
【最終回】アップルパイになりたいりんごのお話 #10
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「信じられない! どうしてそんなことがあるもんか!」
りんごたちの話をきいていたじゃがいもが、声を張りあげた。
ゆめさんは、羽を広げて、何度も何度も、りんごに風をおくった。
「あきらめないで! あなたはサンふじなんだから、保存期間はながいんでしょう? タナカの味覚は、薬を飲まなくなればもとに戻るはず。だから、まだアップルパイになれないと決まったわけじゃないの!」
その夜、りんごはほとんど眠ることができなかった。
いつからか、鳥籠を抜けだして居間から和室へやって来ていたゆめさんが、そっと障子を開け、窓の外を見つめていた。
そしてふと、りんごは小鳥の先に、あのクラブアップルが、月のやさしい光をまっすぐに受けとめているのを見つけた。
雪が降り積もったクリスマス・ツリーを飾るそのうつくしさに、彼女は呼吸を止めた。
なんてきれいなりんごなの。
もはやりんごにとって、クラブアップルは恐怖の対象などではなかった。
りんごは、ゆめさんに声をかけた。
「お願いがあるの」
ゆめさんは、ダンボールの中に着地し、そっと上嘴でりんごの実に触れた。もはや嘴をはじきかえすことさえできなくなっていた柔らかすぎるりんごの果肉に、ゆめさんは答えた。
「なに? なんでもいうのよ。遠慮なんかしたら、許さないんだから」
夜も深まったころ、ゆめさんは約束通り、雀たちを連れてもう一度、りんごのもとへやってきた。りんごがダンボールからでるのを手伝うため、ゆめさんはくちばしを駆使して、穴をかじった。
例年訪れる季節の、ひとつの役目を終えたクリスマス・ソングも、町からすがたを消す準備をはじめていた。りんごは、じゃがいもの姿を目に焼き付けるように、彼を見つめた。
「じゃがいもに逢えてよかった」
りんごは微笑んだ。
「ほんとうに、逝くのか?」
じゃがいもは、りんごの背中を押すことも、引きとめることも、どちらもしなかった。
「わたし、まだ見たい景色があるの。知りたい景色が。だから、その場所まで進まなきゃならないの。残された力で。転がってでも」
「……オレはさ、いままで転がりたいなんて思ったこともなかったよ。だってオレは、自分のこのなめらかじゃない質感とでこぼこのかたちが気にいっているんだから。でも、なんだか妙な感じだよ」
「どうしたの?」
「いままでずっと、オレは、この毒もふくめて、じゃがいもとして生きてきた」
「うん」
「けれど、りんごといっしょに転がることができるなら、すこしくらい実をけずって、丸くなってもいいような気がしているんだ」
彼女は、その言葉だけで、もう十分だと思った。そして、彼に別れを告げた。
「メリー・クリスマス」
ゆめさんと雀たちは、そっとりんごを横にかたむけて転がし、くちばしを使って窓のかぎを開けると、とうとう和室から外へでた。りんごを両側からたがいの羽で支えあい、彼女をどうにか玄関先のクリスマス・ツリーの下に置きおえたのだった。雪がそっと、りんごに触れた。
「ありがとう」
りんごは、自分がこの世界に別れを告げようとしているとき、ありがとう、といえる相手がいること、それがどんなにしあわせなことなのか感じていた。
そして、たくさんのクラブアップルたちが、りんごの最期の門出を、ねぎらいの言葉とこころからの拍手をもって迎えた。
だれも、なにもきくものはいなかった。
きょうは、クリスマスだったのだから。
りんごの中にはもはや、「何かになりたい」と願う自分のすがたはなかった。
彼女は、彼女がりんごで「ありつづけることができたこと」ただそのことがうれしかった。
それは月が地上を照らし、実を転がしてゆくにふさわしい場所のことを、そっと教えてくれたからかもしれない。
彼女は、たとえ偶然たどりついた夜の空が、寝返りをうてないほど窮屈だったとしても、その暗闇にさえ希望を見失わないりんごでいたかったのだ。
それにしても、ずいぶん長いあいだ、呼吸をしてきたものだ、とりんごは思った。
いつかタナカさんの咳がよくなって、苦しまず呼吸ができるようになって欲しい、と彼女は願う。
冬眠から目覚めたマメコバチが、春とともに授粉を終え、夏の日差しが過ぎ去れば、また季節が巡ってくる。針葉樹の葉が、たった一地点からしか見ることのできない星空をかたち作る。
わたしはまた、りんごに生まれたい。
彼女がしずかに最期の呼吸を終えようとしていたそのとき、見上げていたのは、たしかに故郷の、あの空だったのかもしれない。
(おわり)