
愛が共生する生態系 ⓲ 金春色
: 金春色
something blue
白い花びらが点々と、落とし物のように落ちている。
玄関から寝室まで続くそのフィールドサインを辿りながら、穂高はふんわりと笑みをこぼす。
彼が葦野の寝室に踏み込んだのは数週間ぶりのことで、その部屋は以前よりも少し荒れている。葦野が生花店としても、アーティストとしても広く注目を集めるようになってから、自宅での制作にも随分と根を詰めていることを、穂高は知っていた。
「ごめん、掃除できてなくて……」
「ある意味、綺麗だよ。前から思ってたけど、きみの部屋ってジブリみたいだよな。ジブリっていうか、あの監督っていうか……」
葦野は眉を下げて振り返る。その背中ごしには、色とりどりの花びらや、乾いた枝くずが散らばるベッドがあった。穂高はいつだかに連れ立って足を運んだ、三鷹の森美術館の趣のある風景を思い出し、喉の奥を鳴らした。
「やめてよ……駿に怒られる……」
「呼び捨て……」
寝床に落ちた花弁を払いながら、ふたりでくすくすと笑い合う。数日前のような気まずさはもうなく、お互いの視線がやさしく揺れて交わっている。
「岳、綺麗に過ごしてそうなのに、意外とズボラなところ、好きだな」
最初こそ驚いたものの、来客用のマットレスで花にまみれて目覚めたころの記憶も、穂高にとってはそう悪いものではなかった。その言葉に、葦野は再び眉をひそめてみせるが、その顔もどこか照れが混ざっている。
「ん……あんまり嬉しくないかも……」
そう言いながら、葦野は穂高の袖をつまみ、引き寄せて抱きしめた。頬を当てた黒髪のひんやりとした手触り。かすかに花の香りがした。店で見慣れた花の匂いだ。その香りを追いかけるように、葦野は穂高の肩に手を添える。ささくれの目立つ指先がそっと首の瘢痕に触れた瞬間、穂高がふっと息を詰めた。
葦野が僅かに体を離して見下ろすと、薄暗い部屋の中で穂高の虹彩がふわりと青くにじんでいる。その目に引き寄せられるように、葦野が静かに口づけを落とした。
ふたりの間に溶け込む空調の音に混ざって、かすかな吐息が穂高の喉からこぼれる。くぐもった熱を逃がすように、葦野は肩口に顔をうずめた。
「泉、もっと触りたい……触らせて?」
「……ん、いいよ。触ってほしい……」
穂高の声もまた熱ににじんで、肩越しに回された手が背中にやさしく重なる。
「ありがとう…泉…大好きだよ…」
葦野はそのまま穂高の手を取り、静かに寝床へと押し倒した。羽毛布団がばさりと音を立て、まとわりつくように咲いていた花びらが、ふたりの動きにほどけるように落ちていく。穂高は目を白黒させながらも、葦野の手首を握って、小さく待ったをかけた。
「……ちょっと、待って。いや、さすがにシャワー浴びたい……」
乱れた前髪の下で、形の良い眉が下がる。
穂高は制服のままだった。事務作業の一日だったとはいえ、道すがら汗ばむこともあったし、肌を合わせるなら、少しでも綺麗でありたいというこだわりが彼にはあった。しかしそれは葦野のかたくなな腕によって遮られる。絶対に放さないという強い執着を、綾野は子犬のような困った笑みの下に隠し、許しを乞うように頬を寄せた。
「でも、きみの匂い、すごく好き。……春の中を歩いてきた匂いがする」
くすぐるように首筋に唇が触れて、穂高はぞくりと肩をすくめる。葦野よりも力があるにもかかわらず、その手から抜け出すことが出来なかった。
部屋に広がる花の香りが、二人の境界線を曖昧にしていく。
「ん、でも」
「泉の、この、制服、かっこよくて大好き……」
葦野の声、指先、唇、呼吸が触れ合うたびに、すこしずつ、穂高の身体の奥がゆるんでいく。ボタンが外れ、硬い芝色の布地の袖がインナーと共に抜かれて、現れた腕の柔らかな瘢痕に口づけを落とされる。そこからじわじわと熱が広がって戻らない。思わず引きつった穂高の声に葦野が顔を上げた。
「泉……泣いてるの……?」
「泣いて、ない」
穂高の声は涙が混ざったようにやわらかくほどけ始めていた。葦野の祈るような淡い口づけに、穂高の抵抗はついに溶かされ、恋人の名を呼ぶ声が甘く掠れた。
葦野の左手がそっと穂高の手に絡む。その薬指に鈍く輝いていた指輪を穂高はもう、しばらく見ていなかった。
——
カーテンの隙間から柔らかな朝の光が差し込んでいた。薄く揺れるレース越しに、まだ冷たい空気の春の朝の気配が感じられる。
「……ん……」
目を覚ました葦野は、隣で寝ている穂高の姿にほんのりと笑みを浮かべた。穏やかに寝息を立てているその頬には、まだうっすらと赤みが、目元には涙の跡が淡く残っている。夜の熱が、まだ彼の体をやわらかく包んでいた。
あの後、葦野はぐずぐずに溶けてしまった穂高をどうにか風呂に入れ、体を拭き、髪を乾かし、ようやく寝支度を整えた。しかし、寝床に入ってからも葦野は彼を離すことが出来なかった。
「泉……ごめんね。無理させた……」
毛布の中で小さく囁いても、穂高が目を覚ます気配はない。いつもなら些細な音にも気づくはずの彼が、今日は深く眠り込んでいる。その寝顔を見て、葦野の胸にはやさしい罪悪感と、それ以上に愛しさが押し寄せていた。
乱れた髪を直そうと、左手をそっと伸ばしたときだった。
その薬指に何かが絡まっていた。
「……お花?」
指先で触れるとかすかに揺れた。
小さな花だった。
葦野にとって灰がかった色合いに見えるそれは、実際には鮮やかに透き通る青色だった。それでも彼にとっては見覚えのある形をしていた。
「デルフィニウムかな」
制作で使った花の切れ端かもしれない。寝床に紛れたものが偶然くっついたのだろうと彼は思ったが、手のひらを返して観察すれば、それがただ絡まっているのではなく、しっかりと指に結ばれていることに気づく。
真結びで、緩く、確実に結ばれたしなやかな細い茎。
ロープワークが得意な穂高が結び付けたものだと葦野は目を見開く。瞬間、その胸の奥が、あたたかく震えた。
「指輪……」
ふと口からこぼれた言葉に、彼自身が驚いた。それは、たしかに指輪だった。
長年左手に嵌めていた指輪は、少し前から外されていた。何もない指に穂高が時折視線を向けていたことを葦野は知っていた。
負い目を感じさせてしまったのだろうという葦野の健気な誤解を、眠る穂高が知る由もない。穂高の胸にあったのは、言葉にできない子供のような独占欲だった。
「デルフィニウムの花言葉なんて、泉は知らないだろうなあ……」
そんな幸せな勘違いに気づくことなく、葦野はくすぐったくつぶやく。そこの声には、甘さばかりがにじんでいる。
実際、穂高は花言葉など知らなかった。ただ、夜の淡い暗闇を纏って落ちていた青を、愛しい指に結びつけ、満足して眠りについたのだ。
ほんのいたずら。けれどそれは、あまりにもまっすぐな愛の形だった。
葦野の薬指には、金春色の指輪が、確かに咲いていた。
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生き物メモ
デルフィニウム
( Delphinium 大飛燕草 )

青紫色から青色の花を咲かせ、その清涼感と華やかさから、
園芸品種も数多く作出されている。
花言葉は、「幸福」「あなたを幸せにします」など。