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ただいまとおでん① 【両親のこと】

    これは、私の大好きな両親が立て続けに天国へ移り住んだ、100%実話の物語です。


    ♢♢♢♦︎♢♢♢♦︎♢♢♢

    ーーー2024年、42歳。
    わたしの人生時間において、一番予想していなかった出来事が起こった。
    それは、両親が立て続けに天国へ引っ越してしまったことだ。

    【2024年・春】


    父は年が明けてすぐの頃から、「腰が痛い、腰が痛い」とよく言っていた。
    私は実家に帰るたび、「そんなに痛いんだったら、整形外科か整骨院に行ったほうがいいんじゃない?」と声をかけていた。
    だけど、病院嫌いな父は一向に診察を受けに行こうとしない。

    相変わらず休日は、朝から芋焼酎をロックで飲み、お昼の12時頃には酔いつぶれ、気づいたらリビングで寝て過ごす――それが父の“毎週末のルーティーン”だった。

    その頃の母は、この20数年間と変わらず、毎週各曜日ごとのお客様宅へ家事や清掃の仕事に向かっていた。

    さらに土日も、依頼された仕事をこなす日々。
    春は引っ越しシーズンということもあり、昔からの仕事仲間のおじさんと二人で、朝から福岡や佐賀など様々なエリアへ清掃に向かう、そんな忙しい毎日を過ごしていた。

    【父と母のこと】


    両親は私の記憶が正しければ、私が20代後半から“別居”という形をとっていた。

    母は1人で部屋を借りて住み、実家には真ん中の弟夫婦と子ども3人、そして父が暮らしていた。その頃の私は、一人暮らしをしていた。

    父と母は表向きは“仲が良い夫婦”として過ごしていた。けれど、実際はそうではなかった。[お互いの価値観が違う部分を認め、歩み寄って会話をする・支え合う]ということができなかった夫婦だったから、亀裂が入ってしまったのだろう。

    両親の別居を真近で見ていた私は、“結婚をする”ということに対してのメリットがまったく思い浮かばなかった。

    今はそう思わないが、20代・30代の頃は「結婚に興味がない。」と周りに言いながら過ごす生き方を選び、仕事や遊び・たまにいく国内と海外旅行を楽しみ、そして、その時々で彼氏を作り、“それなりに楽しむ時間の過ごし方”を送っていた。

    【父のこと】


    父は大学を卒業後、紆余曲折ありながら一級建築士の資格を取得した。
    この福岡の中では、割と名が知れた建築士だったようだ。

    でも、わたしが幼い頃の記憶の中にある父は少し違う。毎週末、母が作ってくれたお弁当を持って、父の運転で色々な場所へ家族みんなで出掛け、夕食の時間には“ちびまる子ちゃん”や“サザエさん”を観ながら、父が上機嫌にギターを弾いて歌をうたっていた。
    そんな温かい映像が脳裏に蘇る。

    けれど、私が大人になった頃の父は、毎週末、朝からお酒を飲み、そして酔いつぶれ、昼過ぎにはリビングのソファー下で死んだように寝ていた。

    たまに調子が良い日には、酒飲みの人によくある、塩分強めで独特な味付けの“おでん”を午前中から作っていた。

    台所で“それ”を作っている、父の後ろ姿。

    大人になってからの私にとって、その時間が父との数少ない、唯一といっていい“思い出”だ。

    【母のこと】


    母はデザイン科のある高校を卒業後、絵を描くことが得意な母にぴったりの企業へ就職した。高校時代にアルバイトをしていたイタリアンレストランで父と出会い、付き合っていたそうだ。

    母が社会人として働き出した頃、父からきちんとしたプロポーズの言葉もないまま、ある日突然、父が勝手に決めていた結婚式場へ連れていかれたという。
    恋愛経験の少なかった母は、父に対して何の疑いも持たないまま、流れるように20代前半で結婚した。

    しばらくは専業主婦をしていたが、私が中学に上がる頃に生命保険会社へ時短で勤務し、その後、大手お掃除会社に勤めてから独立した。

    きめ細やかな仕事ぶりで、お客様から深く信頼されていた母。鍵を預かり、各週・各曜日に決まったお宅へ家事お手伝いや清掃をしに行っていた。お客様が心地よく快適に暮らせるようにと、手間ヒマを惜しまない人だった。

    母は私たち姉弟を本気で愛し、その愛情がまっすぐ伝わるように育ててくれた。
    家事も料理も、手芸や園芸も、本当に何でもそつなくパーフェクトにこなせる器用な母だった。

    今考えると、そんな素晴らしい女性と結婚できた父は、宝くじを当てたくらいラッキーだったはずなのに、なぜ母を『もっと大事にしなかったんだろう?』という疑問が、今でも私の中に残っている。

    母は生前、父との結婚を「本当に失敗だった。」と、よく口にしていた。
    私はそのたびに、「いろいろ大変だったんだね、お母さん。今まで私たちを育ててくれて本当にありがとう。でも、そんな話を娘の私に言われても困るし、娘に言うのはマナー違反だと思うよ。」と返していた。

    だって、父と母が結婚していなければ、私と弟たちはこの世界に生まれてこなかったのだから。

    「お父さんと結婚しなければよかった」
    母はシンプルに、その気持ちだけで言った言葉だったのかもしれない。
    けれど私は逆に、『あなたたちを産まなければよかった。子どもさえいなければ、私の人生、もっとほかの生き方があったはずなのに。』と、言われているような気がして、少し悲しい気持ちになったことを今でもよく覚えている。

    そんな2人だった。わたしの、大好きな両親。

    【ステージ4の父と癌治療】


    父が入院してからは、仕事が休みのたびに病院へ通った。
    看病をし、洗濯物を受け取り、父の様子を見守る。ベッドから何とか起き上がり、車椅子へ移動する父の体を付き添う。

    そんな日々に追われていた当時の私には、恋愛をする、あるいは自分の人生を豊かにするような心の余裕はとうてい持てなかった。

    『人間の身体って、病に冒されてしまったら、こんなにも弱り果てて変化してしまうんだな。』
    そんな現実をすぐ近くで肌で感じる時間を過ごしていた。

    この頃の母はそんな父の姿を見て、「死ぬ時くらいは、痛みが少なく死ねるといいけどね。」という言葉を、本気なのか冗談なのか、日常の会話に混ぜながらよく言っていたような気がする。

    私が見る限り、母は父がステージ4の癌だと告知された瞬間から、色々とあった夫婦関係も、トゲのように心の奥に刺さったままだった過去の出来事も、すべて水に流したようだった。

    “父の最期をきちんと見送ろう”と、静かに覚悟を決めて動いていた時期だったと思う。

    【母を救急車で運んだあの日の出来事】


    その日、仕事が休みだった私は朝から母の仕事を手伝う1日の予定だった。
    なぜなら、不動産へ引き渡す日までに終わらせなければならない依頼現場(大豪邸)があったからだ。

    わたしが一人暮らしの家から母の家に行った時、母は私の顔を見るなりこう言った。
    「最近、なんだか背中の肩甲骨の後ろあたりが、ずっと痛いんだよね。」
    私はてっきり仕事のしすぎだと思い、「筋肉がこわばっているんじゃない?」と返した。
    いつもの軽い親子の会話。
    そのあと、母の仕事仲間でもあるおじちゃんが車で迎えに来てくれて、3人でその現場へと向かった。

    ーーーやっぱり、母の様子が変だった。
    そもそも、朝から体の不調を訴えること自体、とても珍しい出来事だった。
    私は作業をしながらも、内心ずっと母の様子を気にしていた。
    お昼頃、ランチ休憩を取っているときも、母はしきりに「背中が痛い」と言い続けていた。

    薬院大通り駅の近くにあるロイヤルホストに入ったとき、私はスマホですぐに近くの薬局を検索した。
    母の背中の痛みが少しでも良くなるかもしれない。そう思うとじっとしていられず、お昼ご飯をものすごいスピードで流し込んだ。
    「背中に貼る湿布を買ってくるから、ここで待っててね!」と、母とおじちゃんに言い残し、駅近くのドラッグストアへ走った。

    並んでいる商品の中で、金額が1番高い湿布を選んだ。「もう、これしかない!』という、祈るような感覚だった。
    母の背中にすぐに貼りたくて、また走ってロイヤルホストまで戻った。

    母とトイレに入り、背中にその湿布を貼る。
    「これでちょっとは楽になるといいけど。」
    母にそう伝えた。だけど、私の中にどうしても拭えない違和感があった。

    「お母さん、午後からの作業はお客さんに言って、休んだほうが良くない?」
    だけど、責任感が強い母は首を振った。
    「ここで休むわけにはいかないし、私が休んだら、終わらせないといけない日が迫っているこの現場の作業が終わらなくなっちゃう。」

    今振り返れば、あのお客様に無理にでも頭を下げて、「大変申し訳ありませんが他の業者さんへ頼んでもいいでしょうか?母を休ませたいんです!」と、言うべきだったと後悔している。

    そんな予感はあったのに、母が「行く。」と言うので、私たちはロイヤルホストを出て再び現場へ戻ってしまった。

    さすがに、いつも一緒に働いているおじちゃんも“この状況は普通じゃない”と察したようだった。おじちゃんがお客様に交渉してくれて、午後からはお休みをもらえることになった。

    ーーー自宅への帰り道、おじちゃんが運転する車の中で、私たちは母に病院へ行くよう勧めた。
    しかし、その日は週末。
    受け入れてくれる病院が中々見つからず、わたしは必死に携帯で検索しながら探した。

    どこに問い合わせをしても、返ってくる返答は「土日なので、自家用車での緊急性がない症状なら受け入れられない。」という冷たい言葉ばかりだった。
    母がこんなに苦しんでいるのに、緊急性がないなんて。日本の医療体制や法律に対して、「クソだな。」と激しい怒りが湧き上がってきた。

    そんなわたしの表情や、病院とのやり取りを見かねたのか、母は痛みをこらえながら言った。
    「もういいよ。一旦家で寝たら、落ち着くかもしれないから。」
    その時の私は、母から伝えられたその言葉を鵜呑みにしてしまった。
    『横になれば良くなるのかな。』と、そのまま母の部屋まで送り届けた。

    だけど、わたしは一人暮らしの部屋に戻った瞬間、猛烈な不安が襲ってきた。
    そして、いまの母の様子だと、夕ご飯の準備なんて絶対にできないはずだから、何か食べれる食べ物や飲み物を買って届けようと、近所のスーパーを経由して、再び母の家に向かった。

    部屋に入ると、母はまだ「胸が痛い、背中が痛い」と苦しんでいた。
    「お母さん、本当にもう我慢するレベルじゃないよ。救急車を呼ぶからね。お母さんが嫌って言っても、呼ぶから!」
    母はすごく嫌がって断っていたけれど、私の“直感”というか、客観視していた“わたし”が「今、呼ばないと、お母さんが危ないからね!」と、叫んでいた。

    震える手と声で、救急車を呼んだあの日。

    救急隊が到着したとき、母は「歩けるから。」と言いながら自分の足で歩いて、救急車に乗り込んだ。
    しかし、症状を聞いた救急隊員の方は表情を変えて母にこう伝えていた。
    「危険な状態なので、今後、一人で歩くようなことは、もう絶対にしないでください。」

    【緊急入院となった母】


    ーーー近くの病院へ運ばれると、母はすぐに入院となった。
    その時の担当医の話だと、母の心臓はありえないほどの負担がかかっていた状況だった。
    そのお医者さんから言われた言葉が、今も耳に残ってる。

    「今日、この病院に来てくれていなかったら、お母様は明日にはもう命が絶えていたかもしれません。娘さんの判断は、大正解でしたよ。」

    何故かわたしはその時、その言葉に救われたような気がした。『あ〜これでお母さんは助かるな。これからも生きていけるな。』って、そう思った。

    そのまま母は入院し、お盆明けに手術をすることになった。私は、手術中やその後に万が一のことがあっても“病院や先生を訴えない”という同意書にサインをした。

    文章を読んで、署名をしながら『まさか、ステージ4の癌を患っているお父さんよりも早くに、お母さんが死ぬわけないでしょ?笑』と、看護師さんから渡されたボールペンを握る私の心の中はそんな言葉が95%、占めていた。

    だけど、内心は心臓がバクバク鳴りながら、震える手で自分の名前と、その日の日付を書いたことを今でも覚えているーー2024年8月11日



    ♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢


    【ただいまとおでん②】に続きます
    😊

    わたしのこの実体験が、読んでくださったアナタの“心”に少しでも届いていたらうれしいです。
    そして、いま日常的に“当たり前に会えてる人”の存在や、毎日が同じことの“繰り返し”だとしても、何事もなく過ごせているその時間の尊さを大切におもう“キッカケ”となってほしいです。

    そして、いつかこの内容で
    “本”を出したいです
    🫶💓✨
    最後まで読んで頂き、ありがとうございます♡



    ♢♢♢♦︎♢♢♢♦︎♢♢♢


    続きはこちらから💁‍♀️
    【突然の母との別れ】に進みます

    👇


    ♢♢♢♦︎♢♢♢♦︎♢♢♢


    💫TOPの写真は

    母が大好きだったイタリア料理のお店の
    “ナスとミートソースのパスタ
    🍝”です😊🤍


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