
医療と社会をつなぐ思考(2):健康は、どこまで「自己責任」なのか
前回は、
医療現場で起きている問題の多くが、
医療現場の中だけでは完結していない、
という話をしました。
病気そのものを診ること。
病気を持つ人を見ること。
その人を取り巻く家族、生活、地域、制度、社会を見ること。
医療を少し広い視野で捉え直すためには、
こうした視点の広がりが必要なのではないか。
それが、
このシリーズ「医療と社会をつなぐ思考」の出発点でした。
今回は、その中でも特に身近で、
同時にとても難しい問いを考えてみたいと思います。
それは、
健康は、どこまで「自己責任」なのか
という問いです。
「分かっているのに、できない」
という現実
医療者は、患者さんにさまざまな生活指導を行います。
食事に気をつけましょう。
運動しましょう。
禁煙しましょう。
お酒は控えめにしましょう。
薬は忘れずに飲みましょう。
定期的に受診しましょう。
これらは、医学的にはとても大切な助言です。
高血圧、糖尿病、脂質異常症、慢性腎臓病、心血管疾患、脳血管疾患。
多くの病気において、
生活習慣や受診行動は、
発症や進行、再発予防に深く関わっています。
だからこそ、
医療者が生活習慣の改善を伝えることには意味があります。
しかし、現実には、
「分かっているのに、できない」
ということが少なくありません。
健康に良い食事が大切だと分かっていても、
仕事が忙しく、安くて早く食べられるものに頼らざるを得ない。運動が必要だと分かっていても、
長時間労働や介護、子育てで、
自分のための時間を確保できない。定期受診が必要だと分かっていても、
仕事を休みにくい。薬を飲まなければならないと分かっていても、
生活が不安定で、服薬の優先順位が下がってしまう。禁煙したほうがよいと分かっていても、
強いストレスや孤独の中で、たばこが数少ない
ストレス対処行動(つらさをやり過ごすための手段)になっている。
そのとき、
私たちはどこまで、
「本人の意識が低い」
「自己管理ができていない」
と言えるのでしょうか。
「自己責任」は、
分かりやすい。
だからこそ危うい。
「自己責任」という言葉には、
ある種の分かりやすさがあります。
健康診断で異常を指摘されたのに放置した。
医師から何度も説明されたのに生活を変えなかった。
薬を飲まなかった。
受診を中断した。
そうした場面を見ると、
本人の選択や行動が健康に影響したように見えることがあります。
そして実際に、
本人の選択や行動が重要であることは否定できません。
健康は、完全に社会だけで決まるものではありません。
何を食べるか。
どれくらい動くか。
たばこを吸うか。
お酒をどれくらい飲むか。
受診するか。
治療を続けるか。
こうした行動には、本人の意思決定が関わっています。
だから、
「自己責任」という見方がまったく無意味だ、
というわけではありません。
しかし、この言葉には危うさもあります。
一度「自己責任」と言ってしまうと、
そこで考えることを止めてしまいやすいからです。
なぜ、その人は健診後に受診できなかったのか。
なぜ、生活を変えることが難しかったのか。
なぜ、薬を飲み続けることができなかったのか。
なぜ、医療から離れてしまったのか。
本来であれば問うべき背景が、
「自己責任」という一言で見えにくくなってしまうことがあります。
さらに言えば、
この言葉は時に冷酷です。
健康を損なった人に対して、
「それはあなたの選択の結果だ」
と言い切ってしまうとき、
その人が置かれていた生活、
仕事、家庭、孤独、経済状況、地域環境、
そして支援につながれなかった事情は、
簡単に切り捨てられてしまいます。
もちろん、
本人の選択や努力をすべて否定する必要はありません。
しかし、
本人の選択の背後にある条件を見ずに、
結果だけを見て、
「自己責任」と片づけてしまうこと。
そこには、大きな落とし穴があります。
分かりやすい言葉ほど、
複雑な現実を単純化します。
そして、単純化された現実の中では、
本当に支援が必要な人ほど、
見えにくくなってしまうことがあります。
選択肢は、
平等に与えられているのか
健康に良い選択をしましょう。
この言葉は、一見すると公平です。
誰に対しても同じように言えるからです。
しかし、本当にすべての人が、
同じように健康に良い選択をできる環境にいるのでしょうか。
健康的な食事を選べるだけの経済的余裕があるか。
安心して歩ける地域環境があるか。
運動する時間があるか。
健康情報にアクセスできる環境にあるか。
仕事を休んで受診できる職場環境があるか。
相談できる家族や友人がいるか。
困ったときに支援につながれるか。
こうした条件は、人によって大きく異なります。
同じ「食事に気をつける」でも、
その実行可能性は人によって違います。
同じ「運動する」でも、
そのために必要な時間、場所、
安全性、体力、心理的余裕は異なります。
同じ「受診する」でも、
交通手段、仕事、家族の事情、
医療費への不安によって、
そのハードルは大きく変わります。
つまり、
健康に良い行動を選ぶ力は、
本人の意志だけで決まっているわけではありません。
人は、与えられた環境の中で選択しています。
そして、その環境は必ずしも平等ではありません。

健康行動は、本人の意思だけでなく、生活環境や社会的条件の中で形づくられる。
「できない理由」を
責めるのではなく、
理解する
医療現場では、
患者さんの行動に対して、
もどかしさや戸惑いを感じている場面を
目にすることも少なくありません。
なぜ、薬を飲んでくれないのだろう。
なぜ、受診を続けてくれないのだろう。
なぜ、生活習慣を変えてくれないのだろう。
なぜ、もっと早く来てくれなかったのだろう。
その気持ちは、医療者として自然なものだと思います。
医療者は、
患者さんに良くなってほしいと思っているからこそ、
もどかしさを感じます。
しかし、そこで一歩立ち止まって、
問いの向きを少し変えてみることが大切なのかもしれません。
なぜ、この人は薬を飲めなかったのだろう。
なぜ、受診を続けることが難しかったのだろう。
なぜ、生活を変える余裕がなかったのだろう。
なぜ、もっと早く医療につながれなかったのだろう。
この問いの違いは、小さいようで大きいと思います。
前者は、
本人の行動を責める問いになりやすい。
後者は、
本人の行動の背景を理解しようとする問いです。
医療者に必要なのは、
患者さんの行動を免罪することではありません。
しかし、
行動の背後にある生活や社会的背景を理解せずに、
「自己責任」とだけ捉えてしまうと、
本当に必要な支援が見えなくなってしまいます。
健康の社会的決定要因
という見方
公衆衛生や社会疫学では、
人々の健康が、
医療や個人の行動だけでなく、
社会的な条件によっても左右されることが重視されます。
たとえば、
所得、教育、雇用、住環境、地域環境、
社会的つながり、差別、孤独、医療アクセス。
こうした要因は、
人の健康に深く関わっています。
これらは、
健康の社会的決定要因
(Social Determinants of Health:SDH / SDoH)
と呼ばれます。
この考え方は、
「個人の努力は意味がない」
という話ではありません。
むしろ逆です。
個人が健康に良い選択をしやすくなるためには、
それを支える環境が必要だ、
という考え方です。
禁煙したい人が禁煙できる環境。
運動したい人が運動できる地域。
治療を続けたい人が受診を続けられる制度。
健康情報を得たい人が、
分かりやすい情報にアクセスできる仕組み。
孤立した人が、必要な支援につながれる地域。
そうした環境があって初めて、
個人の努力は実を結びやすくなります。
つまり、
個人の責任と社会の責任は、
対立するものではありません。
個人がより良い選択をできるように、
社会が条件を整える。
その両方を考えることが重要なのだと思います。
一方で、
「自己責任ではない」
と言い切ることも危うい
一方で、
健康はすべて社会のせいである、
と言い切ることにも注意が必要です。
それはそれで、
個人の主体性や努力を軽んじてしまう可能性があります。
実際に、
生活を変えようと努力している人がいます。
治療を続けようと頑張っている人がいます。
禁煙に何度も挑戦している人がいます。
限られた環境の中で、
何とか自分や家族の健康を守ろうとしている人がいます。
そうした努力を、
「どうせ社会で決まる」と言ってしまうのは、
やはり違うと思います。
だからこそ、
大切なのは二分法ではありません。
自己責任か、社会責任か。
個人か、社会か。
意識の問題か、構造の問題か。
そのどちらか一方に決めつけるのではなく、
両方を見ながら考える必要があります。
健康には、個人の選択が関わる。
しかし、その選択は社会的な条件の中で行われている。
この二つを同時に見ることが、
医療と社会をつなぐ思考なのだと思います。
医療者にできること
では、医療者は何ができるのでしょうか。
社会全体をすぐに変えることはできません。
診察室の中で、
所得格差や雇用環境、地域の孤立を
一気に解決することもできません。
だからといって、
何もできないわけではありません。
まずできることは、
患者さんの行動を、
単に「できていない」と見るのではなく、
「なぜ難しいのか」と考えることです。
薬を飲めない背景に、
認知機能の問題があるのか。
経済的な問題があるのか。
副作用への不安があるのか。
説明が伝わっていなかったのか。
生活の中で薬を飲むタイミングが作れていないのか。
家族や支援者の協力が得られないのか。
このように考えるだけで、
関わり方は変わります。
次に、
必要な支援につなぐことです。
看護師、薬剤師、管理栄養士、
医療ソーシャルワーカー、介護支援専門員、
行政、地域包括支援センター、地域の支援団体。
医療者だけで抱え込むのではなく、
多職種や地域と連携することで、
患者さんの生活に近い支援につながることがあります。
そしてもう一つは、
現場で感じた違和感を、
制度や社会の課題として言葉にすることです。
なぜ、この人は必要な支援につながれなかったのか。
なぜ、この制度はあるのに使いにくいのか。
なぜ、医療と福祉の間でこぼれ落ちる人がいるのか。
なぜ、予防や早期介入が重要だと分かっていても、
そこに十分な資源が向かわないのか。
こうした問いを持つことは、
医療者が社会を考えるための第一歩です。
責めるためではなく、
支えるために
「健康は自己責任なのか」という問いは、
誰かを責めるための問いではないと思います。
患者さんを責めるためでもありません。
医療者を責めるためでもありません。
社会を責めるためだけの問いでもありません。
本当に考えたいのは、
人が健康に生きるために、
どのような条件が必要なのか、
ということです。
本人の努力が届くようにするには、
どのような環境が必要なのか。
医療者の助言が実際の行動につながるには、
どのような支援が必要なのか。
病気になる前に、
あるいは病気が重くなる前に、
どのような社会的な仕組みが必要なのか。
「自己責任」という言葉は、
問題を分かりやすく見せてくれます。
しかし、その分かりやすさの中で、
見えなくなるものがあります。
人の健康は、
本人の意思だけでも、
医療だけでも、
社会だけでも決まりません。
その「あいだ」にあります。
だからこそ、
医療と社会をつなぐ視点が必要なのだと思います。
健康を、
もう少し広く考える
健康について考えるとき、
私たちはつい、
個人の行動に目を向けます。
それは大切なことです。
しかし、
その行動がどのような生活の中で生まれているのか。
その生活がどのような地域や制度の中に置かれているのか。
その制度や社会が、
人々の健康にどのような選択肢を与え、
あるいは奪っているのか。
そこまで視野を広げて考えることが、
これからの医療には求められているのではないでしょうか。
健康は、本人の努力だけで決まるものではありません。
しかし、だからこそ、
本人の努力が届くような環境をどう整えるかが問われます。
その意味で、
「健康はどこまで自己責任なのか」という問いは、
個人を責める問いではなく、
医療と社会のあり方を問い直すための入り口なのだと思います。
次回は、
医療者自身の働き方を取り上げます。
「医者の不養生」を、
個人の美談や根性論ではなく、
医療提供体制や社会の構造から考えてみたいと思います。