
新社会人に伝えたい「したたかさ」の話 ⑨
第8章 師匠との別れ
※本記事は柔道にまつわる物語(自作)を題材に、仕事観に関する考えを展開するものです。柔道初心者の鈴木太郎が指導者である先生とともに、黒帯を目指す過程を描いています。
<物語>
柔道教室に通い始めて5年。ついにこの日がやってきました。鈴木は黒帯への昇段試験に合格したのです。真っ先に先生に結果を伝えるべく教室に向かう鈴木でしたが、その心境は、嬉しさと寂しさが入り混じる複雑なものでした。なぜならば、この柔道教室のルールに従えば、鈴木は教室を卒業しなければならないからです。練習の始まる時間よりかなり早めに教室についた鈴木でしたが、先生はすでに稽古場にきていました。先生は鈴木の顔を見るなり「結果はどうでしたか」と聞きました。
「合格しました」
鈴木は力強く答えました。
「先生のおかげで、なんとかここまで頑張ることができました。本当にありがとうございました」
鈴木がそう言うと、先生は満面の笑みを浮かべました。そして、鈴木は一応、例のルールのことを確認しておくことにしました。
「先生。黒帯に昇段したということは、私は今日で卒業ということになるのでしょうか」
すると先生は、少し寂しそうな表情を浮かべて言いました。
「そうですね。そういうルールですので、鈴木さんは今日で卒業ということになります」
柔道教室に入ったばかりの頃、鈴木は教室の先輩から、例のルールが生まれた理由に関する嘘か本当かわからない話を聞いたことがありました。例えば、先生は何かのトラウマを抱えているとか、そもそも先生は勝負に興味がないとか、そういった類のものでした。結局、どの話も生徒同士の噂の域を出ず真相はよくわからなかったため、この際、鈴木は先生の口から直接その理由を聞いておきたいと思いました。
「先生、卒業にあたり一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
すると先生は「もちろん」と返事をしました。
「なぜこの教室には黒帯になると卒業するというルールができたのでしょうか」。
すると先生は、黙って教室の隅にある小さなテーブルセットの方に手をやり、鈴木にそこに座るよう促しました。そして、鈴木が椅子に腰を下ろすと、先生は教室の入り口の方を見つめながらゆっくりと話し始めました。
「やはりそこが気になりますよね。鈴木さんと同じように理由を聞いてくる生徒さんはこれまで何人かいらっしゃいました。なかには、慣れ親しんだこの教室になんとか残りたいと頼んでくる方もおられましたが、私は丁重にお断りしてきました」
先生はそこまで話すと、視線をいったん鈴木の方に向けました。
「私があのルールを設けたのは、弟子がある程度育ったら、師匠は弟子から距離をおくべきだと考えたからです。それは例えば、子どもが自転車に乗る練習をするのと似ています。最初は、親が自転車の後ろを手で持って介助しないとバランスを崩してこけそうになりますが、根気強く練習を繰り返していれば、どこかのタイミングで介助なしで一人で乗れるようになります。そのレベルに到達すれば、逆に親の介助は邪魔になるのです。親心からすると、まだまだ心配で手を添えたくなりますが、どこかで手を離さなければ子どもは親が走る速度を超えて、自転車をこぐことはできません。このことは柔道も同じです。弟子がずっと同じ師匠について稽古に励むことはプラスに作用する面もありますが、一方で師匠の知る世界観を突き抜けて成長していくのは難しくなります。オリンピックを目指すような選手の指導は、当然、私には無理です。それはオリンピックという世界観を肌で知っている指導者でなければ難しいのです。もし鈴木さんが、これからも柔道を続けていきたいと考えておられるなら、私はとてもうれしいです。ただ、誰かの指導を受けながらとなると、それは私ではない方がいいでしょう」
先生はそこまで述べるとしばらく沈黙しました。
師匠との別れ
ビジネスシーンにおいても、別れは日常的やってきます。例えば、人事異動や退職はその代表例でしょう。とりわけ、自分がずっと頼りにしていた上司や先輩が職場を去る時は、残される人は不安になるものです。ただ、そうした別れは、決して負の側面ばかりではありません。なぜならば、必ずまた新しい出会いがあるからです。
職場には実に様々な人がいます。なかには、困った人もいますが、大抵の場合、どんな人でも秀でたところはあります。ですので、日々、少しだけ意識して周囲の人たちの秀でた部分を観察してみることは重要です。そして、できることならば、良いと思う考え方や行動を積極的に取り入れていきましょう。そうすることで、最終的にその人と離れることになったとしても、あなたの心のなかには師匠のイメージは生き続けます。何かに迷った時や困難な状況に直面した時に、ふと、あの人(師匠)ならどう考え判断しただろうか、と思いを巡らしてみることは、時にあなたを解決の糸口に導いてくれるはずです。