
愛が共生する生態系 ⓳ 花曇り
:花曇り
Spring Haze, Lingering Love
しとしとと雨が降り続く日曜の午後。窓の外は厚い雲に覆われ、部屋の中は薄暗い。岐阜への引っ越し準備の手伝いのために葦野は穂高の家を訪れていた。しかし、その表情はどこか浮かず、しきりに重い瞬きを繰り返していた。
「岳、顔色悪いけど。ちょっと休んだら」
穂高は衣類整理の手を止めてその横顔に声をかける。忙しい身であるはずの葦野は休日の度に穂高の家を訪れていた。転勤で離れることになる穂高と、少しでも一緒に居たいという想いが彼を突き動かしている。穂高も愛する相手と長く居られることが有難く、彼の愛情に甘んじていた。
「うーん……でも」
「引っ越しは来週だし、ここまで進んでるんだ。急がなくても大丈夫だよ」
その言葉に葦野は書籍を段ボールに詰めていた手を止め、ふうと息をつくとソファに座り込んだ。穂高は立ち上がり、彼の首筋に手を当てる。
「熱は無いみたいだけど」
「……なんか頭、重くて……だるいかも」
湿気を含んだ声でつぶやき、眉間を親指で押さえる。外の雨脚が強まり、部屋の中はさらに暗さを増した。窓越しにさらさらと雨音が響いている。裏通りの桜並木が、花ごと雨に散らされていく光景が頭に浮かび、穂高は小さく息をついた。午前中よりも気温が下がり、その肌寒さに穂高は無意識に左腕をさすりながら隣に腰を下ろした。
「ちょっと……休憩しようか」
ソファに身体を倒して寄り添う。窮屈ではあったが、葦野が腕を回して穂高を抱き寄せると、互いに目を閉じるだけで眠れなくはなかった。お互いの鼻先にほのかに肌の香りがして、その温もりにこわばっていた体が少し緩んでいく。
「今日、思ったより寒いね」
さらりとした声だったが、葦野はそれを耳に引っかけて目を薄く開けた。
「……泉……」
「ん?」
「腕、大丈夫?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
穂高は軽い調子の言葉を溢したが、葦野の中の心配は消えなかった。しかし彼自身も頭が重くて起き上がる気力はない。葦野は目を閉じたまま、穂高の背に回した手で彼の腕をゆっくり撫でた。今日はもう、お互い休むことしかできない。
「……泉」
「なに」
「泉の、家族のこと知りたい……」
「え?」
葦野は力を抜いて、そのまま肩ごと抱き寄せる。ソファの上で互いに身を預け合いながら、ふたりの呼吸は次第に雨音の中に溶けていく。葦野の突然の問いに、穂高はくぐもった声を上げた。
「……昔、実家でネコ飼ってて」
「ねこ?親とか兄弟は?」
「いるよ、父親と母親と姉とその旦那が。甥もいる。みんな今も埼玉の実家にいる」
あっさりと告げられた家族の輪に、葦野は自分の入れない場所を見るような寂しさを覚える。しかし穂高はそんな葦野の憂いを流すように続けた。彼の背に回した腕で体温を分けるようにゆっくりと撫でる。
「黒いブチがついたデブ猫だったんだ。なのにエラって名前だった。父親がエラ・フィッツジェラルドが好きでさ……」
「あはは、センスいいね」
葦野が吹きだすと、胸元に寄せられた穂高の頭が小さく揺れた。
「どうだか……」
「ねえ……。泉は、ぼくと一緒で本当に良いの?」
葦野は腕の中の身体に少しだけ力を込める。彼を離したくないという本音が、指先の強さで伝わってしまわないかと思いながら、穂高の髪に頬をうずめた。穂高はすっぽりと身体を包む葦野の愛の重さと熱を受け取りながら、満足げに鼻を鳴らした。
「……いいよ。岳と居たい」
「君の家族は、」
「ああ、別に。大丈夫」
穂高は葦野の胸に顔を押し付けるようにしてくぐもった声で笑った。
「君のこと、親にはまだ言ってないけど、婿が来て孫もいるから何も考えてないと思うよ。……事故の時も、飛んで来てはくれたけど、生きて五体満足なら良いって。すぐ帰ってったし。薄情な人たちなんだよ」
「はは、絶対そんなことないでしょ」
二人の間に溶け込む雨の音がにわかに大きくなった。しかし薄暗い部屋の中で寄り添う二人には、その音よりもお互いの呼吸と心音の音ばかりが聞こえていた。一呼吸おいて穂高が口を開く。
「岳は?……君の家族」
「……ぼくは、祖父母に育てられて、……二人とも、もういないよ」
「……そっか」
「だから全然、大丈夫」
葦野の薄色の瞳が鈍く光を湛えた。霧の中で輝く琥珀のようなその色に穂高が手を伸ばす。
「……岳、きみのこと置いていきたくないよ」
葦野の頬に触れたその左手は、相変わらず傷だらけでひんやりとしていた。その言葉に、葦野は心臓を堅い麻の紐で引き絞られるような心地になる。引き止められないと理解して、送り出そうとしているのに、そんな風に乞うのはあまりにも残酷だ。
けれど微かに震える穂高の手にはどこか、しがみつく子供のような必死さがあった。葦野はその手をそっと自分の手で包み込む。
「そんなこと言わないで……」
「毎日連絡するし、三連休は会いにくるから……」
耳元で交わされる約束は、二人にとって嬉しいもののはずなのに、どこか遠い未来のように思えて、お互いの胸に濡れた花びらのように重く沈んでいった。雨の音が二人の間にじわじわと侵食していく。
「……さみしいなあ」
葦野の小さなため息が穂高の首筋を淡く濡らす。これ以上言葉を重ねれば、泣いてしまいそうで、二人はそれきり口をつぐんでいた。
―—
腹の虫の音で二人の目が覚める。雨は上がり、薄い夕日が室内に差し込んでいた。穂高が、段ボールにぞんざいに置かれていた時計を確認すると、十六時半を回ったところだった。
「……おなかすいた」
「んー……泉が良ければ、どこか食べに行かない? 今日はもう、何もしないでさ」
「うん。そうしようか」
二人で顔を洗い、髪は整えないまま、最低限の身なりだけを整えて駅へ向かう。水たまりに映る茜色の空をぼんやりと眺めながら歩く。線路下にある町中華の店が油の香りで客を迎えていた。普段は行列のできる人気店だが、夕方前の時間帯とあって店内はまだ落ち着いている。
暖簾をくぐると、炒め物の音がじゅうじゅうと響き食欲を誘った。
「ここも、なんだか久しぶりだね。油そばにしようかな」
「しばらくは食べ納めかあ……」
葦野の輪郭が溶けたような声に、穂高のため息が重なる。
テーブル席に腰を下ろすと、葦野が低い声で「油そばと餃子を……泉は? あとニラレバ定食、大盛りでいい?……では、それでお願いします」と呟くように注文した。湿った低い声はいつもよりもさらにかすれている。穂高は湯飲みを両手で包みながら、ぼんやりと頷いた。
「泉、そばにしなかったの?」
「なんか無性にレバーが食べたくなって……」
今週、穂高は異動前の引継ぎや挨拶回り、そして引っ越しの準備でいつも以上に身体を動かしていた。そんな風に無意識に体力を補おうとしている彼の逞しさに葦野は笑みを深くする。
やがて料理が運ばれ、二人は言葉少なに黙々と箸を進める。無心で食べる穂高の眼鏡が湯気で少し曇り、葦野は思わず口元が緩んだ。
頼りがいのあるアウトドア姿でも、整った制服姿の役人でもない。湿気で跳ねた髪のまま、なんでもないフリースを羽織って定食を頬張るただの男だった。その目元に刻まれる小さな皺が、どうしようもなく愛おしかった。
やがて穂高も、無言で麺をすすっている葦野をじっと見つめて、同じことを思った。
「……岳」
「ん?」
「これ、少しあげるから、餃子ひとつちょうだい」
「んふ……もちろん。ニラレバも食べたかったから嬉しいよ」
穂高は自分のレンゲでニラレバをすくうと、当然の手つきで葦野の小皿へと移した。
そんな小さなやりとりが店内のざわめきに紛れて、雨上がりの夕方を柔らかく満たしていった。
―—
帰り道は、二人で少しだけ遠回りをした。
「まだ綺麗に咲いてる」
雨に濡れ落ちたソメイヨシノの花びらが、アスファルトの上にぼんやりと明るい色の層を作っている。枝に残った花は厚い雲の切れ間から漏れた夕日に照らされ、かすかに輝いていた。湿り気を含んだ空気の中で、花の香りとアスファルトの匂いが混ざり合う。
頭上では、メジロが鳴き交わしながら花弁を散らしていた。
できるだけゆっくりと歩く。言葉はほとんどなく、並んで歩く靴音だけが小さく響き、雨上がりの静けさの中に置いて行かれるようだった。
穂高の家に戻り、ドアを閉めると、どちらともなくほっと息が漏れる。葦野はそのまま穂高の手を引き、そっと唇を重ねた。オイスターソースの余韻がかすかに残っていた。靴も脱がずに玄関で唇を味わい合う姿が余裕のない学生のようで、可笑しくてくすくすと笑う。そして名残惜しい気持ちを引きずったまま一度離れた。
「岳、お風呂どうする?」
「んー……一緒に入ろうか。お湯張って」
「……うん」
湯が溜まるまでの間に、互いに着替えを用意し、交代で体を洗う。浴槽に半分ほど湯がたまったところで二人で入ると丁度の湯加減になった。
昼間のだるさも古傷のうずきも、湯気と共にじんわりとほどけていく。穂高は葦野の胸に寄りかかり目を閉じる。葦野はその腹に軽く手を回した。ただお互いの呼吸と湯の音だけが浴室に響いていた。
「……生き返るねえ」
葦野が小さな声でそう言って、穂高の肩に額を預け、手首まで伸びる彼の傷痕にそっと頬を寄せた。穂高は目を開けて微かに笑い、「そうね」と答えた。
湯の中で触れ合った指先が、そのまま絡まる。言葉少なに、ふと穂高が顔を傾ける。湯気に包まれた中で、軽い口づけがひとつ。続けて少し深く重ね、唇を離すと、二人とも照れくさそうに笑った。そしてまた肩まで湯に沈むと、世界がしんと落ち着いた。
のぼせないうちに湯から上がり、眠気を誘うドライヤーの風に耐えながら、ようやく寝床にたどり着く。倒れ込むようにして、互いを抱きしめ合った。
「眠いね」
「今日は、もう休もうか」
雨音がまた窓を叩きはじめる。
花曇りの夜、寄り添ったまま二人はゆっくりと眠りへ沈んでいった。
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閑話:パンを買いに
Sustenance for Tomorrow
レモン色がかった朝焼けの空が車窓の奥に見えた。立川駅を過ぎると乗客は殆どいなくなり。電車は滑らかに青梅線へと進路を切っていく。
がらんと空いた車内には一組の登山客しかおらず、遮るものが無くなった車窓にはなんとも浮足立った葦野の顔が映った。自分の顔と目が合った葦野は、子供のようだと苦笑いして目を伏せた。その肩には寄りかかる穂高の前髪があった。葦野はおや、と顔を覗き込むと、先ほどまで彼と同じようにキラキラと輝いていた瞳は閉じられている。ネックウォーマーにうずめられた口元は健やかな寝息を立てていた。
「泉、寝ちゃったの」
朝早かったもんね。と、柔らかく息を吐き、車内に乗客がいないのを良いことに、葦野はその黒髪に頬擦りをした。
午前五時に家を出て、ここまで一時間。目的の御岳駅まではあと少しだ。昨晩遅く帰ってきた穂高には少しだけ酷なスケジュールだった。
「でも早めに出たいって言ったのは泉なんだから」
「……起きてる」
ぼんやりとした声と共に隣の男がのそのそと居住まいを正す。葦野の肩の重みが軽くなる。大きくあくびと伸びをする穂高を、葦野は家じゃないんだからと制すも、僕たちしか居ないじゃないかと彼らしかぬわがままが飛び出す。電車の隅で笑い合って秘密を共有する彼らはどこか少年のように見えた。
「寝ててよかったのに」
「岳と話してたいんだ。足元があったかすぎて眠くなる」
「これあったかいよねえ」
穂高曰く、サクラの開花のピークを過ぎ、登山シーズンが始まろうとしているが、山頂は凍える寒さだという。雪もあるらしい。暖かいインナーに、フリース、お気に入りのマウンテンパーカー。手袋は持ってきたが、大丈夫だろうか。そんなことを思いながら、葦野は新調した白いマウンテンパーカーをギュッと握りしめた。
「泉、アイゼン?結局持ってきた?」
「いや、持ってきてない。もう送っちゃったし、御岳はさすがに雪はないと思うよ」
「あ、そっか」
「ふふふ……ふふ」
触れ合ったお互いの肩が楽しげに揺れる。朝焼けのオレンジ色を映して、穂高の青みがかった虹彩が何とも言えない色へ遷移する。くふくふと息を漏らす穂高へ葦野は覗き込むように視線を向け、その色を密かに楽しむ。
「泉?」
「明後日にはもう、白山に行かなきゃいけないのに。君と早起きして山に登ろうとしてるなんて」
電車は街を抜けて渓谷を走る。木々が朝焼けの光を遮ると、壊れた映写機のように車内に影を作った。
そのたびに穂高はまぶしそうに瞬きをする。
「ふふふ、そうだね。しかも今日のお目当てはパンだから」
「朝五時に起きて、二時間電車に乗って、山登って、パンって……」
御岳駅の近くに新しくできたベーカリー。それが今回の旅の目的だった。
「その、パン屋の友人って言うのはさ」
「あ、パン屋は知らない人なんだけど、ぼくの地元の友達が窯を持ってて、そのパン屋さんはそこで焼いて、いろんなところで売ってるらしくて」
「それが今回、御岳だったってことか」
「そう。いろんなことやってる人が居るよね」
またゆっくりと穂高が隣に体重を預けた。人懐っこい様相のくせにあまり人を寄せ付けない孤高の花屋が、ふと友人のことを話す瞬間が穂高は好きだった。満足そうに笑う目線は窓の外。オレンジ色だった朝焼けは赤みが勝ち、青空と混ざり始める。
「楽しみだね」
電車の走行音にかき消されてしまいそうなほど小さな、けれど心からといった穂高の声に、葦野は鼻の奥がつんと痛む。目を閉じて隣の体温にもたれた。
離れる日はすぐ目の前に近づいている。けれど、自分の肩に預けてくれる重みを抱いて、きっとどこまでだって歩いていける。二人はどちらともなく手を繋いだ。
幸せな山の思い出だった。
生き物メモ
ソメイヨシノ
( Cerasus × yedoensis 染井吉野 )

母をエドヒガン、父をオオシマザクラの雑種とする自然交雑もしくは人為的な交配で生まれた日本産の栽培品種のサクラ。江戸時代後期に開発され、昭和の高度経済成長期にかけて日本全国で圧倒的に多く植えられた。
花言葉は「清純」「高貴」など。