
医療と社会をつなぐ思考(4):「家族が支える医療」は、これからも成り立つのか
前回は、
「医者の不養生」を、
自己責任論だけで終わらせないためには
どうすればよいのか、
という問いについて考えました。
医療者自身の健康や働き方も、
単に本人の自己管理だけで
決まるわけではありません。
医療現場の忙しさ、
医療提供体制、
患者さんや社会の期待、
制度や診療報酬、
地域医療の構造。
そうしたものが複雑に関わる中で、
医療者の働き方は形づくられています。
つまり、
医療者の健康や働き方もまた、
社会の中にある問題なのだと思います。
今回は、
さらに別の角度から、
医療と社会の関係を考えてみたいと思います。
それは、
「家族が支える医療」は、これからも成り立つのか
という問いです。
医療は、思っている以上に
「家族」を前提にしている
医療現場では、
患者さん本人だけでなく、
家族と話をする場面が多くあります。
入院時の説明。
手術や治療方針の説明。
病状が悪化したときの連絡。
退院後の生活調整。
介護サービスの導入。
認知症や意識障害がある場合の意思決定支援。
人生の最終段階における治療方針の相談。
こうした場面で、
医療者はしばしば家族の存在を前提にしています。
もちろん、
それは悪いことばかりではありません。
ご家族は、
患者さんの生活をよく知っています。
これまでの価値観や希望を知っていることもあります。
本人がうまく説明できないことを補ってくれることもあります。
退院後の生活を支える重要な存在でもあります。
医療者にとっても、
ご家族は患者さんを理解し、
支援を考えるうえで大切なパートナーです。
しかし、
ここで一度立ち止まる必要があります。
私たちは、
家族がいることを、
あまりにも当然の前提にしていないでしょうか。
「ご家族はいらっしゃいますか?」
という問い
医療現場で、
何気なく使われる問いがあります。
「ご家族はいらっしゃいますか?」
「ご家族に説明できますか?」
「退院後は、どなたが見てくださいますか?」
「何かあったときに連絡できる方はいますか?」
これらは、
医療者にとっては自然な確認です。
患者さんを安全に支えるために必要な情報でもあります。
しかし、
患者さんによっては、
この問い自体が重く響くことがあります。
家族がいない人。
家族はいても疎遠な人。
家族に頼りたくない人。
家族に頼れない事情がある人。
家族に迷惑をかけたくないと思っている人。
家族関係の中で傷ついてきた人。
「家族がいますか」という問いは、
単なる事務的確認に見えて、
その人の人生や孤独、
関係性の複雑さに触れる問いでもあります。
そして、家族がいない、
あるいは頼れないと分かった瞬間に、
医療や介護の調整が急に難しくなることがあります。
そのとき、
問題は本当に、
その人に家族がいないことなのでしょうか。
家族がいないと回りにくい
「仕組み」の側には、
問題はないのでしょうか。
家族は、医療制度の
「見えない担い手」になってきた
日本の医療や介護は、長い間、
家族の存在に支えられてきました。
病院への付き添い。
入院時の手続き。
医師からの説明への同席。
退院後の見守り。
服薬管理。
食事や生活の支援。
介護サービスの調整。
金銭管理。
緊急時の連絡。
看取りの場面での意思決定。
これらの多くは、
制度上は明確に「家族の仕事」とされていなくても、
実際には家族が担ってきました。
家族は、
医療制度の外側にいるように見えて、
実は医療や介護を成り立たせる重要な担い手でもあります。
しかし、
その負担は必ずしも見えやすくありません。
医療者から見ると、
「ご家族が対応してくださっている」
という一言で済んでしまうことがあります。
けれども、
その裏側には、
仕事を休むこと、
遠方から通うこと、
介護と仕事を両立すること、
経済的負担を抱えること、
精神的に追い詰められることが含まれます。
家族が支える医療は、
しばしば家族の負担を前提にして成り立っています。
そのことを、
私たちはどこまで意識できているでしょうか。
家族の形は、
すでに変わっている
かつては、
家族が患者さんを支えることが、
比較的自然に期待できた時代があったのかもしれません。
もちろん、
過去の家族が常に理想的だったわけではありません。
家族の中にも、
負担や葛藤、不平等、沈黙はありました。
それでも、
多世代同居や近居が比較的多く、
家族が生活支援や意思決定に関わることが、
今より当然視されていた時代はあったのだと思います。
しかし、
現在は状況が大きく変わっています。
単身世帯の増加。
未婚率の上昇。
子どものいない高齢者の増加。
家族の小規模化。
地域移動による親族関係の距離。
共働き世帯の増加。
介護を担う家族自身の高齢化。
家族関係の希薄化。
これらの変化の中で、
「家族が支える」ことを当然の前提にするのは、
少しずつ難しくなっています。
家族がいない人だけの問題ではありません。
家族がいても、
その家族もまた仕事をしている。
家族がいても、
遠方に住んでいる。
家族がいても、
介護を担える健康状態ではない。
家族がいても、
経済的にも精神的にも余裕がない。
家族がいることと、
家族が支えられることは同じではありません。
「家族がいるから大丈夫」
とは限らない
家族がいる場合でも、
支援が簡単になるとは限りません。
むしろ、
家族がいるからこそ難しくなる場面もあります。
たとえば、
家族の中で意見が分かれることがあります。
本人の希望と家族の希望が異なることがあります。
医療者が、
誰をキーパーソンとして話せばよいのか
迷うこともあります。
家族が患者さんのためを思っているからこそ、
治療の中止や緩和ケアへの移行を
受け入れにくいこともあります。
反対に、
家族が疲弊しきっていて、
これ以上支えられないという場面もあります。
家族がいることは、
支援の資源である一方で、
ときに葛藤や負担の源にもなります。
だからこそ、
「家族がいるかどうか」だけでは不十分です。
大切なのは、
その人にとって、誰が本当に頼れる存在なのか
家族は何を担えるのか
家族は何を担えないのか
本人は家族に何を望んでいるのか
家族自身に支援が必要ではないか
という視点です。
家族は、
医療者にとって便利な連絡先ではありません。
家族もまた、
支援を必要とする一人の生活者です。
「人生会議(ACP)」 は、
本人と家族だけの話なのか
ここで、「人生会議」、
すなわちアドバンス・ケア・プランニング(ACP)
の話にもつながります。
人生会議(ACP)は、
将来の医療やケアについて、
本人の価値観や希望を共有し、
本人を中心に考えていくプロセスです。
その中で、
家族や大切な人と話し合うことは重要です。
しかし、
ACP を「本人と家族が話し合っておくこと」とだけ捉えると、
見落としてしまうものがあります。
そもそも、
話し合う家族がいない人はどうするのか。
家族はいても、
話し合える関係にない人はどうするのか。
家族に負担をかけたくないために、
本音を言えない人はどうするのか。
家族の意向が強く、
本人の希望が見えにくくなる場合はどうするのか。
本人の意思を尊重するためには、
家族の存在が重要である一方で、
家族だけに依存しない仕組みも必要です。
ACP は、
本人と家族の心がけだけで
完結するものではありません。
医療者、介護職、福祉職、行政、地域の支援者、
そして制度の支えがあって初めて、
現実の意思決定支援として機能します。
「身寄りがない人」
を例外扱いしない
医療現場では、
「身寄りがない」
という言葉が使われることがあります。
身元保証人がいない。
緊急連絡先がない。
医療同意を相談できる家族がいない。
退院後の生活を支える人がいない。
死亡後の手続きを担う人がいない。
こうした状況は、
医療や介護の現場で大きな困難になります。
しかし、この問題を、
「身寄りがない特殊な人の問題」
と考えてよいのでしょうか。
私は、そうではないと思います。
家族構造が変化し、
単身世帯が増え、
地域のつながりが弱まり、
高齢化が進む社会では、
家族に頼れない状況は、
もはや例外ではなくなりつつあります。
今は家族がいる人でも、
将来も同じように頼れるとは限りません。
自分自身が高齢になったとき、
誰に何を頼れるのか。
病気になったとき、
誰が意思決定を支えてくれるのか。
退院後の生活を、
誰とどう組み立てるのか。
これは、
一部の人だけの問題ではありません。
誰にでも関係し得る、
医療と社会の問題です。
家族に頼れないとき、
誰が支えるのか
家族に頼れないとき、
支援の空白をどう埋めるのか。
ここで必要になるのは、
医療だけではありません。
介護。
福祉。
成年後見制度。
行政。
地域包括支援センター。
社会福祉協議会。
民間の生活支援。
法律職。
地域のつながり。
友人や知人。
NPO などの市民活動。
こうした多様な資源が、
必要に応じてつながる必要があります。
しかし現実には、
それぞれの制度や支援が分かれていて、
必要な人が必要な支援にたどり着きにくいことがあります。
医療は医療。
介護は介護。
福祉は福祉。
法律は法律。
行政は行政。
そのように分かれていると、
本人の生活全体を支えるには不十分なことがあります。
患者さんの困りごとは、
制度ごとに分かれて存在しているわけではありません。
一人の生活の中で、
医療、介護、住まい、お金、意思決定、死後のことが、
つながって存在しています。
だからこそ、支援する側も、
つながって考える必要があります。
家族に代わるもの、ではなく、
家族に依存しすぎない仕組み
ここで大切なのは、
「家族に代わる誰か」を単純に探すことではないと思います。
家族の代わりを、
医療者がすべて担うことはできません。
行政がすべて担うことも難しい。
地域の善意だけに頼ることも危うい。
民間サービスだけに任せれば、
経済的に利用できる人とできない人の差が生まれます。
必要なのは、
家族に依存しすぎない仕組みです。
本人の意思を確認し、
必要な支援につなぎ、
生活を支え、
緊急時に対応し、
死後の手続きまで含めて、
必要な支援が途切れないようにすること。
そのためには、
医療、介護、福祉、法律、行政、地域、民間が、
それぞれの役割を持ちながら連携する必要があります。
家族がいる人は、
家族とともに支える。
家族がいない人は、
社会的な支援で支える。
家族がいても頼れない人は、
本人の意思を中心に、
家族以外の支援も組み合わせる。
そうした柔軟な仕組みが必要なのだと思います。

本人を中心に、家族・医療・介護・福祉・地域で支える
医療者にできること
では、
医療者には何ができるのでしょうか。
医療者が、
家族問題や社会制度のすべてを解決することはできません。
しかし、
医療者にできることはあります。
まず、
「家族がいること」を当然の前提にしすぎないことです。
家族がいるかどうかだけでなく、
実際に頼れるのか、
本人が頼りたいと思っているのか、
家族側に余力があるのかを考えること。
次に、
患者さんの生活背景を少し丁寧に見ることです。
誰と暮らしているのか。
困ったときに相談できる人はいるのか。
退院後の生活はどうなるのか。
お金や住まいに不安はないのか。
意思決定を支えてくれる人はいるのか。
こうした情報は、
医学的情報と同じくらい、
その人の医療やケアに影響します。
そして、
一人で抱え込まないことです。
看護師、医療ソーシャルワーカー、ケアマネジャー、
地域包括支援センター、行政、福祉職、法律職。
必要な人につなぐこと。
医療者だけで解決しようとせず、
支援のネットワークを意識すること。
それもまた、
医療と社会をつなぐ実践の一つです。
「家族が支える」を問い直す
家族は大切です。
患者さんにとって、
家族が大きな支えになることは多くあります。
そのことを否定する必要はありません。
しかし、
家族を大切にすることと、
家族に依存しすぎることは違います。
家族がいることを前提にした医療。
家族が説明を聞くことを前提にした医療。
家族が退院後を支えることを前提にした医療。
家族が意思決定を支えることを前提にした医療。
家族が死後の手続きを担うことを前提にした社会。
こうした前提は、
これからますます揺らいでいくのではないでしょうか。
「家族が支える医療」は、
これからも成り立つのか。
この問いは、
家族を否定する問いではありません。
むしろ、
本人も家族も追い詰めないために、
医療と社会の支え方を考え直す問いです。
家族だけに背負わせない。
医療者だけにも背負わせない。
本人だけにも背負わせない。
そのために、
どのような仕組みが必要なのか。
そこを考えることが、
これからの医療には求められているのだと思います。
医療と社会をつなぐ
問いとして
ここまで考えてくると、
「家族が支える医療」は、
単に家庭内の問題ではありません。
それは、
医療提供体制、
介護制度、
福祉制度、
成年後見制度、
地域のつながり、
孤独・孤立、
意思決定支援、
そして社会の家族観が交わる問いです。
患者さんは、
誰に何を頼れるのか。
家族は、
どこまで担うべきなのか。
医療者は、
どこまで家族を前提にしてよいのか。
社会は、
家族に頼れない人をどう支えるのか。
本人の意思を、
誰がどのように支えるのか。
これらの問いに、
簡単な答えはありません。
しかし、少なくとも、
家族がいることを当然の前提にした医療やケアを、
これからもそのまま続けることは難しい。
そう考える必要がある時代に来ているのだと思います。
「家族が支える医療」を、
家族の問題だけで終わらせず、
医療と社会のあり方を考える入口にする。
それもまた、
医療と社会をつなぐ思考の一つなのだと思います。
次回は、
健康格差は、
医療者にとって遠い問題なのか、
という問いについて考えてみたいと思います。