、泣きながら包丁を手首に当てて、『もう、生きていてもなんの意味もないし、わたし1人だし、このまま死んでもいいよなぁ。もう死にたいな。死のうかな。死んでもいいよね。』と思ったことが、何十回もあった。

    あの日、亡くなっていたお母さんを見た瞬間のあの映像が突然、“フラッシュバック”で頭の中に出てきて、涙が止まらなくなって、泣きすぎて過呼吸になって、『息できない!苦しい!呼吸ができない!どうしよう!!誰か助けて!』と思ったことが何度もあった。

    今はなんとか食べられるようになったけれど、食事ができなくなった時期もあった。

    スーパーの精肉コーナーに置いてあるお肉を見ると吐き気を催してしまい、急いでトイレへ走った時もあった。

    普段、いつも行っていた天神へも行けなくなった時期もあった。

    そして、今もずっと不眠は続いている。


    ミミミミミ


    たまに会う、気心が知れている女友達やその友だちのご両親・父や母とお友達だったおじちゃんやおばちゃんたち、母の仕事仲間だったおじちゃんや母のお客様とお互いに笑顔で、他愛もない色々な話をしながら一緒に、のんびり過ごす時間の中でわたしは“わたし”を少しずつ、少しずつ回復させながら生きている“今”

    まだまだ“回復途中”な今の私の症状“ICD-10 F43.1”(心的外傷後ストレス障害=PTSD)は、自分自身で上手にコントロールしながらバランスよく付き合っていくことが大事だし、“2024年のわたし”よりも今は“新しいわたし”になっていく“途中経過”なんだと思いながら、毎日を過ごしている。

    これから先、私の『ただいま』に、母からの『おかえり』が返ってくることや、お酒を飲んで酔っ払いながら“おでん”を作る父の後ろ姿を見ることはもう、2度とない…。

    だけど2026年の今、私の“心”を温かく支えてくれているのは、大好きな両親とのたくさんの思い出や記憶、iPhoneの中に残っている、LINEやショートメッセージを使った“言葉”のやり取り、留守番電話に録音されてる母や父の“声”、そして“写真”や“動画”たちだ。


    ーーー私は今日もひとり暮らしの部屋で、当たり前の日常を生きていく。
    母の味を思い出しながら、自分のために食事を作り、ベランダでお花や植物を育てたり、ドライブをしたり…、父が好きだった建築家が設計した作品集やArt雑誌などを読み、“いまの自分”を大事にしながら、ゆっくりと進んでいく。

    ふと見上げた空は、きっと天国に引っ越したお父さんとお母さんに繋がっているんだと思う…二人の優しい笑顔がいつでも並んで浮かんでいるような気がする。

    だからわたしは日々、心穏やかに、できるだけ口角を上げて笑顔で過ごし、周りに感謝を伝えながら優しく、そして強くしなやかに私の人生を生きていこうとおもう。

    お父さん、お母さん、いつまでも
    ずっと、だいすきだよ

    2026.07
    愛より


    ◼︎END◼︎


    ♢♢♢♦︎♢♢♢♦︎♢♢♢


    長文、最後まで読んでいただき
    ありがとうございます
    😊!

    私が体験した出来事をまとめ、
    言葉や文章を紡ぎました。
    ここを読んでいただくことで、
    アナタの“何か”の“きっかけ”に
    繋がるといいな〜!と思います。

    そして、今、純粋に大好きで、
    ずっと一緒に居たい人がいるのなら、
    “大切におもっていること”を、
    きちんと言葉や行動で伝えながら
    生きていくようにしてください。

    例えば…
    その人が突然、居なくなってしまったら…。
    今、心の中で考えている
    “その気持ちやその言葉”は
    もう2度と、その人に直接、
    伝えることができなくなってしまいます。
    そして、そのことは後々、絶対に!!
    “後悔”に繋がります。

    ここを読んでくれたあなたや
    あなたの周りの皆さんの毎日が、
    どうか幸せな時間でありますように。

    そして、今日も自分自身を“愛すること”を
    忘れないでいてください
    🫶💓
    “ご自愛”することは本当に大事です´
    ◡`🌼

    ♡

    Self-care, self-love.
    Above all, love yourself first, then love others.
    Love is the gentlest and strongest force of all.
    And so, I live another day with “love”.
    ▶︎セルフケア、セルフラブ。
    なによりもまずは自分を愛し、
    それから、他者を愛そう。
    愛はすべての中で最も優しく、最も強い力。
    だから今日も私は、“愛”と共に生きていく。


    ♢♢♢♦︎♢♢♢♦︎♢♢♢


    💫TOPの写真はわたしの家の“家紋”でもある
    “桔梗”のお花です
    😊🤍

    【花言葉】
    永遠の愛・変わらぬ愛・誠実・気品


    🕊️✨🪽

    ミミミミミ

    ▶︎ただいまとおでん①と②


    まだお読みでない方は
    ぜひ、こちらから↓ご覧ください
    🙏✨

    ▶︎ただいまとおでん①【両親のこと】

    ▶︎ただいまとおでん②【突然の母との別れ】

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