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愛が共生する生態系 ⓫ 登攀


    :登攀とうはん
     Ascent

     武蔵野線の車窓には冬枯れた町の風景が流れていく。からりと晴れた薄い色の空と葉を落とした街路樹のコナラ。どこか殺風景なその風景とは裏腹に、車内には艶やかな色彩が点在していた。鮮やかな振袖や、すらりとした背広に身を包んだ若者たちが、ぽつりぽつりと席に座っている。

    「成人式だね」
    「うん」

     葦野のつぶやきに穂高が短く返す。車両の隅に寄り添って立つ二人の間には穏やかな空気が流れていた。

    「泉、寒くない?」
    「大丈夫。暑いくらい」
    「身体、絶対冷やさないでよ?」
    「だーいじょうぶだって」

     葦野は穂高が身に着けている薄手のダウンジャケットが、どうにもお気に召さないらしい。

    「これ、天下のパタゴーニャのダウンだぞ。それに下はファー・ノースのフリース、肌着は山鈴ヤマスズのメリノウール。ほら、ほぼ山装備だよ」

     一通りスペックを並べ立ててみたものの、葦野は不服そうにムッとした表情を崩さない。ラクダ色のダッフルコートに合わせていたマフラーを外し、そっと穂高の首の後ろに滑り込ませた。その過保護ぶりに苦笑いしながらも、穂高は半月前のことを思い出して、それもそうかと思う。
     先日まで穂高は冬の冷え込みで、事故によって身体に負った挫創の古傷が痛み、さらに仕事の多忙さによる不摂生が重なって一週間ほど寝込んでいたのだ。
     その間、葦野はほとんど付きっきりで看病をしていた。そして不思議なことに、すっかり体調が回復してからも、葦野は穂高の家に入り浸るようになった。今日も一緒に家を出てきたところだ。

    「岳の匂いがする」
    「そっ……そういうこと言わないの」

     穂高はマフラーに口元をうずめた。花のような香りが心地よい。その様子を見ていた葦野は、困ったように眉をひそめ、目を逸らした。穏やかで飄々とした雲のような男が、自分にべた惚れしていて、その愛情を何も考えず素直に受け取れるのが正直嬉しかった。
     あからさまに照れている彼の表情がどうにも可愛らしくて、つい意地悪をしたくなってしまう。いい年をした男が、まるでティーンエイジャーのように心を浮つかせている。葦野と恋人になってからのこの半月、穂高は柄にもなく浮かれていた。

    「岳は、成人式はスーツ? 袴? どっちだった?」
    「ん……成人式、出てない。その頃は、大学辞めて色々……」
    「ああ、そっか……」
    「泉は? 袴姿、似合いそう」
    「僕も出てない」
    「えっ、意外……どうして?」
    「僕もその頃、色々忙しくてね」

     祝日の鈍行列車は、ゆっくりとした速度で二人を次の目的地へと運んでいた。


    「おおー」
    「結構大きい施設だね」

     今日の目的は、クライミングジムで汗を流すこと。穂高の地元に新しくジムが出来たことを聞きつけ、ふたりで体験してみることになったのだ。
     三階建てよりもさらに高く見えるビルの外壁はガラス張りで、その内側にはそびえ立つようなクライミングウォールが見えた。ロープを使って壁を登る人影がいくつか揺れている。
     その様子に、隣に立つ穂高がごくんと息を飲んだのを察し、葦野はちらりと視線を向ける。
     昨年の秋に高所恐怖症を発症した穂高は、それ以来、克服のためのトレーニングに余念がない。不慮の事故を完全に避けることは難しいが、知識と経験をもって恐怖心と共存していくことはできる。そう言って、彼はレスキュー講習会に参加したり、ロープワークを学んだりと、仕事以外でも多忙な日々を送っていた。練習と称してレスキューロープで縛られたときは、——ただのもやい結びだったが——若干変な気持ちになったけれど。また葦野と共に山の自然を楽しみたいという気持ちがきっとそうさせるのだろうと思うと、努力している姿が愛おしかった。葦野の琥珀色の目が眩し気に細められた。

    「泉は、やったことある?」
    「実は初めて。山でも鎖場越えるくらいしか」
    「そっか。お互い初めてで嬉しいね」
    「うん」

     葦野が軽い口調で尋ねると、穂高の表情が少しだけ柔らかくほころんだ。彼の手を取ると、少し冷えていた。きゅ、と指先に力を込め、建物の入り口までの数歩をともに歩く。手はすぐに離した。日当たりの良いジムの店先には早くもロウバイの花が開き、新鮮な甘い香りを漂わせていた。

    「クライミング、オリンピックのやつかっこよかったよねえ」
    「うん。あんなにはならなくていいけど、体を鍛えることは間違いなく良いことだから」

     自動ドアが音もなく開き、暖かい空気が二人を包み込む。軽やかなBGM、色とりどりのギアや用具に溢れた賑やかな空間が視界いっぱいに広がった。



    ——



    「えっ、あれ?セン……? 穂高泉! 久しぶり……!?」

     突然受付から、驚きの声が上がった。突然名前を呼ばれた穂高はぎょっとして顔を上げる。そこにいたのは、穂高の記憶よりもいく分か歳を重ねていたが、確かに懐かしい姿の女性だった。

    「えっ……あ、……あ!? 涼子……?」

     葦野は穂高のうしろで小さく首を傾げた。受付に立っていたその女性は、どうやら穂高の知り合いらしい。すらりとした体つきで、肩にかかるボブスタイルの髪が揺れていた。穏やかそうな、同年代の女性。

    「わーほんと久しぶり、懐かしい〜。こっちに帰って来てたんだね? 今何してるの?」
    「いや、あ、うん……そう。都内で働いてる」
    「へえ! そうなんだ。ね、この辺でさ、成人式でライブやったの覚えてる?」
    「あー……そうだね、懐かしいな」

     穂高が低い声で相槌を打つ。二十年前。”成人式に出なかった”理由。インディーズバンドとして地元を中心に活動していた時に、なぜかノリの良い大人たちの目に留まり、あれよあれよという合間にステージ上に運ばれてしまった。オープニングアクトとしてとはいえ、あのスーパーサイズのアリーナの熱気と空間は、今も肌が覚えていた。

    「ライブ?」

     穂高がしみじみと思い出をかみしめているその横で、葦野がポツリと声を漏らした。そういえば。穂高は学生時代、軽音部でギターが得意だと言っていた。その時は聴きたいと何度もせがんだが、色々あって有耶無耶になっていた。頭の隅に追いやられていた彼との約束を思い出す。

    「バンドメンバーのひと?」
    「あ、ごめんなさい、はじめまして。私、長岡って言います。泉とは学生の時のバンド仲間で」

     長岡は葦野の存在に気づくと、胸元に下げられていたネームプレートを掲げた。

    「そうなんだ。はじめまして、葦野といいます」
    「長岡?」
     なじみの無い苗字の響きに穂高が首を傾げた。
    「そー。結婚したの。子どもが二人とも小学校に上がったから、日中だけここで働いてるんだ」
    「そうだったのか……。おめでとう。……全然知らなかった」

     思わずといった穂高の言葉に長岡はなじるような目をして口を開く。

    「知らせてないもん。別れてから連絡先知らないし、セン、転勤ばっかりで、メンバーみんな、どこにいるのか分かんなかったんだよ?」
    「ちょ……っと」
    「え? ふたり、付き合ってたの?」

     葦野の戸惑ったがかすれ声が降ってきた。穂高は、ぎ、と首を回して見上げると、彼は気まずそうに少しだけ視線を逸らした。それからまた穂高のぎこちない表情を見て、困ったように笑った。

    「そうなの。大学のときに。お互い年取ったねー」
    「んっ……」

     穂高はわざとらしく咳払いをして、「もういいだろ」と言わんばかりの視線を長岡に向ける。葦野のコートの袖をぐっと引っ張った。思わず力が入って、葦野が足をもつれさせてよろけた。

    「そうだけど、今はこの人とお付き合いしているから。……とりあえず一時間コース、ふたりとも初心者なので、色々教えてください」



    ——



    「むっ……無理無理無理、むりむり……!」

     ぎいーっと、もはや言葉にならない悲鳴をあげながら、葦野はボルダリングの壁にへばりついていた。その姿はまるで手足を折り曲げて岩壁に張り付くヤモリのようだった。だが膝はガクガクと震えている。
     ビギナーコースは、四メートル程の高さの壁に色とりどりのホールドが無数に埋め込まれているブースだった。専用のウェアに着替えた葦野は、ホールドを必死に掴んでいるが、普段とは違う身体の使い方故、その長身をうまく支えきれていないようだった。

    「岳、頑張って。右手、上に伸ばして」
    「むり、おちるぅ……!」

     そう言いつつも、足元のマットからは三十センチも離れていない。葦野は力尽きたように手の力を抜き、ふらりと壁から離れてマットにへたり込んだ。

    「毎日、硬い茎とか枝とか切ってるのにね……?」
     葦野は悔しそうに、自分の手のひらを開閉させて、その硬さを確かめるように見つめた。

    「うーん……うまく体を使えてないんじゃないかな」

     穂高は葦野の手のひらを両手で包み込むように握ると、そっと自分の手を葦野の腕、肩、背中へと滑らせながら言った。

    「手だけじゃなくて、こう、腕と肩と背中、全部、つながってる筋肉を意識して動かすんだよ」

     葦野は、うーんと首を傾げながら、穂高の手の暖かさにくすぐったそうに笑った。

    「つぎ、僕の番」

     そう言って、穂高は壁の前に立ち、オレンジ色のホールドに手をかけた。一呼吸置いて、足元のホールドに片足をのせ、上方のルートを確認する。
     高所恐怖症を初めて自覚したのは、高尾山の稲荷山コース、標高四百五十メートル地点だった。後日、職場近くの都庁の展望室で再確認しようとしたが、やはり気分が悪くなった。ただ、室内だったこともあり、あの日ほど深刻ではなかった。
     今回、クライミングジムに来たのは、自分がどんなトリガーで恐怖を感じるのか確認するためでもある。そしてもちろん、恋人になった葦野と一緒にアクティビティを楽しむ、という目的も。
     スッと息を吸う。右手に力を込め、ホールドをしっかり掴み、筋肉を駆使して体を持ち上げる。確認していたルートを思い出しながら、無心で登っていく。
     体を動かすのは、好きだ。目的のために筋肉を使う。呼吸と脳と神経がひとつにつながり、体のすべてが連動しているような感覚になる。
     天井に、手が届いた。

    「泉、すごい!」

     ホールドを掴んだまま振り向くと、少し離れた場所に立つ葦野が、心配そうにこちらを見ていた。

    「だいじょうぶ、ぜんぜん怖くない」

     安心させるように声をかける。壁を下りてマットに戻ると、葦野が駆け寄ってきた。

    「すごい、かっこよかった! 一撃だったね!」
    「一撃?」
    「一発クリアのこと言うんだって」

     そう言って、葦野はジム手製と思われる「クライミング用語集」のラミネートパウチを見せてきた。ページをぺらぺらとめくる。

    「へえ……じゃ、つぎ。岳、リベンジ。『ガンバ』 」
    「はぁい」

     葦野はふわりと笑って、再び壁に挑んでいった。
     三十分ほど、お互い夢中で体を動かし、ほどよく汗をかいたところで、一息入れることになった。
     すると穂高の軽快なクライミングに目をつけたスタッフが、彼に体験でトップロープクライミングを勧める。穂高は迷うことなく二つ返事で参加を決めた。



    ——



     葦野はされるがままにハーネスを装着されていく穂高を見ながら、胸がざわつくのを感じていた。いくら命綱があるとはいえ、彼には「怖い」と感じてほしくない。四メートルの高さには余裕を見せていたが、今度の壁は二十メートルもある。
     そんな葦野の心配をよそに、穂高はスタッフとやり取りしながら、聳え立つ壁をスルスルと登り始めてしまった。

    「泉……無理しないでよ!」
    「だいじょーぶ」

     長袖のウェアに隠れているが、その動きから穂高の体が無駄なく、しなやかに動いているのがよくわかる。葦野は最近『ダーウィンが見た!』で放送されていた南米のヤマネコを思い出していた。
     早くも、十メートル地点だ。

    「おわー、やば」
    「ガンバガンバ!」
    「十五メートルの青い星マークまで行ってみましょう!」

     穂高の気の抜けた声に、スタッフが明るく指示を飛ばす。

    「あー、楽しいかも……」

     その一言が、宙にふわりと落ちてきた。その柔らかい響きにホッとしつつも、葦野の心が落ち着くことはなかった。穂高がどんどん遠くへ行ってしまうような、不思議な寂しさもある。
     しかし十メートルを超えると、穂高の動きが少しずつ鈍くなっていく。呼吸も、さっきより浅くなっているようだった。
     不意に、穂高が振り返った。葦野の姿を探すかのように視線が不安気にさまよう。
     目が合った。

    「泉!! 大丈夫!」

     こんなに声を張り上げたのは、いつ以来だろう。その声に、穂高はハッとしたように葦野の目を見つめ、しっかりと頷いた。
     数秒も無いやり取りだった。しかし葦野は自分と穂高の鼓動が、まるで隣で鳴っているかのように感じていた。
     やがて穂高は、残りの数メートルを登り切り、目標の青い星マークに触れる。
     パラパラと拍手が起こり、歓声が上がった。

    「手、離していいですよー。怖かったら目、つむってくださーい」

     スタッフがロープを引き、穂高がゆっくりと降りてくる。今度は、まるで首根っこを掴まれた猫のようだった。

    「泉! がんばったね!」

     穂高の足がマットに着いた瞬間、葦野は駆け寄ってその体を抱きしめた。穂高はにんまりと笑い、背伸びをして葦野の首に手を回し、グッと強く抱きついてくる。

    「あはは、登れた! 岳! 君のおかげだ」

     耳元で、弾けるような声がする。葦野の胸が踊り跳ねるように高鳴った。
     そっと額を寄せ合い、穂高の無事を静かに噛みしめた。



    ——




    「岳? 何見てるの?」

     脱衣所から出た穂高が居間に戻ると、葦野はソファーでスマートフォンを見ながらくつろいでいた。無表情ながら、ほんの少しだけ目尻が下がっている。
     最近彼がハマっているという野鳥の動画でも見ているのかと思い、「シャワーどうぞ!」と耳元で声をかける。葦野は「わっ」と慌ててワイヤレスイヤホンを外した。

    「何の動画?」

     どうやら帰宅してからずっと見ていたらしい。じっと葦野を見つめると、観念したようにスマホの画面を彼へと向けた。

    「!!!!」

     そこに映っていたのは学生時代の穂高だった。クローゼットの奥に今も眠るアコースティックギターを抱え、踊るように弾き語っている姿。

    「帰りがけに、長岡さんがURL教えてくれて……」
    「あ……あ……あいつ……!」

     穂高が低く呟く。ジムの帰り、会員登録をしている横で、葦野と長岡が何か話していることは認識していた。当時は身内だけの記録用に録画したものを、のちに動画投稿サイトへ限定公開でアップしていたのだろう。それにしても、今見ると、下手すぎる。恥ずかしすぎる。

    「ぎいーッ」

     穂高は水滴の残る髪をガシガシと掻きむしった。

    「泉、鳥みたいになってる」
    「誰がコゲラだっ」
    「……かわいいね?」

     葦野は笑いながら穂高の髪を手櫛で整えた。

    「ほら、冷えるから。上、もっと着て」

     そう言って、カーディガンを穂高の肩にかける。湯上りだけではない理由で顔を赤くしている穂高に苦笑しながらも、葦野は「昔の泉も、かっこいいよ」と付け加えた。

    「あー、こんなの見られるくらいだったら、ちゃんと、弾いたのに……」
    「それも嬉しいし、こうやって昔の泉のことを知れるのも嬉しいよ。ちょっと昼間は、やきもちやいたけど。長岡さんもいい人だったし、」
    「……」

     葦野は押し黙る穂高の腕をそっと引いて、隣に座らせた。背中に腕を回し、優しく寄り添う。シャワーを浴びたばかりの体はホカホカと暖かく心地よい。彼が暖かくしているだけで幸せだ、と息を吐いた。

    「泉、大好き」

    その一言が、暖かな夕暮れの部屋に溶けていく。穂高は少しだけ葦野に体重を預けた。

    「ねえ、なんていうバンド名だったの?」
    「シキロック……」
    「へえ、シキってフォーシーズンの四季?泉っぽいね」
    「うん……や、調べても出ないと思うけど」
    「!……めっちゃ出てきたけど、これ?練習風景?」
    「わあーッ!なんで?!……見ないで!」

     スマホを操作する葦野の手元を固定しようと穂高が身を乗り出す。ヤマネコのようなしなやかな重さに、葦野の胸が温まる。スマホを静かに手放すと、その体をそっと抱きしめた。
     しかしそのスマホからは無慈悲にもあの時の音がそのままに流れ続けていた。

    『恋なんだから!』

    「あー、もう……」

     穂高は自分の置かれた状態に顔を真っ赤にしながらも、潔くその体温に身を寄せた。






    ・
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    ・






    断章:階段【B1】
       Seasons Of Love

     下北沢。若者の夢と青春が渦巻くこの町は、夕暮れになると一層雑多で華やかな顔を見せる。日差しが去って涼やかな風が吹き抜け、古着屋のショーウィンドウにネオンが灯り始める頃。
     薄暗い階段をきしませて降りた先に広がるスタジオは、夏の夜の熱気に溢れていた。 古いアンプのガサついた音に溢れ、汗と若さが煮詰まった空間。

    「もっと!!!甘酸っぱく!!!これラブソングだから!!」

     わんわんと響く音の洪水の中を、大学一年生の穂高泉ホタカ センはFホールが特徴的なエレアコギターを抱えて、ぴょんと軽く跳ねながらストロークをかき鳴らす。
     Tシャツの胸元にはすでに汗の跡が付いている。誰よりも熱量のあるボーカル兼ギターが、今日もバンド「シキロック」の中心で飛び回っていた。

    「いや、甘酸っぱさって言われても……」

     深浦ミウラ、通称「ジャンボ」。この中で誰よりも背の高い彼は淡々とベースのリフを刻みつつ肩をすくめた。
     彼は無口で理系、恋バナにはとことん疎い。

    「ジャンボ~お前モテんじゃん!……あと泉〜、彼女いんだろ!? 教えろよ!」

     ドラムを打ち鳴らす川村は、眠そうなのんびりとした声で茶々を入れる。どこからどう見ても日本人の顔だったが全員から「ボブ」と呼ばれていた。

    「俺は数学とベースしか興味ない」

     ジャンボは真顔のままベースを鳴らす。
     この温度差が中学からの腐れ縁兼、農学・理工学部の異端児「シキロック」そのものだ。

    「なんで俺が言わなきゃいけねえんだよ! 自分でイメージしろっての!!」

     穂高は笑いながらTシャツの首元で汗をぬぐった。照明の熱とアンプの音圧が、さらに彼の鼓動をあおる。

    「じゃあ泉ちゃん、恋してる時の顔してみてよー?」

     そこへ、ギターを提げた南雲ナグモ涼子が、メロディを軽く乗せながら口を開いた。シキロックの紅一点。可憐なボブスタイルの髪を揺らしながらも、その指が奏でるのは誰にも負けない超絶技巧だ。

    「っふふ、やだね!!、サビ前のブレイク! そこ!! “恋という季節で~~”のとこ、もっと盛り上げんの!!」

     明るい突っ込みと同時に、しかし指示だけはきっちり出すところが穂高らしい。
     穂高は腕を目一杯広げて、空を泳ぐように体を揺らして笑った。

    「恋なんだから!」

     狭いスタジオに、嵐のような笑い声と楽器の音が混ざり合う。
     汗と青春が弾ける、どうしようもなくまぶしい時間だった。
     

     貸し時間が終わり、四人はギターケースやスティックバッグを肩にかけて、地下から階段を上がる。外気が流れ込み、汗ばんだ身体にひやりと風が触れた。下北沢の町はすっかり夜の顔に移り変わっていた。

    「おつかれーーー! 腹減ったーー!」

     穂高が背伸びをし、夜風を胸いっぱいに吸い込む。南雲が笑いながら肩でギターを揺らす。

    「泉ちゃん、MCお願いしていいの?」
    「うん。あ、そうだ、テラちゃんが今回も手伝ってくれるって」
    「やった~助かるねえ」
    「あとなんだっけな、落研の誰かがラップにハマってるみたいで?なんか今度一緒にやりたいとかいってたなあ…」
    「ラップ?落研?だれ?」
    「えっと……やば、思い出せない。明日行って聞かなきゃ」

    南雲と穂高の業務連絡の後ろでボブはため息をつく。

    「結局甘酸っぱさわかんなかったな」
    「やっぱり泉に教えてもらうか」

     スティックを肩にくっつけたまま首をかしげると、同意するようにジャンボがぼそっと呟いた。

    「おいジャンボ!!」

     穂高は突っ込みを入れながらも、ふと視線を横へ向けた。
     夕暮れが夜へ溶けきる直前の街角。花屋の前で、並んで歩き出す二人の姿が穂高の目に留まる。
     花束を抱えた女の子と、顔を真っ赤にして立ち尽くす男の子。
     その表情を見ただけで、恋が始まる瞬間の、あの甘い気配が伝わってきた。
     穂高はそっと視線をやりながら顎で示す。

    「……ほら、あんな感じ」

    「「!!!甘酸っぱい……!」」
    「泉ちゃん目敏いね〜さすが恋多き男」
    「やめろってば」

     下北沢は今日も若者の夢と恋でざわめいている。
     夜の色がゆっくりと街を覆い、四人は始まったばかりの恋の気配とは反対方向に歩みを進める。
     笑い声と音楽の余韻が夏の夜のひんやりした風に溶けていった。






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    生き物メモ

    ロウバイ

    ( Chimonanthus praecox 蝋梅 )

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    ロウバイは、ロウバイ科ロウバイ属に分類される落葉低木。
    12から2月頃に甘い香りがする黄色い花をつける。
    花は香りが強く、石鹸のような清潔感のある甘い香りがする。

    花言葉は「慈愛」「先見」「先導」など。






     
     
    自給自足作家 オリキャラふたりの生活を書いてます💐 三度の飯と野鳥が好き。 普段は絵を描きながら自然の中で仕事をしています。 趣味はドライブ、編み物、登山 ※No unauthorized use or reproduction. ※ 禁止→絵や文の使用、AI利用、転載

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