
愛が共生する生態系 ❶ 日なたのきつね
高層ビルの稜線をオオタカが泳ぎ、ネオンの影にタヌキが駆ける街、新宿。
新宿御苑で自然保護官として働く穂高泉は、かつての滑落事故により現場から遠ざけられた自身の現状に、鬱屈を抱えていた。
一方、路地裏で生花店を営む葦野岳は、特異な色彩に寄り添いながら花を束ね、自らの過去と静かに向き合い続けている。
接点のないはずの二人の境界線は、一輪の高山植物「ミヤマオダマキ」をきっかけに、ゆるやかに融け始めた。
ひとつの個体では完結できない欠落を抱えながら、共に食べ、歩き、不器用な手つきで季節を重ねていく。
それは、循環し、補い合う、二人という最小単位個体群の生存戦略。
自然と人と愛のかたちを淡く描く、連作短編集。
アラフォーBL × アウトドア × 生態学?
本文約12万字(全20話)
目次 | 登場人物紹介
※ 本作はフィクションです。実在の地名、公的機関等が登場しますが、実際の団体や業務、事故等とは関係ありません。 山岳描写および事故の経緯は物語上の演出としてお読みください。
:日なたのきつね
The Sunlit Fox
冬を越したキタテハが橙色の羽を鈍く翻して、ひとつ、ガーベラを揺らした。
朝。新宿駅の無機質な喧騒。そこから少し離れた路地裏に、都会に見合わない緑があふれていた。淡い色の葉をつけたオリーブの枝と、深い緑のヤマブドウのツル。扉には、「花屋」と書かれた看板が立て掛けられていた。
店先には春の草原を思わせる黄色やオレンジ色の花、柔らかな萌黄色の草葉が並ぶ。
重い足取りで人混みから漂い出た男、穂高は通りがかりにふと、その緑溢れる店先で足を止めた。
深く刻まれた眉間の皺が、その鮮やかな色彩を前にわずかに緩む。
明快な色合いに埋め尽くされた足元の一点に、視線が吸い込まれる。
黄色の群落の中に一つだけ浮かび上がるような深い青色。うつむき気味に揺れるその姿は、ミヤマオダマキに似ていた。
彼は高山植物がこんな都会の平地にあることに驚きつつも、静かに口元を綻ばせた。
「いらっしゃいませ」
そこへ、店の奥から柔らかな声がかかった。薄い朝日に照らされて目を細めたその男は、春の陽だまりでまどろむキツネを思わせた。樺茶色の髪とチャコールグレーのエプロンがふわりと風に揺れる。
「こんにちは。…… あ、その子、ブルースターって言うんです。綺麗な青……ですよね。ちょうど、昨日うちに来たんです。よかったら見ていってください」
穂高はその鉢の前にしゃがみ込んだ。触れはしない。指先がわずかに花の周囲をなぞるように浮かんだ。花弁が微かに風に揺れる。
「……これ、ミヤマオダマキですよね。北アルプスで見ました。稜線で、ひっそり咲いてた」
その呟きはどこか寂しさを湛えていた。店員は僅かに驚き、瞬きを繰り返したが、すぐに穏やかな眼差しへと戻る。その虹彩はヤマブキの花を溶かしたような琥珀色をしていた。
「お詳しいですね。山、やってる方ですか?」
ざらついた、温かみのある声がふんわりと落ちる。穂高は柔らかく息を吐いた。顔を上げて首を横に振る。
「いえ……以前、山で働いてたんです。今は、まぁ……芝刈ったり、柵の補修したり」
彼は自嘲気味に笑うが、店員はそれに同調するでもなく、否定するでもなく、ただ頷いた。
「芝の手入れ、難しいですよね。気温とか土とか……山の植物と違って、面倒をみてやらないといけなくて」
花の香りと、店先を流れる都心の空気。
新宿のよどんだ風の端で、ミヤマオダマキの青が揺れる。その色は、かつてあの山頂で穂高が見た空の色にひどく似ていた。高山の風を閉じ込めたようなハイマツの香り、雷雲を思わせるライチョウの声。
『ラーク!!』
そして、岩が砕ける鋭く高い音。
穂高は脳裏に浮かんだ記憶を振り払うように堅く目を瞑った。
暗闇で耐えたのは数秒にも満たない時間で、すぐに花を切る鋏の軽快な音に意識が引き戻されて、山の気配が消え去っていく。
穂高はゆっくりと瞬きをして立ち上がる。目の前に広がるのは、切り揃えられ、美しく並んだ花。人の手が作る、優しい自然の一部だった。
視線を店に戻せば、窓辺には小さな鉢が置かれ、天井からはドライフラワーが吊るされ、花に満ちた空間がそこにあった。通勤路の一つ隣の道に、こんな店があったのだと改めて彼は実感する。
「ここ、『花屋』って名前の花屋なんですか?」
「そうなんです、わかりやすいでしょ? あ、店主の葦野です。お店は木曜から日曜にオープンしてるんで、いつでも来てください」
「ああ、どうも……。穂高です。そこの御苑で働いてるんで、……たぶん、また、来ます」
流れで名乗ってしまった。いち客の名前なんてどうでもいいだろうに。そう思った穂高だったが、あのまどろむキツネのような顔がふにゃっと綻ぶのを見て、まあいいか、と思考をやめた。
葦野は首を少しだけ傾けて、ふっと表情を消した穂高を不思議そうに、けれど柔らかな眼差しで見つめていた。
キタテハがよろよろと羽を動かし、日差しの暖かさに誘われるように町を渡っていた。
——
とっぷりと日が暮れ、新宿は夜の顔に変わる。
ネオンの光が空気を毒々しく染め上げ、静かな裏通りにも繁華街の賑やかな音が足元から伝わってくる。
葦野はそろそろ店じまいだと、帳簿代わりのタブレットを置いて立ち上がった。
夜風に揺れる黄色のパンジーを店内に戻し、生花店「花屋」の看板を仕舞おうとしたその時だった。街灯がぽつねんと光をともす店先に、ぱらりと落ちるサクラの花びらのように、足音が近づいてくる。
「あ……こんばんは」
その声に葦野が振り返ると、オレンジの灯りの下に見覚えのある黒髪の男が立っていた。
「ああ……えっと、穂高……さん」
葦野のぼんやりと浮かんだ声に、「覚えてるんですか」と穂高は切れ長の目を見開いた。半月ほど前に店前で会った男のことを葦野は覚えていた。彼が植物を見る時の、祈るような目つきが忘れられなかったのだ。
穂高が纏うのは芝色の作業着、細身のカーゴパンツ、トレッキングシューズ。その上に黒いトレンチコートを羽織ってどこかちぐはぐな格好だった。仕事終わりに走って来たために、癖のついた前髪が少しだけ乱れている。山の空気を纏ったまま、街に紛れ込んできたような妙な存在感だった。
「まだ開いてる、大丈夫ですか……?」
「ギリギリ、ですね。滑り込みセーフです」
葦野が笑いかけると、穂高も少し照れたように口元を緩めた。
穂高からは、かすかに土の匂いがする。葦野には、まだ彼の背中に森を歩いてきた足音が残っているように感じられた。
「今日しかタイミングが無くて……開いてて、助かりました」
「それはよかったです」
自分自身の声が思ったよりもやわらかく出て葦野は驚く。
思いがけない再会だった。一度言葉を交わしただけの、連絡先も知らない、けれど忘れていなかった顔。それが、自分の花屋をわざわざ訪ねてくれた。胸の奥がふわりとあたたかくなって、葦野は思わず笑ってしまった。
穂高はきまり悪そうに笑って頭を掻いた。
「……あの時の青いオダマキ、購入しようと思って。ブルースター、でしたっけ?」
「わ、ありがとうございます。今ちょうど花数が増えてきたところなんです。見ますか?」
葦野が誘うように小さくうなずくと、穂高は店先に歩み寄ってきた。
ふとその視線が店頭に佇んでいたピンク色の切り花に吸い寄せられる。
「あ……ナデシコ?」
「やっぱり詳しいんですね。この子は原種のカワラナデシコに近いタイプで。すごい野性味ありますよね。暑さ寒さにもけっこう強いんですよ」
「花屋」の花には名札は付いていない。ただそこには、淡いピンクの花弁が夜の風にそよいでいた。葦野は腰を落とし、花筒を回して穂高の目線に合わせた。
「……タカネナデシコを……白馬の裾野でよく見てました。もう少し、花びらが細くて……色も、もっと薄かった」
穂高は言葉を選ぶようにゆっくりと話す。その声には懐かしさが滲んでいた。彼が今見ているのは、このナデシコではない。森を抜けて、風に揺れている野の花の姿だ。真夏でも雪を纏う稜線を湛えた草原に佇む、ピンク色の可憐な花。葦野は穂高の声が運ぶ風景を眺めるように耳を傾けていた。
「……でも、こうして街で咲いてくれるのも、ありがたいもんですね」
穂高の訥々とした、けれど隠しきれない寂しげな声に、微かに熱がこもる。その言葉に、葦野の心が風にくすぐられる野花のように揺れた。
この人は、花の名前を覚えているだけではない。場所、風の匂い、咲いていた空気ごと記憶にとどめている。花の姿を通して思い出す風景があるということを、自分もまた知っている。そう確信し、葦野は目を細めた。
「わかります。人が暮らしてる場所に、季節のお花がいてくれるって、ほっとしますよね」
葦野はナデシコの入った花筒を、そっと風の当たる位置に動かした。
タブレットでレジを立ち上げ決済を終える。穂高は何も言わず、物珍しそうに店内を見回していた。葦野はその様子をちらりと確認しながら、ブルースターの鉢に緩衝材を巻き付ける。
「うちは、市場で仕入れた切り花とか園芸品種の鉢植えがメインだけど、ときどき知り合いの花農家さんとか野草育成家から変わり種が届くんですよ。ブルースターもそれで」
「へえ……面白いですね」
穂高はレジ横に枝葉を伸ばすツルウメモドキを観察していた。
ツルウメモドキは秋になれば赤と黄色の実が美しく輝く植物だが、今はまだ葉が出てきたばかりのただの蔓だ。それでも穂高は園芸種よりも野草に目が行くらしい。葦野は静かに目線を手元に戻して口を開く。
「ブルースター、お庭に植えますか? 都内なら霜は降りないと思いますが……」
葦野はブルースターをクラフトの紙袋にそっと入れ、その花と同じ色のささやかなリボンをつけた。
「いえ、鉢で育てます。うちは小金井の方なので、ここよりも少しだけ冬は寒いだろうし……まあ庭も無いんですが」
「えっ!ぼくもです。最寄り武蔵小金井なんですよ」
「そうなんですか?僕は東小金井です。……本当に、近いですね」
どこかいたずらな子供のような穂高のはにかんだ笑み。口元が柔らかく揺れ、肩の力が幾分か抜けていた。先日に見た人混みの中で疲れた顔とは違って、柔らかな雰囲気をまとう穂高に、葦野の微笑みも深くなる。
ブルースターを手渡す。触れた手は暖かい。
「ありがとうございます。……閉店間際に長居してしまってすみません」「寄ってくれて、うれしいです。ぜひまた来てください」
素直な言葉だった。けれどじんわりと頬が熱くなる感覚に、葦野はごまかすようにナデシコの花筒を店内に入れた。穂高は何も言わずに、右手に下げたブルースターに視線を戻す。紙袋に入れられた青い花は、微かに緊張するように蕾を揺らした。
「お世話様でした」
「あ、はい、ありがとうございました。あ、ちょっとまって」
葦野は花筒から一輪のナデシコを取り上げエプロンで水気を取ると、それを穂高の持つ紙袋にそっと挿した。所在無げに揺れるピンク色に、穂高が戸惑いの声を上げた。
「小一時間ならそのままでも大丈夫。家についたら、お水に入れてあげてください。そのまま吊るしてドライフラワーにしても綺麗ですよ」
葦野が低く歌うように言った。ナデシコを通して彼が見る風景の美しさを。この可憐なナデシコの原風景を見せてくれた彼への礼だった。
「また、お花の話聞かせてください」
小さく、確かに頷いた穂高の黒いジャケットが夜に溶けていく。
トレッキングシューズからこぼれ落ちた小さな土のかけらが、彼の落とし物のように店先に残されていた。
都会の空の下で、少しだけ、山風が通ったような気がした。
生き物メモ
ホンドギツネ
( Vulpes vulpes japonica 本土狐 )

本州に生息する。全体に明るい赤褐色から黄褐色をしており森林から里山、農耕地にかけて広く生息し、近年では都市部の緑地や公園でもその姿が確認されている。
北海道に生息するキタキツネとの違いは、体の大きさと足の色。
キタキツネはホンドギツネより体が一回り大きく、足は黒い。