
愛が共生する生態系 ❷ 湯気
:湯気
Rising Steam
二十一時。雨上がりの新宿は、夜のざわめきと光に濡れていた。
ネオンの粒が路面に落ち、水たまりを滲ませながら揺らめく。街路の葉桜も水を纏って、湿り気を帯びた輝きを放っていた。
葦野は、高架下の人混みを縫うように歩く。ずらりと並ぶ飲食店の灯りのなかに、一軒だけ控えめな明るさを湛える蕎麦屋があった。木の看板に煤けた暖簾、引き戸を開ければ、湯気と湯の沸く音が漏れる。馴染みのある温度と出汁の香りに彼の頬がふっと緩んだ。
木の椅子に腰をかけて、食券を手にしたままふと顔を上げると、見覚えのある顔と目が合った。
「……あれ」
「ああ、お久しぶりです」
穂高だった。雫を纏ったジャケットを腕に抱え、小ぶりの黒いザックを肩からおろした。草と花の匂いが、湯気と混ざって鼻先をかすめる。芝色の袖には土の跡がかすかについていた。
「穂高さん。偶然ですね」
「先日はどうも」
小さく会釈しながら彼が隣に腰を下ろすと、店主が目線だけで連れかと問いかけてくる。葦野は慌てて首を振った。食券をまとめて渡すと、店主は黙ってうなずいた。
「葦野さんも、お仕事帰りですか?」
「はい。大体いつもこの時間で」
「ああ、お疲れ様です。僕も今日は残ってしまって」
「お疲れ様です。遅くまで、大変ですね」
厨房から暖かな空気がゆっくりと二人の間に流れ、心地よい沈黙が続く。間もなくきつねうどんと、かしわそばが順番に運ばれ、二人とも自然と手を合わせた。
やがて咀嚼の音だけが静かに響く。外の喧騒が遠くなり、湯気の向こうで時間が柔らかく流れ始める。
「いただいたナデシコ、ドライフラワーにしてます」
沈黙を破るように、穂高がぽつりと言った。
「同僚に教えてもらって。乾燥剤に入れたら色がきれいに残るって……。気に入ってます」
訥々とした穂高の口調が耳に心地よく届く。その話しぶりには、ほんのりとした嬉しさが滲んでいた。それは葦野にとっても嬉しい報告で、自然と頬が緩む。
花の手入れは誰かの日常にそっと入り込んで、その生活を無意識の中で彩る。あの朝の喧騒の中に佇んだ、どこか寂しげな表情をした穂高を思い出し、その事実に報われたような気がした。
葦野の肩の力がすっと抜けていく。
「それはよかったです。ブルースターも元気にしてますか?」
「はい。……ブルースターって、セイヨウオダマキの園芸種の名前なんですね」
「そうですね。でも、あの子は高山植物のミヤマオダマキがルーツで間違いないと思います。セイヨウオダマキはもっと背が高くなるので。花農家さんがブルースターと呼んでいるので、名前は同じなんですが」
「ええ。あの葉の形や距の突き出し方は、たしかに園芸種というよりは野のそれでしたね。……良い名前です。確かに青い星に見える」
その声には、あの花の風景を思い出すような穏やかさがあった。
……青い星。
一瞬、葦野の思考が揺れる。このひとが見る青はどんな色だろうと想像してみる。以前、山仕事をしていたという彼が、稜線の足元で見つけた風に揺れるミヤマオダマキの花。その花が根を張る大地は、香りは、景色は……。葦野は自然と笑みをこぼす。
二人の仕事帰りの倦んだ身体の芯がじんわりと温まっていった。
しばらくして、穂高が視線を下げてふと口を開く。
「そういえば、ご結婚……されてるんですよね?」
唐突なようでいて、穏やかに差し出されたその言葉に、葦野は箸を止めた。気まずい雰囲気はない。穂高は葦野の水仕事で荒れた手を無意識に観察し、ただ事実を確認しただけだった。
「指輪、してらっしゃるので……そうかなって。すみません、不躾でしたね」
左手の薬指に、鈍く光る指輪。水仕事で荒れた手に馴染んだ銀の輪。
葦野は、花が綻ぶようにかすかに笑った。
「いえいえ……。正確に言うと、してないんです」
「……?」
「結婚前に亡くなって。もう、随分前のことですけど……」
言葉にした声は驚くほど静かだった。怒りも涙も、もうとっくに通り過ぎていた。ただ、残っているのは習慣のような愛情だ。葦野がゆっくりと左手を握ると、金属の硬い感触が肌に触れる。
「まだ大事なままなんです」
葦野は箸を止めるでも、無理に笑うでもなく、淡々と、けれど柔らかく言葉を置いた。器から立ち上る湯気が、その言葉を包み込むように揺れて消える。そこには、長い時間をかけてようやく馴染ませた静けさがあった。
「……そうでしたか。すみません」
「いえいえ、そんな。もう十、五……十五年以上経ってるんだなあ」
目を伏せた穂高が、そっと息を吐く。
沈黙が少しだけ濡れて感じられた。
「……いいですね」
天井から響く電車の重い音に混ざって、ぽつりと呟いた穂高の声が、まっすぐに手元に落ちる。
「そういうふうに、今でも大事に思えるって。とても、素敵です」
葦野は困ったように微笑んで、器に視線を戻した。つゆに映り込んだ表情は、湯気に遮られて見えなかった。箸先が残りのうどんを持ち上げる。
「……それでも、やっぱり寂しいとき、ありますけどね」
その言葉に、穂高は何も返さなかった。ただうなずいて、そっと器を置いた。
また心地よい沈黙が湯気の中を漂っていた。
――
新宿駅中央線の下りホームは、混み合う時間を過ぎていてさほど人も多くない。時折吹き込む風が月を曇らせ、ビルの灯りとホームの蛍光灯が、濡れたタイルの床にぼんやり反射していた。
「環境省……! じゃあ、官僚の方なんですか? ぼく、てっきり新宿御苑の庭師の方かと……」
向かいのホームを通り過ぎた特急の音にかき消されながら、葦野が目を丸くして声を上げた。驚きで上ずった声は、少しだけ高く掠れている。
穂高は苦笑しながら首を横に振った。湿気を含んだ黒髪が微かに重く揺れる。
「いやいや、キャリアとかじゃなくて、ただの現場の公務員です。そんな大層なもんじゃない……やってることは、たぶん、庭師とそんな変わらないかも」
「へえ……いや、でも……すごいですね」
渡された名刺には、波打つ水と山を模したロゴマークが存在感を放っていた。印刷された名前に指を添えて、葦野は目を細める。
「穂高……泉。センさん、って読むんですね」
「はい。よく、イズミって間違われます」
「素敵な名前です」
穂高は登山が趣味なのだと言った。彼は葦野よりも小柄ではあるものの、無骨な指先や筋肉質な体つきから、彼がトレッキングシューズで自然の中を走り回っている様子が容易に想像できた。
「葦野さんも。……岳かあ」
「ガクだけど、山には一度も登ったことが無いんです。祖父が……山好きだったらしくて」
葦野が感心を苦笑いに変えて相槌を打ったところで、オレンジ色の車体がホームに滑り込んできた。雨粒をまとった車体の光沢が、駅の光を細くきらめかせる。二人は静かに車内へ乗り込むと、空いている端の席に並んで腰を下ろした。
穂高がふと思い出したように口を開く。
「さっき食べてた、きつねうどん……揚げが三枚も入ってて驚きました。贅沢ですね」
「ええ、あのお揚げ、甘くて美味しいんです。ぼく、あれが大好きで……。今度ぜひ食べてみてください」
「うん、食べてみようかな」
静かに揺れる車内。濡れた窓ガラスの向こうには、街の灯りが滲んで流れている。夜の幕がかけられていくように遠ざかる都心の輝きに、徐々に心が落ち着いていく。
「穂高さんも、けっこうがっつり食べるんですね。半身のかしわって、店の名物ですけど」
「まずいなあと思いつつ……この時間まで働くと、食べちゃうんですよねぇ。二十代の頃なら、この時間に揚げ物食べても平気だったんですけど」
「わかります。最近は翌朝の胃の重さで、自分の歳を突きつけられるというか」
ふたりの笑い声が、静かな車内で小さく響いた。
「……なんだか、不思議だなあ」
穂高がぼんやりと口を開く。葦野が顔を向けると、彼は窓の外を見ながらゆるやかに言葉を続けた。その深い黒色の瞳は車内の光を柔らかく反射している。
「つい最近知り合ったばかりなのに、偶然また会って。帰り道が同じで、一緒に飯食って、同じ電車に乗ってるなんて……なんか……学生みたいですね」
葦野は少しだけ考えてから、低い声で静かに笑った。
「……友達になれそうですね。お花の趣味も合うし? 」
一瞬、車輪が線路を叩く音だけが響いた。
「あはっ、いいですね」
穂高の口元が照れたように綻ぶ。列車は重い音を立てて、夜の街を滑っていく。
小さな偶然が少しずつ重なって、ふたりの間の距離をやわらかく埋めていった。
生き物メモ
カワラナデシコ
( Dianthus superbus L. var. longicalycinus 河原撫子)

「子をなでるように可愛がりたい花」というのが名前の由来。
糸状に細裂した花は白から薄紅色で個体差がある。
花言葉は「純愛」「無邪気」「大胆」「可憐」など。