
愛が共生する生態系 ⓴ ミヤマオダマキ【終】
: ミヤマオダマキ
The Survival Strategy of Our Own
岐阜県郡上市。白山を頂く緑豊かな高原の町、石徹白。新緑の季節はすでに過ぎ、空には夏の雲が広がっては流れていく。風はどこか雨の気配を含み、涼しさとともに集落を吹き抜けていく。
その一角、木造古民家を改装したばかりの建物の前に、地域住民が次々と集まっていた。
軒先に掲げられたロゴマークは、山と川。「いとしろフィールドベース」と記されたその看板の下で、顔馴染みの住民たちは興味深そうに囁き合っていた。吹き抜けになった山小屋風の空間は木の香りに溢れ、「白山の自然」と明記された展示パネルや、ジオラマが並ぶ。所々に置かれた鳥や動物の木製模型が優し気な表情で来館者を迎え入れた。
館内奥のレクチャールームで説明会が始まろうとしていた。およそ三十名の住民、そしてスクリーンの前には三人の職員が並び、そのうちのひとり、穂高がマイクを手に立ち上がった。芝色のシャツに黒のスラックス、柔らかな声音は、場の緊張をふわりと和らげた。
「本日は『いとしろフィールドベース』の説明会にお越しいただき、ありがとうございます。環境省・自然保護官の穂高と申します。……今日はこの場所が何のためにあるのか、そしてここを拠点に私たちが何を目指しているのかを、お話しさせていただきます」
穂高が手元のノートパソコンを操作すると、スクリーンに投影されたスライドがゆっくりと切り替わる。映し出されたのは、石徹白の集落と、その先に続く登山道の写真だった。
「ご存じの通り、石徹白は古くから白山信仰と深い関わりのある土地です。
この山を敬い、慈しみ、暮らしの中に自然とともにある文化を守り継いできた場所でもあります。私たちも、それを学びながら、この地で暮らしていきたいと考えています」
集まった住民の顔ぶれはさまざまだ。代々この地に根を下ろしてきた人もいれば、近年移住してきた若い夫婦や、家族、山に魅せられて通うようになった人もいる。ひとつの集落に、静かな多様性が息づいている。
「しかし、近年は登山者の増加によって……こうした登山道の荒廃、道迷い、そして高山植物の群落への踏み荒らしが問題になっています。特に、希少な植生が失われるリスクが高まっているという調査結果も出てきました」
穂高はスクリーンの地図を指しながら続ける。
「……このフィールドベースでは、皆さんとともに登山道の保全活動や、文化継承を含んだ新しいエコツーリズムの形を試行していきたいと考えています。また、登山者の皆さんに対しては、ルールやマナーの周知、自然との向き合い方の提案を行う発信拠点にもしていく予定です」
静かに、しかし確かな口調で穂高は言葉を紡いでいく。目線は、スクリーンではなく住民ひとりひとりの顔に向けられていた。住民からの質疑に応えながら、穏やかな時間が過ぎていく。
窓の外では、木の葉がざわめき、カッコウやキビタキのさえずりが風に乗って聞こえてきた。
どこからか、花の香りが届く。穂高は深く息を吸った。
「このフィールドベースは、僕たち環境省の職員だけの施設ではありません。ここに暮らし、山に寄り添ってきた皆さんと一緒に、作っていく場所だと思っています。僕自身も、ここに暮らすひとりとして、地域の一員として、皆さんと協働していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします」
その言葉に、ふわっとした拍手が会場に広がる。穂高は軽く頭を下げ、座席に戻りながら、心の中で深く息を吐いた。
——
フィールドベースのインフォメーションカウンターの奥、ガラスで仕切られた環境事務所の一角は、館内と同様に木調でまとめられ、温もりのある空間に整えられていた。まだ新しく、物も少ない。しかしその静けさの中に、居心地のよさが漂っている。
穂高は無垢材のデスクの縁をそっと指で撫で、息をひとつ吐いた。
「穂高くん、お疲れ様。説明会、とっても良かった」
彼の背後から声をかけてきたのは、フィールドベースの所長・石田だった。白山管理官事務所からこの分室に出向してきた彼女は、柔らかい物腰と穏やかな笑みをたたえつつ、どこかに芯の強さを宿した人だ。
「石田所長、お疲れ様です」
穂高は椅子から立ち上がって軽く頭を下げた。その表情には任されたプロジェクトの初日を終えたばかりの安堵と、まだ少し残る緊張とが入り混じる。
「改めてよろしくお願いします。地域連携プロジェクトリーダーなんて……正直、ちょっと荷が重いですが」
照れくさそうに眉尻を下げる穂高に、石田はふっと笑う。
「ううん、そんなことない。あなたが北アルプスや、御苑でやってきた活動や連携の方針、ここでもきっと必要になると思ってた。特にね、地域の人たちとのやりとり、前の所長も言ってたのよ。穂高くんがいたからこそ、ここが始まったって」
「カッコイイっすね、穂高PL」
唐突に聞こえた茶化すような声に、穂高は肩をすくめる。ドア越しにひょっこりと顔をのぞかせたのは、アクティブレンジャーの前田だ。郡上市出身で、数年前にUターンしてきたという若者。首から下げたカメラが軽く揺れている。
「だから前田くん、その呼び方はやめてって……。でも、いえ、僕にできることがあるなら、喜んでやらせてもらいます」
「うん、期待してる。でも、無理はしないでほしいの。……事故のことも聞いてる」
そう言って石田が穂高を真っ直ぐに見つめる。そのまなざしには、押しつけがましくない、けれど確かな気遣いがあった。
「体ももちろんだけど……心も。焦らなくていい。ゆっくりフィールドに順応していけばいいと思ってるから」
その言葉に、穂高の緊張がふっと緩む。新宿御苑でこのプロジェクトに抜擢されたときは、その重責に、なぜ自分なのかと戸惑うこともあった。けれど今、こうして現場のチームと言葉を交わすことで、ここに来てよかったのだと実感する。
「……ありがとうございます」
深く、静かに頭を下げる。石田はいつもの柔らかい笑みを浮かべながら、軽やかな声で話題を切り替えた。肩の上で切りそろえられた髪が楽しげにふわりと揺れる。
「で、さっそくで悪いんだけど。わたし、明日から三日間、いなくなります」
「えっ……」
「え!? まさか、所長……」
「うん。実家の猫にどうしても会いたくて、新しく保護された子が来たのよ~」
「猫ですか……」
「いや、猫は大事っすよね~!」
前田の調子のいい合いの手に、穂高は思わず苦笑する。このチームのくだけた空気の中のどこかしっかりとした安心感。新しい、あたたかな日常の始まりだ。
石田は柔らかな表情を少しだけ引き締めると続けた。
「七月の地域登山道整備イベントまでは時間もあるし、そこまで気張らずにやりましょう? ふたりとも、やるときはちゃんとやって、休むときはしっかり休むこと」
「は、はい……そうですね」
「焦らず、まずはビジターセンターで地域の方や来訪者を迎えて、楽しんでもらうところから。そこから少しずつ、信頼関係を築いていけばいいのよ。ゆっくり、じっくり」
「わかりましたっ!」
「はい」
—―
通用口を開けると、途端に山から吹き下ろす風がすっと抜けていく。草と花、水田の土の匂いが混ざり合い、夏の香りとなって穂高の身体を包んだ。
この日の業務は、午前中の説明会のみだ。早々に片付けを終えた職員たちは、それぞれに帰宅の支度をして、順に事務所を後にしていった。
穂高は胸いっぱいに風を吸い込んでから歩き出す。足取りは軽く、自然と背筋が伸びる。
東京にいた頃とは違い、ここでは道ですれ違う人は皆顔見知りだ。農作業を終えた老夫婦に軽く挨拶をすれば、枝豆と夕顔を山ほど手渡され、思わず苦笑する。薪割りを頼まれ、来週末に手伝う約束を交わす。海外の観光客から道を尋ねられ、顔なじみの民宿まで案内した。その小さなやりとりが、穂高の心の温度をほんのりと温めていく。
ゆっくりと坂道を下る。道に沿って流れる水路の音、キセキレイのさえずりが絶え間なく響き渡る。周囲を広い空と山に囲まれた高原の景色に、心が静かに和らいでいくのを感じながら、穂高はぽつりと呟いた。
「……ただいま」
リフォームされた古民家の平屋が穂高の新しい自宅だ。玄関まで続く小さな庭は、まだ手入れが行き届いておらず草が茂っているが、それもどこか愛おしい空間だった。
野草の匂いを感じながら玄関扉に手をかけたそのとき、スマートフォンが軽やかな着信音を鳴らした。
画面に表示された名前を見て、穂高の口元が自然と綻ぶ。
「もしもし、岳」
『泉、おはよう。今、大丈夫だった?』
「うん。ちょうど仕事から帰ってきたところ」
靴紐を解きながら、スマホを肩に挟んで会話を続ける。数日ぶりに直接耳に届く葦野の掠れた甘い声音が、穂高の胸の奥に滲んでいった。
二人が東京と岐阜で遠距離生活を初めて約二か月がすぎた。この歳になっての「遠距離恋愛」を穂高は案外悪くないと思っていた。毎日のメッセージでのやり取りの中で、その距離を切なく思う日も少なくはない。けれど大切な人が別の土地で自分らしく生きている姿を思えば、自分もしっかりと立っていようと思える。穂高の中で寂しさは自然と励みに変わっていた。
葦野に言わせればこれは「単身赴任」だったが。
『お仕事、お疲れ様。地域……なんとか、リーダー』
「地域連携プロジェクトリーダー」
『ふふっ……それそれ』
他愛もないやりとりにお互いに柔らかい息が漏れる。穂高は葦野の声に耳を傾けながら寝室のカーテンを開いた。窓の外には青空が広がり、その色を映して穂高の瞳が輝く。里山の尾根の向こうは、白く大きな入道雲がもくもくと湧いている。庭先をかすめるようにツバメが低く旋回して、夏の午後を知らせていた。にわかに水路の音が大きくなる。
「ねえ、岳。ビデオ通話にしてもいい?外の景色がすごく綺麗なんだ」
『ん? あっ……ごめん、今、出先で』
「あ、そうだったんだ。確かに川の音が聞こえてるね。何か用事?」
『えーっと……ううん、用事ってほどじゃないけど……。ただ、急に声、聴きたくなっちゃって』
葦野の蜂蜜のような声が、どこか拗ねたようにもたつく。たまらなく可愛い。と、穂高の胸の奥がくすぶるように熱を帯びていく。
「……なにそれ、可愛いやつ」
『んふ……ねえ、泉が住んでるとこって、美濃白鳥だよね?』
「うん?うん、駅とかからは、かなりあるけどね」
『あのね、ぼくの実家、その辺なの』
「はあっ!?」
穂高の声がひっくり返った。脱衣所のタイルに反響して思いのほか音が響く。
衝撃の事実に頭が追いつかず穂高は目を白黒させたが、通話の向こうの葦野はいたって平然と、むしろ少しばかり楽しそうに続ける。
『……あれ? 言ってなかったっけ?』
「言ってな……いや、岐阜っていうのは聞いてたけど」
岐阜なんて、どれだけ面積が大きいと思ってるんだ。と、こぼしながら、穂高は驚きで混乱する頭を抱えつつ、ようやく制服を脱いで洗濯機に放り込む。
『ん? あ……ねえ、泉、着替えてるの?』
「え? うん。暑かったからシャワー浴びようかと」
『えー、見たい』
「なんでだよ……」
『泉不足で、枯れちゃいそうなの』
「やだよ。君がビデオ通話できないんなら、こっちもしないから」
ツンと返しながらも、穂高は頬が緩むのは止められない。ふと視線を向けた先、窓辺の鉢植えでミヤマオダマキのつぼみが、夏の風にくすぐられるように小さく揺れていた。
——
空を悠々とツバメが泳いでいる。午前も終わりに差し掛かり、日差しはじりじりと強い。けれど白山から吹き下ろす風はどこか涼しく、穂高をくすぐるように通り過ぎて行った。
美濃白鳥駅の目の前で、穂高は途方に暮れて立ち尽くしていた。駐車場に立つ街歩きマップを眺めながら首を傾げる。
「……つまり?」
葦野が言うには、こうだった。白鳥町にある実家の花屋が数年前に閉業しており、現状を知りたいから店先の写真を送ってほしい、と。
その話を通話でしたのが先週のことだ。休日の今日。買い出しのために高原から降りてきた穂高は、手がかりの乏しいまま商店街を訪れていた。葦野が告げた場所は、穂高が普段買い出しに行くバイパス沿いの中心街からは外れたエリアで、彼には土地勘がない。
商店街はシャッターの下りた店も目立つが、木造の家屋や老舗の看板が残る通りには、確かに時の流れと共に積み重なってきた暮らしの気配があった。人通りは少ないが、街並みはしっかりと息をしている。
「商店街の端の方……って、ざっくりすぎるよ」
ぼやきながら穂高が水路沿いを歩いていると、彼の視界の隅にひときわ彩りのある店が見えた。間違いなく生花店だった。そして、廃業などしていない。店先には瑞々しい切り花が並び、風に揺れている。
「……聞いてみるか」
ストライプ模様のオーニングテントが張られた店先。ガラス扉の上には、花キューピットの懐かしいロゴが掲げられていた。昭和の雰囲気を残した町屋の店構えだが、店内は手作り感のあるリノベーションが施されており、どこか垢抜けた空気を漂わせている。
「フラワーショップ、……?」
テントに描かれた店名は風雨で掠れ読み取れなかった。穂高はためらいながらも、そっと店先の花に目をやった。
ジキタリス、ルピナス、ルバーブ。大ぶりで個性的な季節の花が目を引く一方で、仏花や小さな花束も揃っており、地元の暮らしに寄り添う様子がうかがえた。
「あっ……」
木箱の上で、青紫色の小さな花を咲かせていた。風に揺れるその花に、穂高の指先が自然と伸びる。花弁に触れないよう、輪郭をなぞるように浮かぶ。
ミヤマオダマキだった。
「綺麗に育ててもらってるんだな……うちにも、君の仲間がいるんだよ」
高山から見る、群青の空の色。
あの春の日、新宿の路地裏で、二人の縁をつないだ花だ。
まさかこんなにも遠い山裾の地で、再びこの花に出会えるなんて。偶然とはいえ、無意識に穂高の息が弾む。買って帰ろうかと考え、屈みこんでそっと鉢を手に取った。
そのとき。ドアベルの柔らかい音がころりと落ちる。微かにがたついた扉が開き、店内から柔らかな男の声がした。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
穂高は鉢のミヤマオダマキを吟味したまま、軽く挨拶を返す。
「あ、その子、ブルースターっていうんですよ。綺麗な青……高い山の上から見る、真っ青な空。宇宙が近いんだなーって思う色。ですよね」
その妙に聞き慣れた声に、穂高は顔を上げた。
視界に揺れるチャコールグレーのエプロン。柔らかな樺茶色の髪。
琥珀色の瞳が微笑む。
穂高の動きが止まる。息を呑んで、立ち尽くした。
そこには葦野が立っていた。
「………」
「……泉?」
穂高はまるでヘッドライトに照らされた鹿のように呼吸すら止めていた。
それはほんの数秒の時間ではあったが、葦野の空気を含んだ掠れた声に穂高はようやく意識を引き戻す。
「おーい、泉さん?」
「……岳?」
「びっくりしてる」
「……す、るよ。そりゃあ………!」
本気で腰を抜かすところだった。と、穂高は現実味が戻ってきた足元に無意識に力を入れる。しかし、その現実があまりにも突飛で、目の前に葦野がいるという違和感や冗談のような再会に、思考が追いつかなくなっていた。今も新宿で花屋をやっていると思っていた恋人が、なぜ、この町に。
様子の穂高を見つめて、葦野の目が弧を描く。
「こ、ここ……」
「ここ、実家」
葦野はテントの文字を指差して笑う。
「フラワーショップ・よし って書いてあるでしょ? ……あ!消えてる……」
「い……いつから?」
「んー? ……半月くらい前かな」
色々片付けて、一週間前からオープンしたの、となんともないような顔で葦野は首を傾げる。毎日交わしていたメッセージ。時々の通話。すべてが、まさか多少の距離はあれど同じ町から行われていた。その事実に穂高は軽く眩暈がしてふらつく。葦野はすぐにその背を支え、また笑って背を撫でた。その体温に穂高の目頭が甘く痛む。
「どうして言ってくれなかったの」
「え〜? 泉だって転勤のこと黙ってたじゃない」
「それは……そうだけど……」
「……遠距離も、少しは楽しかったけど……やっぱり君と一緒にいたくて。ほら、花は、ぼくだったら、どこでも咲かせてあげられるでしょ?」
葦野の表情が、ふっと真剣なものに変わる。
葦野は、穂高が手にしていたミヤマオダマキの鉢を、そっと両手で包み込んだ。まるで、自分の想いごと抱きしめるように。
「……このお店を直して、ずっと待ってたんだ。……ううん。僕ね、きっとずっと、新宿で店をやってる時から、泉を待ってたんだと思う。この子と一緒に、ね」
そのとき、山風がざあっと音を立てて空が翳った。にわかに空気が冷たくなり、やがてさらさらと雨が降り出した。あっという間に、商店街から人気が無くなる。
穂高は葦野の腕を掴み、そのまま店の中へと引き寄せた。その手の力強さと熱に、葦野がわずかに目を見開く。
雨音とふたりの息遣いだけが静かに響く薄暗い店内で、穂高は窓の外に目を向け、それからもう一度、葦野を見つめた。
穂高の穏やかな視線が、スッと鋭いものに変わる。
「岳、僕と……」
穂高の静かで、力強い声が店内に響いた。
雨音が遠くなり、葦野が小さく息をのんだ。
「僕と、ここで、一緒に生きてほしい」
穂高は気づいてしまった。
共にいることで、初めて、世界が立体になるのだと。
葦野が、この人が、花器に生けて花を咲かすのならば、自分は花開くための大地を、それを取り巻く環境を守っていく人間なのだと。
緑溢れる新宿の裏路地の生花店、彼の好きな物がこれでもかと詰め込まれた小金井の家。芸術活動のこと。自分という存在のせいで、彼に諦めさせてしまったのではないか、という自責がそこにあった。
けれど、それらをすべて超えて、この人と、日々を、暮らしを、生命を、補い合う人生を歩んでいきたい。その気持ちだけが、穂高の胸の奥で真っ直ぐに燃えていた。
葦野は目を細め、ふんわりと笑った。その瞳は、雨上がりにきらめく太陽のように、眩しい光をたたえている。それだけが、彼の答えだった。
息をひそめるように佇んでいた花々が、ふっと揺れる。
「……嬉しい。……よろこんで」
「……ありがとう、岳」
多くを語る必要はなかった。ただ、この花に囲まれた場所から、またふたりの暮らしが始まるだけ。それだけのことで、胸が満たされた。穂高は、葦野の腕を掴んでいた手を緩めると、その手を柔らかく、けれど、しっかりと握った。
「ね、……お茶でも飲もうか」
「うん」
雨はすでに小降りになっていた。窓越しに、山の向こうには雲が切れ、淡い光が差し込んでいる。雪の稜線がしっとりと輝いていた。
穂高の隣で、葦野が窓に顔を寄せて呟く。
「……晴れてきた。今まで、見向きもしなかったけどさ、……この町って、本当に山が綺麗に見えるんだね、泉」
葦野の表情が花のように軽やかに綻ぶ。その横顔を見つめ、穂高はそっと手を伸ばした。少しだけ踵を浮かせる。葦野の頬に触れ、目を閉じる。やわらかく撫でるように唇が重なった。
驚いて目を見開いた葦野だったが、すぐに小さく笑って目を伏せた。そして穂高の手を取ると、その腕の中に引き込んで力強く抱きしめる。
そこには、最小単位の個体群があった。
窓の外では、ミヤマオダマキの花が雨露を抱えたまま、青く、静かに輝いていた。
おしまい
本作はフィクションです。実在の地名、建物、公的機関等が登場しますが、実際の団体や業務、事故等とは関係ありません。 山岳描写および事故の経緯は物語上の演出としてお読みください。
生き物メモ
ミヤマオダマキ
( Aquilegia flabellata var. pumila 深山苧環 )

数輪の青紫色の花を美しい花をうつむきぎみにつける。
園芸に栽培されるオダマキの原種とされている。
花言葉は、「温和」「あの人が気がかり」「愚直」など。