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愛が共生する生態系 ❿ 冬至



    :冬至
     Midwinter

     電飾のオブジェがきらめく東小金井駅。駅ナカのガラス天井に吊るされたイルミネーションが淡く輝く。装飾で彩られた店先には、華やかにラッピングされたギフトや、年末セールの札が並び、浮かれた鈴の音のBGMが流れていた。
     夕方のラッシュ前の時間帯ということもあって、通りを行き交う人々はまばらだった。そのせいか、年の瀬特有の浮足立った空気が、妙に空疎に感じられる。静けさのなかに、目に見えない忙しさだけが満ちていた。
     そんな街の賑わいには目もくれず、葦野は小走りでドラッグストアの扉をくぐった。真っ直ぐに解熱鎮痛剤の棚へ向かい、迷いなくそれを手に取る。他に必要な物はと、スマートフォンを取り出してメッセージアプリを立ち上げた。

    『体調が悪くて早退しました。今日の予定、リスケできる?ごめんなさい。』
    『大丈夫?無理しないで、また今度にしよう。風邪?熱はある?』

     自分のメッセージで終わったままのやりとりが、妙に現実味を欠いて見えた。葦野は画面を見つめたまま眉を寄せる。既読はついている。それがむしろ不安だった。
     今日は仕事終わりに穂高と食事に行く予定だった。お互い師走の忙しさに追われる日々のなかで、やっと時間を合わせた約束だった。メッセージでは度々連絡を取り合っていたが、会うのはおよそ一か月ぶりだ。久しぶりだからと、葦野はいつもよりも少しだけ贅沢な店を予約していた。
     昼過ぎに届いた穂高からの体調が悪いとの知らせ。それきり返信は途絶え、不安が焦りに変わるまでに時間はかからなかった。気づけば葦野は店を閉め、新宿の街を飛び出していた。
     結局、薬局では解熱剤と冷却シート、経口補水液だけを買い、そのまま店を後にした。料理好きの穂高のことだ。食材を切らしていることはないだろう。それよりも、今は何より彼の無事をこの目で確かめたかった。
     駅から徒歩十分ほどの穂高の自宅へ向かって歩き始める。すっかり日は傾いて、空は茜色から鈍い灰色へと変わりつつあった。今日が冬至だと気づき、この急な暗さと冷え込みはそのせいだと納得した。

    「さむ……」

     吐く息が白い。西東京の冬は、関東山地から吹き下ろす冷たい風が滞留し、都会であることを忘れるほど厳しい寒さになる。葦野はダッフルコートの胸元をきゅっと押さえ、マフラーを巻き直した。
     未だ穂高からの返信はない。自宅には戻っているのだろうか。念のため、彼の通勤路をなぞって家まで向かうことにする。歩き慣れた道。穂高と何度も一緒に歩いたこの道が、今は妙に遠く感じられた。
     穂高の住むマンションの玄関脇に置かれたエビネの深い緑色の葉が寒さに縮こまっていた。よく手入れされたそれも、冬の空気には敵わない。ドアの鍵は閉まっていた。帰宅しているのだろうか。あるいは、倒れて眠ってしまっているのでは。
     葦野は恐るおそるメッセージアプリの発信ボタンを押した。手のひらがじわりと湿り気を帯びる。

    「……は、い…………」

     弱々しい声がスピーカー越しに漏れた。応答があったことに安堵したのも束の間、その声にまるで力がないことに、冷気が頬をなぞった。

    「泉?ごめんね、大丈夫?」
    「がく……?」
    「家まで来てるんだ。薬とか買ってきた。……鍵、開けてもらえる?」
    「え……?」

     重い息と布ずれの音。そして、ガタンと硬い音がスピーカー越しにした後、ドアの向こうから足音と呻くような声が近づいてきた。鍵が回り、ドアがゆっくりと開いた。暖房で温められた空気と、こもった熱の匂いが肌をかすめる。ドアを開けた穂高は、ドアノブを握ったまま、ふらりと膝をついた。

    「泉……!」

     葦野は反射的に穂高の肩を抱きとめ、厚手のトレーナー越しに伝わる異様な熱に顔をしかめた。

    「ご……めん……すぐ、起きる」
     穂高はそう言いながらも、力が入らないようで、ただ葦野の胸に額を預けるだけだった。髪は汗でしっとりと濡れている。

    「泉、体調悪いのにごめん。ちょっと待ってて」

     葦野は小さく囁き、片手でドアを閉め静かに鍵をかけた。再び穂高の体を抱えたとき、その軽さに違和感をいだく。ひと月前、彼のアパートで抱きしめた時の、あの確かな体温と厚みが嘘のように、腕の中の穂高は頼りなく軽かった。

    「……移動するよ。大丈夫だからね」

     自分に言い聞かせるように呟き、慎重に歩き出す。部屋の奥はカーテンが締め切られ、外との境がわからないほど薄暗い。シンプルながら温もりある家具が並ぶ部屋が、今はどこか心細げだ。
     ソファの端に穂高をそっと座らせ、葦野はその前に膝をついた。

    「水、飲める?」

     買ってきた経口補水液のボトルを取り出しながら尋ねると、穂高はまぶたをわずかに持ち上げこくりと頷く。そのわずかな動きさえ痛々しく、葦野はそっと手を伸ばした。

    「ベッド行く前に汗ふきましょう。……箪笥、開けていい?」
    「ん……。ごめん、迷惑を……」
    「迷惑じゃない。ぼくが勝手に来たんだから、謝らないでください」

     水分を口にして少しだけ表情が和らいだ穂高は、のろのろと動き出しトレーナーとインナーを腕から抜いた。そのときだった。

    「泉、これ使っ……」

     ぬるま湯で絞ったタオルを渡そうとした葦野の手が止まった。目の前に露わになった穂高の上半身。腕から首、肩、腰へと走る、痛々しい傷痕。あの日彼が見せた傷のほんの一部に過ぎなかったのだ。穂高が語った山での事故の光景が、高い彩度で葦野の脳内に過り、思わず息を詰める。

    「……ごめん……見苦しくて……」
    「そんな、見苦しくなんてないよ……」

     穂高はかすかに笑ったが、すぐに顔を歪め、体をこわばらせて俯いた。肩が小さく震えて苦し気な息遣いが漏れている。

    「! 苦しい? 痛いの? どこが痛い?」
    「……だいじょうぶ…………」

     左腕が小刻みに震えていた。痛みを逃がすように脇腹を擦る手に無意識に力が入っている。葦野はその冷たさを手で覆った。
    「苦しい……?触っても大丈夫?」
    「ん……」

     熱で荒くなった呼吸、火照る体とは裏腹に、腕は氷のように冷たかった。ゆっくりと熱を分けるように擦ると、体の震えが少しだけ落ち着いていく。

    「……寒くなると、ときどき……痛むんです」

     弱弱しく吐き出すような言葉。熱で潤んだ瞳が葦野を見た。

    「なにか、できることある……?」

     穂高は大丈夫だというように小さく首を振った。その動作のか細さに、腕に当てる手に思わず力が入りそうになる。
     葦野はただ、優しく穂高の手を握った。返事の代わりに、彼の熱を、痛みを少しでも分け合うように。

    「きてくれて、助かりました」



    ――



     穂高をベッドに寝かせると、まるでその瞬間を待っていたかのように、すぐに静かな寝息が聞こえはじめた。葦野はそっとしゃがみ込み、穂高の額にかかる前髪を指先で静かにかき上げる。汗が浮かぶその肌に冷却シートを丁寧に貼りつけると、まつ毛がかすかに震えた。
     窓辺の空気は冷たく澄んでいる。結露した窓の外には、夜の街灯がぽつりぽつりと灯っていた。どこか遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。葦野は立ち上がり、カーテンをそっと閉めると足音を忍ばせて台所へ向かった。

     「えっ……」

     冷蔵庫を開けた瞬間、思わず小さく声が漏れる。いつもなら作り置きのおかずや旬の野菜で整然と埋まっていた冷蔵庫が、今はがらんとしていた。それがどれほど穂高らしくないことかを物語っている。

     「納豆、みそ、生姜……しめじ、枯れてる……」

     呆然と呟きながら、葦野は冷蔵庫の扉をゆっくり閉じた。広くて明るかったはずの台所が、急に寒々しく感じられた。人の気配が消えた家のような、そんな寂しさだ。
     ふと目をやると、電子レンジの横にレトルトカレーの箱が無造作に置かれているのが見えた。まさか、と思ってゴミ箱をのぞき込む。案の定、律儀に洗って捨てられたレトルトパウチやカップヌードルの容器が詰められていた。

     「忙しかったんだね……」

     ぽつりと呟いた言葉は、慰めにも、問いかけにもなっていなかった。
     料理上手な穂高が、いつからこんなふうに過ごしていたのだろうか。メッセージのやり取りだけでは分からなかった、彼が暮らした冬の日々。葦野の胸に鈍い痛みが広がっていく。もっと早く気づいていれば。今日だって、ほんの少しでも食材を買ってきていれば。
     それでも何かを作らなければと、米を水と一緒に鍋に入れて火にかけた。穂高ほどではないが、葦野も料理はできる方だ。
     ふつふつと小さな泡が鍋の底に立ち始める頃、ポケットに手を突っ込んだ拍子に、自分がまだコートを着たままだったことに気づく。

     「あ」

     指先が触れたのは、しっとりとした球体。

     「ユズだ」

     左右のポケットに一つずつ。今朝、花農家が配達のついでに自家製の果実を手渡してくれたことを思い出す。受け取ってそのままポケットに入れ、すっかり忘れていた。ボコボコといびつな形をした、月のような黄色い果実。鼻先を近づけると、ふわりと爽やかな香りが立ち上り、葦野の心をほんの少しだけやわらげた。



    ―—



     夜が深まるにつれ、部屋の中はさらに静まり返っていった。
    柚子と生姜を煮たシロップの甘い香りが、ほのかに部屋の空気を包んでいた。まるで、ささやかな祈りのような匂いだった。
     穂高はベッドの上で、小さく体を丸めて眠っている。葦野もまた、居間のソファに身を預け、浅い眠りに引き込まれかけていた。そのとき。

    「……っ……!」

    かすれた声とあえぐような荒い呼吸音が、夜の静寂を破った。穂高が眉をひそめ、寝返りを打つ。次の瞬間、その体が大きく跳ねるように痙攣する。

    「……うう…………」
    「泉……?」

     葦野は飛び上がり、すぐに寝室へ駆け寄った。扉をそっと開け、常夜灯のスイッチを入れる。薄明かりの中で穂高は目を見開いていた。呼吸は荒く、浅く、まるで追い詰められた獣のように肩を震わせている。焦点の定まらないその瞳が宙をさまよっていた。

    「落ちた……」

     震える声で、誰にともなく呟いた。
     葦野は慌てて穂高の手を取る。その指先は、氷のように冷たかった。

    「泉、落ちてない、大丈夫だよ」

     両手でそっと包み込み声をかける。できる限り静かに、優しく、ゆっくりと、それでも確かな声で囁いた。穂高の肩はまだ震えていたが、葦野の言葉に反応するように指先がわずかに動いた。

    「……ここ……は……」
    「うん。ここにいるよ、泉」

     葦野は柔らかく微笑みながら、その手をあたため続けた。
     熱に浮かされた瞳が、少しずつ現実の光を取り戻していく。

    「がく……」

     か細い声がもれる。ほんのわずかだが、穂高の声に力が宿った。
     シーツの上に投げ出された左手には、目を背けたくなるような挫創の痕がひかれている。雲よりも高い場所から重力に引かれた彼の現実が突きつけられる。

    「触っても、いい?」
    「うん……?」

     葦野は穂高の左手へ、そっと指先を伸ばした。その冷たさが、彼の過去の重さをはっきりと物語っていた。

    「あの……とき……」

    穂高の声が静かに届いた。

    「……うん」
    「落ちたとき、……とにかくさむくて、いたくて、ど……にかなりそうで、」
    「泉……」
    「ハイマツがいいにおいで、山……風が吹いてて、ライチョウの声がし……て、ああ、あめが、ふるな……あって……」
    「うん……」

     穂高は熱に浮かされた様子で、まだ夢の中にいるかのように呟き続けた。

    「でも……空は、ずっときれいで……さいごにみる空ならこれでい……かって」

     その言葉に、葦野は思わずうめき声をもらした。これは夢で見た風景などではない。あのとき、穂高が見ていた本当の空だ。
     気がつけば葦野は、穂高の毛布の中に潜り込んでいた。突然のぬくもりに、穂高はぼんやりとしながらも目を白黒させた。

    「……嫌じゃない?」

     おずおずと尋ねる葦野の声に、穂高が首をかしげた。

    「……や、じゃないけど……へん、じゃないか……こんな……」

     困ったように眉を下げる穂高に、葦野はかすかに笑った。

    「変かもしれないけど……こうしたくて。もうちょっと、触ってもいい?」
    「……うん……いい……」

     葦野はゆっくりと、穂高の背に腕を回した。どうしても、彼を一人にしたくなかった。青くて、寒い、美しいだけの場所にいる彼を。せめて彼の夢の中でライチョウになって、フワフワの羽毛で暖めたい。薄い背中をぎゅっと抱きしめ、彼を包み込む。
     熱が籠って、息苦しいくらいに暑い。けれど、それは穂高が今もここに生きている証だった。
     夜の底で、互いの鼓動を確かめ合うように、二人はただ静かに寄り添っていた。



    ―—



     翌朝、ぼんやりと目を覚ました穂高は、身体を誰かにそっと抱きしめられていることに気づいた。暖かく、しっかりとした重みに包み込まれている感触に瞼をゆっくりと開く。ほんのり甘い花の香りが鼻先をかすめた。それが葦野の香りだと気づくまで、そう長くはかからなかった。

    「がく……」

     かすれた声が喉の奥から漏れる。身じろぎをすると、肌にまとわりついていた熱がいくぶん和らいでいることに気づく。しかし身体の芯にはまだ鈍い重さが残っていた。首筋にひやりとした空気が触れて、小さく身震いする。
     そのわずかな動きに、寄り添っていた葦野が目を覚ました。薄く目を開いた彼は穂高を見つめ、ふっと息を吐いた。安堵の色がその表情に滲んでいる。そして無言のまま、穂高の額に手を当てた。
     その手のひらの感触は優しく穏やかで、確かな温度を持っていた。カーテンから染み出した朝日に、淡く照らされた彼の虹彩が美しく揺らめく。
     葦野の顔はどこか幼く見えたが、その目元にはかすかな疲れの影が浮かんでいた。

    「……少し下がったみたいだね。よかった」

     葦野はそう言って手を離し、穂高の髪を優しく梳いた。その手つきに身を委ねながら、穂高は昨晩のことを思い出していた。寝込んでいるところを彼が訪ねてきて、看病をしてくれたことは覚えている。一晩中、こうやって抱きしめてあたためてくれたのだろうか。熱に浮かされていた時の記憶はおぼろげで、夢だったかもしれないとも思う。しかし、今目の前にいる葦野のそのまなざしや仕草が、それが現実だったのだと静かに告げていた。思わずまた熱が上がるような心地がする。
     寒くないかと、葦野が低く優しい声で尋ねる。穂高は小さく首を振った。
     そのとき、葦野が「あっ」と小さく声を上げた。スマートフォンを手に取り、画面を見た瞬間に明らかに慌て始める。

    「泉、ごめん、今日店に入荷がある日だった」
    「……忙しいのに、ごめん」
    「忙しいわけじゃないの、タイミングってだけ」

     葦野は渋々といった様子で起き上がり、居間へと出て行った。しばらくして、寝室へ戻ってくる。上着を羽織りながら、柔らかく声をかけた。

    「すぐ戻ってくるから、ちゃんと暖かくしてて」
    「ん……」

     布団の上からさらに毛布を巻きつけ、葦野は撫でるように穂高の頭に手を置いた。朝の光と葦野の手の温度に思考がかき回され、穂高はつい目を閉じた。
     玄関扉が開く硬い音の後に、葦野の声がわずかに聞こえた。急ぎ足の音が部屋に戻ってくる。

    「泉、外、少しだけど雪が積もってたよ」

     葦野がそう言って、どこから取り出したのか、カーディガンとひざ掛けを毛布の上にさらにかけた。暖房のリモコンを操作する音が聞こえ、室温がまた上がっていく。

    「絶対あたたかくしててよ」

     羽毛のように柔らかく、包み込むような声だった。葦野はそれだけ言い残して、もう一度だけ穂高の頭を撫でてから、今度こそ出て行った。朝まで寄り添っていたことには、何一つ触れなかった。
     部屋に静けさが戻る。毛布を巻いたまま、穂高はそろりと身体を起こし居間へと移動した。まだ少し体は重かったが、寝ているだけでは心のほうが持たなかった。カーテンを引くと、向かいの建物の青い屋根がうっすらと白くなっていた。路面にも粉砂糖を振ったような雪が残っている。光の反射に思わず目を細めた。アパートの敷地に植えられているナナカマドの木の赤い実も雪に飾られ、そこへツグミがやってきて夢中でついばんでいる。その下の通りには、一つだけ足跡が残っていた。キツネのように真っ直ぐな足跡。葦野のものだろうか。

    「すぐ戻る……って」

     葦野の言葉がふと思い出される。あの言葉は、この部屋に、また戻ってくるという意味なのだろうか。穂高はソファへ視線を落とした。そこには、葦野のマフラーが丁寧に畳まれたままになっていた。
     台所に用意されていた粥を温め直して食べ、薬を飲む。淡い味に満たされ、静かな余韻に身を預けながら穂高はまた眠った。
     それからの時間は、ただ静かに流れていき、穂高は浅く眠っては目を覚まし、また眠った。昼下がりになっても葦野はまだ戻らない。起き上がって再びカーテンを開けると、雪はほとんど融けてしまっていた。窓の外から、ヒヨドリの甲高い鳴き声が聞こえる。穂高はずっとどこか落ち着かなかった。
     食欲は湧かず、湯を沸かして冷蔵庫を開ける。中には見覚えのないシロップの瓶が入っていた。白湯にそれを溶かして飲む。ふわりと立ち上がった柚子と生姜の香りに、それが葦野が作ったものだとなんとなく思った。
     ソファに沈み込んでいると、昨夜、左腕に感じた手のひらの感触が、ふっと蘇ってくる。少しだけ荒れた、あたたかい手。熱い息をひとつ吐いて、穂高はソファに身体を横たえた。
     ぬるく、とろけるような柚子の香りに包まれて、またゆっくりとまどろむ。夢の中では、また葦野の腕が自分を包んでいた。



    ―—



     蝋燭のようにか細くなった冬の陽が窓辺に差し込んでいた。その光は、淡く鈍いオレンジ色で、窓辺に置かれたブルースターの越冬鉢を、ほんのりと温めている。ハシブトガラスの透き通った鳴き声が遠くから聞こえ、続くように町の夕方のチャイムがくぐもったメロディーを奏でた。
     子犬が小さく丸まるように、穂高はソファーで毛布にくるまっていた。どうやらまた眠っていたらしい。そこへ玄関の扉が開く音がして、意識が水面に浮かぶようにゆっくりと戻ってくる。

    「泉、体調どう?……ソファーにいたの?」

     葦野の声がする。懐かしい声だった。胸の奥にまで届くような、低く掠れて、優しくて、安心させてくれる響き。しかし、穂高の唇は重たく、声にならなかった。喉の奥に言葉がつかえて、うまく吐き出せない。

    「どうしたの?……大丈夫?」

     音を立てずに近づいてきた気配とともに、葦野がそっと額に手を当ててくる。
     外気で冷やされた手が熱を持った体に心地よかった。触れられた額から、じんわりと安心が染み込んでくる気がした。
     そのやさしさに、胸がいっぱいになった。

    「……どうしてくれるんだ……」

     ぽつりと落とした言葉は、空気を震わせるほどの力を持たず、かすれて口の中で溶けていった。

    「……うん?」

     葦野は穂高の隣に膝をつき、毛布をかけ直しながら、聞き逃すまいと顔を寄せてくる。

    「もう、夕方……」
    「うん、そろそろ四時半くらい」
    「すぐに戻ってくるって……いったのに」
    「……あ、色々食材とか、薬とか買ってて…遅くなってごめんね」

     葦野は声を小さくして詫び、「体調悪くて心細かったよね」と安心させるように穂高の頭を撫でた。
     その瞬間、穂高は喘ぐように息を吸い込んで肩を震わせ、彼の手を振り払うと毛布の中に顔を沈めて小さな声で呟いた。

    「違う……。ちがう……! なんで……」
    「泉?」
    「君には……。君には、今も、大切な人がいるのに……! なんで、……どうして、僕にこんな……!」

     その声には涙こそなかったが、震えるほどの熱がこもっていた。あふれる気持ちが行き場を失い、やり場のない思いが言葉になって溢れ出た。それは怒りではなく、ただただ、戸惑いと苦しさの裏返しだった。
     葦野の気持ちに気づかないほど鈍感ではない。むしろ、気づいてしまったからこそ、心が揺れていた。信頼してもらえることが嬉しかった。彼の声に、視線に、触れる手に、自分への好意が滲んでいることも分かっていた。それが嫌ではなくむしろ心地よいと思ってしまう自分に戸惑いながら、けれど、受け入れようとする度に、彼の左手に光る細い指輪が穂高の心をためらわせる。
     あの秋の日の夜、彼に抱きしめられてから、ずっと、おかしくなりそうだった。
     葦野は静かに微笑んだ。無理に言葉で返すことなく、そっと両腕を広げて、穂高をその中に迎え入れた。抵抗する間もなく、穂高の身体はその胸に包まれてしまった。そこはやわらかく、逃れようのない温もりに満ちていた。
     心臓の音が近づく。鼓動の音が重なっていくことに穂高は安堵と同時に、猛烈に怖くなった。
     求めていたはずなのに、強くなりすぎた気持ちが、今にも自分を壊してしまいそうだった。
     落ちてしまう。
     目をぎゅっと閉じる。

    「泉、ごめん……君のこと、……好きなんだ」

     その低く真っ直ぐな声が、耳元で静かに響く。

    「…………知ってる……でも…」

     穂高は、目をそっと開いた。その視線が、葦野の左手を探すようにさまよった。その薬指には、今も大切な思い出がそっと寄り添っている。それを否定することはできないし、したくもなかった。
     葦野は穂高を抱きしめたまま、言葉を紡ぐように口を開いた。

    「……彼女は、ぼくに、そのままで良い って言ってくれたんだ……でも」

     葦野にとって穂高は、世界そのものを違う光で見せてくれた人だった。ただ一緒にいるだけで、穂高のまなざしが差し込む先に、新しい美しさを感じさせてくれる。青空は、こんなにも鮮やかにやさしく世界を包んでいるものなのだと教えてくれたのだ。

    「君が青い色を見せてくれたんだ。……雲の上にある山から降りて、ぼくのところに来てくれた」

     ほんの些細な日常が、彼にとっては新しい風景だった。
     穂高のまなざしが触れるものすべてが、美しく思えた。

    「手放せないよ……」

     穂高にとっては、不本意だったかもしれない。それでも、どうしても一緒にいたい。穂高と、生きていきたいと思ってしまった。

    「泉……」

     なんでもそつなくこなすくせに、言葉はどこか不器用で、落ち着いているかと思えば、時々少年のように無邪気で。野の花を愛していて、山が好きで。
     同い年で、同性の、美しいひとだと思った。
     葦野は俯いた。ああ、もう無理だ。綺麗に、優しく、友達のふりをして隣にいるなんて。
     こんなに熱くて、こんなに痛がっているこの人を、神様みたいに拝んでいる場合じゃない。汚してでも、自分の腕の中に引きずり込まないと、またどこかへ消えてしまう。

    「君と、一緒にいたいよ」

    それは、葦野の心からの声だった。
     強く、深く、抱きしめる。

    「ぼくのところに落ちてきて」

      葦野の腕に一層強く抱きしめられ、低い声が穂高の耳のすぐ横で響く。
     穂高は苦し気に息を吐いた。

    「……僕も……岳と一緒がいい……君のこと、……」

     言葉の続きを告げる前に、穂高の身体からふっと力が抜けた。
     燃えるように熱を帯びた身体は、感情の嵐のあとで、静かに眠りへと落ちていく。

    「泉……? ……!」

     その様子に、葦野は驚いて身を起こし、すぐに穂高を抱き上げてベッドへと運んだ。
     首元に手を当てて熱を確かめると、先程よりも上がっていた。無理をさせた自覚はある。心配で仕方がなかった。しかし、それ以上に、胸の奥があたたかく満たされていくのを止めることができなかった。
     今晩も酷く冷え込む予報だった。葦野はカーテンを静かに閉めると、穂高の隣にそっと横になり、その熱を逃がさないように、優しく、けれども堅く抱きしめた。

     この胸の中で眠る彼の存在が、これから自分のすべてになる。
     そう、確かに思った夜だった。





    ・
    ・
    ・




    閑話:宿り木
       Kiss Me Here



    「きらなきゃ……」

     覚束ない声が聞こえ、葦野はうすく目を開けた。辺りはまだ薄暗く、カーテンのふちがようやく淡く光を纏い始める頃だった。湿ったシーツの感触。すえた汗の匂いが漂う。葦野は薄闇の中、重ねられた毛布に包まった穂高の姿を見つけ、彼を看病したまま隣で眠ってしまったのだと気が付いた。
     そっと腕を伸ばして、夢の中をさまよっている彼の頬を親指でなぞる。その肌は未だ熱をもち、微かにざらついていた。

    「泉、……何を切るの?」
    「……だって……切らないと」
    「大丈夫だよ、大丈夫。夜より熱下がってる」

     葦野は穂高の額に張り付いた髪を梳くように撫でた。小さく呻きながら手にすり寄る熱に、葦野の心臓がとくとくと走り始める。昨日までは、気の置けない、少しだけ特別な景色をくれる友人だった。けれど今は、ただ自分の腕の中に閉じ込めて守りたいと思うようになってしまった。
     穂高の目が細く開き、葦野をぼんやりと見つめた。黒い瞳の中に、淡い朝の光が溶け込んで揺れる。葦野は撫でる手はそのままに、しっとりとした熱さを感じていた。

    「起きた?」
    「がく……」

     掠れた彼の声が小さく響く。穂高は自分の周りに転がった温い保冷剤や洗面器の存在に気づき、表情を凍り付かせた。ごめん、こんなことを、と零しながらうつむく彼の頭を葦野は猫を触るような手つきで撫でた。しばらく呆然と目を閉じていた穂高だったが、次第に葦野の手の温度に意識が向き、静かに口を開いた。

    「……僕たち、は」

     シーツの上に転がるように零れ落ちた声。葦野は手を止めることなく静かに口を開いた。

    「うん……。もし、泉が良ければ、だけど」

     「良ければ」などと口では言いながら、葦野は心のどこかで、彼に拒否権など与えられないと思っている。
    二晩、彼の熱を取り除き、呼吸を助け、震える体を包み込んで抑えた。その過程で、葦野は穂高の聖域をすべて暴いてしまった。汗にまみれた手負いのけもののようなその姿は、野を駆ける美しい「穂高泉」ではなく、ただ無防備な個体そのものだった。その無防備さが、たまらなく愛おしく、同時に自分の管理下に置きたいという歪んだ独占欲を刺激する。奇跡でできている彼を、ただ守りたかっただけなのに。指先が触れるたびに、もっと深くまで触れたいと願ってしまう自分が恐ろしかった。
     薄明かりを映して、葦野の琥珀色の虹彩がギラリと光る。

    「岳、……顔が違う」
    「同じだよ」

     どこか気高いオオカミを彷彿とさせる鋭い眼差しだった。穂高は気まずさに視線をさまよわせる。

    「僕、男と付き合ったことない……君だって……」
    「ぼくは、……」

    不意に言葉を切って視線を反らした葦野のその瞳に、冷たい、それでいてひどく空虚な色が混ざる。それは穂高の知らない、かつて絶望の中にいた男の顔だった。口をつぐんだ穂高を見て、葦野は撫でていた手をそっと離した。

    「幻滅した……?」
    「しないよ、別に。……お互いこの歳になれば、色々あるだろ。君だって、……しんどい時期が長かったんだから」

     穂高は葦野の指先を追いかけて傷に塗れた左手で包み込む。あたたかな指先。かつての喪失から抜け出そうと抗い続けた男の手。そして穂高をクレバスの底のような冷たい日常から救い上げた手だった。その手が少しばかり強引でも、振り払うことはできなかった。
     穂高はその手を抱えたまま目を閉じた。落ち着かせるようにゆっくりと呼吸を繰り返す。未だわずかに肺の奥が熱く沁みる感覚がした。
     再び目を開けると、葦野が心配そうに顔を覗き込んでいた。キツネが耳をそばだてて、首を傾げているようだった。まるで自分が追い込まれたヤチネズミにでもなったような心地で、穂高は降参するように小さく笑った。

    「岳は、僕に……キスできるの?」
    「……できるよ。しても良いの?」
    「……うん。あ、……いや、今、は」

     葦野は答えを待たずに、穂高の首筋に指先を滑り込ませた。ケロイドの皮膚がぴりぴりと粟立つ。一呼吸だけ触れた唇の熱に穂高は短く息を詰まらせた。

    「うつったらどうするんだ」
    「風邪じゃないでしょ。ずっと一緒に寝てたんだし」

     葦野はなんとでもないように、穂高に毛布を掛け直した。穂高は熱をごまかすように唇を一度だけ舐めると、毛布に顔をうずめ目を閉じた。回復は近いが、まだ体は重かった。

    「そう言えば、夢見てた」
    「ああ、なんかずっと切らなきゃ、切らなきゃって言ってたよ?何切ろうとしてたの」
    「……実家に、でかいコナラの木があって。ヤドリギに寄生されてて……。僕だけが焦ってるんだ、みんなは、ポンポンみたいって……可愛いって笑うから」
    「なに、その可愛い夢」

     毛布の中で足を絡ませる。葦野に引き寄せられて穂高はゴロリと体の向きを変えた。葦野の長い腕と足の中にすっぽりと包まれた。

    「でも切らなくてよかったね」

     彼の呼吸が頬に当たる。その体からあつい体温が流れ込んでくる。

    「なんで?」
    「ヤドリギの下でキスをしたカップルは永遠に結ばれるんだよ?」
    「そんなおとぎ話……」






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    生き物メモ

    ユズ

    ( Citrus junos 柚子 )

    画像
    ミカン科ミカン属の常緑小高木。
    初夏に小さな白い花を咲かせ、果期は秋から冬にかけて球形の黄色の果実を結ぶ。
    酸味は強く、独特の爽やかな芳香を放つ。

    花言葉は「恋のため息」「汚れなき人」など。


     
     
    自給自足作家 オリキャラふたりの生活を書いてます💐 三度の飯と野鳥が好き。 普段は絵を描きながら自然の中で仕事をしています。 趣味はドライブ、編み物、登山 ※No unauthorized use or reproduction. ※ 禁止→絵や文の使用、AI利用、転載

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