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医療と社会をつなぐ思考(3):「医者の不養生」を、自己責任論で終わらせないために

    前回は、
    健康はどこまで「自己責任」なのか、
    という問いについて考えました。

    人は、自分の意思だけで
    健康行動を選んでいるわけではありません。

    食事、運動、禁煙、服薬、受診。

    そうした行動は、
    本人の意識や努力だけでなく、
    仕事、家族、経済状況、地域環境、医療へのアクセス、
    そして社会的な支援のあり方によっても形づくられています。

    だからこそ、
    健康を「自己責任」だけで語ってしまうと、
    その人が置かれている背景が見えにくくなってしまう。

    それが、前回の主な問題意識でした。

    今回は、
    その視点を少し反転させてみたいと思います。

    患者さんの健康行動だけでなく、
    医療者自身の健康や働き方もまた、
    本当に「自己責任」だけで語れるのでしょうか。

    その入口として考えたいのが、

    「医者の不養生」

    という言葉です。

    「医者の不養生」という、
    少し笑えない言葉

    「医者の不養生」という言葉があります。

    人には健康を説く医者自身が、
    自分の健康には十分に気を配っていない。

    そのような意味で使われる言葉です。

    少し自嘲的で、
    どこか笑い話のようにも聞こえます。

    「医者なのに、ちゃんと寝ていない」
    「医者なのに、食生活が乱れている」
    「医者なのに、運動していない」
    「医者なのに、自分の健診結果を放置している」

    こうした話は、
    医療現場ではそれほど珍しくないかもしれません。

    むしろ、
    忙しい医療者同士の間では、
    ある種の共感や冗談として語られることすらあります。

    しかし、
    本当にこれは笑い話で済ませてよいのでしょうか。

    医療者が自分の健康を後回しにしている。

    その背景にあるのは、
    単なる自己管理不足なのでしょうか。

    あるいは、
    個人の意識や生活習慣の問題として
    片づけてよいのでしょうか。

    私は、
    そうではないと思っています。

    「医者の不養生」という言葉の背後には、
    医療者個人の問題だけではなく、
    医療現場の構造や、
    社会全体の医療への期待が深く関わっているように思います。

    医療者は、健康に詳しい。
    だから健康でいられる、とは限らない。

    医療者は、健康に関する知識を持っています。

    たとえば、

    • 睡眠が大切なこと

    • 食事が健康に影響すること

    • 運動が必要なこと

    • 過度なストレスが心身に負担をかけること

    • 長時間労働が健康を損なうこと

    • 休息が必要なこと

    これらを、医療者はよく知っています。

    患者さんにも、
    日々その大切さを伝えています。

    それにもかかわらず、
    医療者自身が十分に休めない。
    食事をゆっくり取れない。
    運動する時間がない。
    自分の受診や健診を後回しにしてしまう。

    そうしたことが起きます。

    ここには、前回扱った、
    「分かっているのに、できない」という問題と、
    よく似た構造があります。

    健康に良いことを知っていることと、
    それを実行できることは同じではありません。

    知識があっても、
    時間がない。

    必要性を理解していても、
    代わりがいない。

    休むべきだと分かっていても、
    目の前の患者さんがいる。

    自分の限界を感じていても、
    チームや病院や地域医療への責任を考えると、
    簡単には離れられない。

    そのとき、
    医療者に対して、
    「医者なのだから、もっと自分で健康管理すべきだ」
    と言うだけでよいのでしょうか。

    もちろん、
    医療者自身が自分の健康に責任を持つことは大切です。

    しかし、
    それだけでは不十分です。

    なぜなら、
    医療者の健康行動もまた、
    働く環境や制度の中で形づくられているからです。

    忙しさは、
    個人の努力で解決できるのか

    医療現場の忙しさは、
    しばしば個人の努力で乗り越えられてきました。

    もう少し頑張る。
    もう少し残る。
    もう少し早く来る。
    休日に少し仕事をする。
    夜間も対応する。
    緊急時には駆けつける。

    患者さんのために、
    同僚のために、
    病院のために、
    地域のために。

    こうした姿勢によって、
    実際に支えられてきた医療はあります。

    私自身も、
    かつて臨床現場にいたとき、
    そのような医療者の責任感や献身に何度も助けられてきました。

    そして同時に、
    自分自身もその文化の中にいました。

    医療現場には、
    目の前の患者さんを何とかしなければならない、
    という強い現実があります。

    予定通りにいかないことも多い。
    急変が起きる。
    緊急手術が入る。
    夜間や休日にも判断が必要になる。
    家に帰った後も、患者さんのことが気になる。

    そうした状況の中で、
    「ここまでが勤務時間なので帰ります」
    と簡単には言えない場面があります。

    その現実を無視して、
    医療者にだけ働き方の改善を求めることもできません。

    一方で、
    その責任感に依存し続けることも、
    やはり持続可能ではありません。

    個人の善意と努力に依存した仕組みは、
    いつかどこかで限界を迎えます。

    そしてその限界は、
    医療者自身の健康だけでなく、
    医療安全や患者さんのケアの質にも影響します。

    医療者を守ることは、
    患者さんを守ること

    医療者の働き方を考えるとき、
    それを「医療者のためだけの問題」と捉えると、
    議論が少し狭くなってしまいます。

    医療者が休めるようにすること。
    長時間労働を減らすこと。
    心身の健康を守ること。

    これらはもちろん、
    医療者自身にとって重要です。

    しかし、
    それだけではありません。

    疲弊した状態で医療を続けることは、
    患者さんにとってもリスクになります。

    十分な休息が取れない中での判断。
    過剰な業務量の中での説明。
    人手不足の中での観察。
    余裕のない中でのチーム・コミュニケーション。

    こうしたことは、
    医療安全や医療の質に影響します。

    医療は、
    医療者の集中力、判断力、共感力、コミュニケーション、
    そしてチームの連携によって支えられています。

    それらはすべて、
    医療者の心身の余裕と無関係ではありません。

    医療者を守ることは、
    患者さんを守ることでもあります。

    医療者の健康は、
    医療提供体制の一部です。

    この視点が、
    もっと共有されてもよいのではないかと思います。

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    医療者の健康は、医療提供体制の一部である
    医療者の健康や働き方は、個人の自己管理だけでなく、
    医療提供体制や社会の期待と相互に関係している。

    「献身」と
    「持続可能性」とを
    対立させない

    ここで難しいのは、
    医療者の献身をどう捉えるかです。

    医療者の献身は、
    否定されるべきものではありません。

    患者さんのために何とかしたい。
    困っている人を助けたい。
    目の前の命を救いたい。

    そうした思いは、
    医療の大切な原動力です。

    私自身もそうですし、
    そのような思いを持つ医療者を尊敬しています。

    しかし、
    献身があることと、
    献身に依存した仕組みを続けてよいことは、
    同じではありません。

    個人の使命感がなければ回らない医療。
    誰かが無理をしなければ成り立たないチーム。
    若手の長時間労働を前提とした教育。
    家庭や自分の健康を犠牲にすることを暗黙に求める文化。

    それらを、
    「医療者なのだから当然」
    「昔からそうだった」
    「皆そうやって成長してきた」
    という言葉で支え続けることには、
    大きな危うさがあります。

    献身は大切です。

    しかし、
    献身を使い潰してはいけない。

    医療者の責任感を大切にするからこそ、
    その責任感だけに依存しない仕組みが必要だと思います。

    医師の働き方改革を、どう見るか

    日本では、
    医師の働き方改革が進められてきました。

    この言葉を聞くと、
    まず思い浮かぶのは、
    労働時間の上限規制かもしれません。

    もちろん、
    労働時間を見える化し、
    過重労働を減らすことは重要です。

    しかし、
    医師の働き方改革は、
    単に労働時間を短くするだけの話ではないと思います。

    本質的には、

    • 医療を誰が、どのように、どこまで担うのか

    • 地域に必要な医療を、どのような体制で支えるのか

    • 専門職間で役割をどう分担するのか

    • 病院間、地域間で機能をどう分けるのか

    • 医療者の教育と安全をどう両立するのか

    • 患者さんや社会は、医療にどのような期待を持つのか

    そうした問いとつながっています。

    つまり、
    医師の働き方改革は、
    医師個人の勤務時間の問題であると同時に、
    医療提供体制そのものの問題でもあります。

    ここでもやはり、
    個人の問題と社会の問題は切り離せません。

    「いつでも、どこでも、
     すぐに、最高の医療」
    を求める社会

    医療現場の忙しさは、
    医療者側だけで決まっているわけではありません。

    社会の側にも、
    医療への強い期待があります。

    たとえば、

    • いつでも診てほしい

    • すぐに検査してほしい

    • 専門医に診てほしい

    • 夜間でも休日でも対応してほしい

    • できるだけ近くの病院で診てほしい

    • 高度な医療を受けたい

    • 説明も十分にしてほしい

    • 待ち時間は短くしてほしい

    これらの希望は、
    一つひとつを見れば、
    どれも理解できます。

    自分や家族が患者の立場になれば、
    そう思うのは自然です。

    しかし、
    それらすべてを同時に満たそうとすると、
    医療現場には大きな負荷がかかります。

    医療資源には限りがあります。

    医療やケアは、
    多くの人々によって支えられています。

    たとえば、

    • 医師

    • 看護師

    • 薬剤師

    • 臨床工学技士

    • 診療放射線技師

    • リハビリテーション職

    • 管理栄養士

    • 医療ソーシャルワーカー

    • 事務職員

    • 救急隊

    • 介護職

    こうした人々の数も、
    時間も、
    体力も、
    無限ではありません。

    それにもかかわらず、
    社会全体が、
    医療はいつでもそこにあるもの、
    必要なときに当然受けられるもの、
    と考え続けるなら、
    その負担はどこかに集中します。

    多くの場合、
    その負担は現場の医療者に向かいます。

    個人の努力から、構造の問いへ

    「医者の不養生」という言葉は、
    医療者個人の矛盾を突く言葉のように見えます。

    人には健康を説くのに、
    自分は健康でいられていない。

    たしかに、
    そこには個人の反省も必要かもしれません。

    しかし、
    そこで考えを止めてしまうと、
    本質を見誤る可能性があります。

    そこで必要なのは、
    問いを少し変えることです。

    • なぜ、医療者は自分の健康を後回しにしなければならないのか

    • なぜ、休むことに罪悪感を覚えるのか

    • なぜ、若手の長時間労働が教育と結びつけられてきたのか

    • なぜ、人手不足を個人の頑張りで埋める構造が続いてきたのか

    • なぜ、患者さんや社会の期待と医療資源の現実が、
      十分に共有されていないのか

    こうした問いは、
    個人の努力だけでは解けません。

    そこには、たとえば、

    • 病院のマネージメント

    • 診療報酬

    • 地域医療構想

    • 専門医制度

    • 医師偏在

    • タスク・シフト/シェア

    • 医療安全

    • 患者さんの受療行動

    • 社会の医療観

    といった多くの要素が絡み合っています。

    だからこそ、
    「医者の不養生」を、
    単なる笑い話や自虐で終わらせてはいけないのだと思います。

    それは、
    医療者の健康を通じて、
    医療提供体制と社会のあり方を問い直す入口でもあります。

    医療者もまた、社会の中で働いている

    医療者は、
    専門職です。

    高度な知識と技術を持ち、
    患者さんに対して責任を負います。

    しかし同時に、
    医療者もまた一人の人間です。

    睡眠が必要です。
    食事が必要です。
    休息が必要です。
    家族や生活があります。
    体調を崩すこともあります。
    不安になることもあります。
    燃え尽きることもあります。

    医療者である前に、
    一人の生活者でもあります。

    この当たり前のことが、
    医療現場では時に見えにくくなります。

    「医療者なのだから」
    「患者さんのためだから」
    「責任があるから」

    そうした言葉の中で、
    医療者自身の生活や健康が後回しにされることがあります。

    しかし、
    医療者の人間性を削りながら成り立つ医療は、
    長期的には持続しません。

    医療者が人間らしく働けること。

    それは、
    患者さんに人間らしい医療を届けるためにも必要です。

    「医者の不養生」を、
    自己責任論で終わらせないために

    「医者の不養生」という言葉には、
    自分のことを後回しにしてでも患者さんを支える、
    という医療者の姿が重なって見えることがあります。

    その姿勢は、
    尊いものでもあります。

    しかし、
    それを個人の責任感や自己管理の問題としてだけ捉えてしまうと、
    本来見なければならない構造が見えなくなります。

    医療者の不養生を、
    個人の不注意としてだけ捉えるのではなく、
    医療の持続可能性を考えるためのシグナルとして捉える。

    その視点が必要なのだと思います。

    「医者の不養生」を、
    自己責任論だけで終わらせない。

    それは、
    医療者を甘やかすということではありません。

    医療を守るために、
    医療者の健康を守る。

    そういう、当たり前の話なのだと思います。

    医療と社会をつなぐ問いとして

    ここまで考えてくると、
    「医者の不養生」は、
    単に医師個人の生活習慣の問題ではありません。

    それは、
    医療者の健康、
    医療提供体制、
    患者さんの期待、
    地域医療、
    制度設計、
    そして社会の医療観が交わる問いです。

    医療者は、
    どこまで頑張るべきなのか。

    社会は、
    医療にどこまで求めるのか。

    病院は、
    医療者をどのように守るのか。

    制度は、
    持続可能な医療をどう支えるのか。

    患者さんと医療者は、
    医療資源の限界をどう共有するのか。

    これらの問いに、
    簡単な答えはありません。

    しかし、
    少なくとも、
    医療者の自己犠牲を前提にした医療を、
    これからも当然のものとして続けることは難しい。

    そう考える必要がある時代に来ているのだと思います。

    「医者の不養生」を、
    個人の笑い話で終わらせず、
    医療と社会のあり方を考える入口にする。

    それもまた、
    医療と社会をつなぐ思考の一つなのだと思います。

    次回は、
    「家族が支える医療」は、
    これからも成り立つのか、
    という問いについて考えてみたいと思います。


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