
『秘密の部屋』 後編
第十六章 十月三日
試験最終日。
最後の科目が終わった時の、この心地よい脱力感。
頑張ってよかったと新葉は思う。
放課後、試験から解放された五人はカラオケに向かった。
下村が言う。
「終わったー」
「終わったねー」
「やっと終わった」
大沢が言う。
「赤点じゃないといいけど」
「私も」
新葉が言う。
「大矢は?」
「大丈夫」
「いいなあ」
下村がため息をつく。
「大矢って試験勉強どのくらいしてたの?」
「普通に」
「普通にってどのくらい」
「そんなのわからないよ」
下村がまたため息をつく。
高部も言う。
「私も自信ない」
「すーちゃんも?」
「数学が不安で」
「私も数学不安」
大沢が明るく言う。
「みんな数学不安なんだね」
「大矢以外」
「大矢以外」
「大矢以外」
大矢が言う。
「教えるって言ったじゃん」
「試験終わってから言っても遅い」
「次の試験で活かせばいいから。てか、この前言ったし」
「次の試験」
下村はため息をついている。
「また試験があるのか」
みんなが笑う。
カラオケに着いた。
ドリンクを頼んで部屋に入る。
大沢がすぐにマイクを持つ。
「私から」
「もえちゃん早い」
「みんなも早く入れなよ」
大沢が曲を入れる。
テンポのいい曲だった。
さすがに一番手で歌い始めるだけあって上手かった。
下村が立ち上がって踊り始める。
「さすがひよりん、キレキレ」
「鍛え方が違うから」
高部が手拍子する。
新葉はモニターを見ている。
大矢はドリンクを飲んでいる。
大沢が歌い終わる。
「はい次、誰?」
下村がマイクを取る。
「私」
こちらも元気のいい曲を入れる。
下村が歌いながら踊る。
難しい曲で、しかも踊りながらなのに全く音程を外さない。
大沢も一緒に踊る。
二人でわちゃわちゃしている。
高部が笑いながら手拍子をしている。
新葉もにこにこしながら見ている。
大矢がドリンクのおかわりを頼んでいる。
下村が歌い終わる。
「すーちゃんは?」
「私?」
「歌ってよ」
「何歌えばいいかな」
「なんでもいいよ」
高部がゆっくり曲を選ぶ。
しっとりした曲だった。
歌い始める。
自然と静かになった。
演劇で鍛えた声だろうか。
遠くまで伸びていくようで、濁りのない澄んだきれいな声だった。
大沢が小声で言う。
「すーちゃんって歌も上手いでしょ」
下村が小声で返す。
「ほんとだね」
新葉も感心しながら聴いていた。
高部が歌い終わる。
みんなが拍手する。
高部が少し照れる。
「なんか恥ずかしい」
「上手かったよ」
「声がきれいすぎる。透明感やばい」
「ありがとう」
大沢が言う。
「はい次、新葉」
「私?」
「歌ってよ」
「なんか久しぶりだな」
新葉が曲を選ぶ。
高部ほどではないがスローテンポな曲を入れる。
前の三人みたいな上手さはないけれど、温かくて心地いい歌声だった。
大矢が言う。
「新葉らしい」
「どこが?」
「全体的に」
みんなが笑う。
下村が言う。
「大矢は?」
「うん」
大矢が意外とすんなりマイクを持って立ち上がる。
新葉が歌っている間に、さっさと曲も入れていた。
「何入れたの?」
「これ」
モニターに曲名が出る。
みんなが少し首をかしげる。
知らない曲だった。
イントロが流れる。
静かで綺麗なイントロだった。
大矢が歌い始める。
驚くほど上手かった。
普段物静かなせいか歌声のイメージが全くなかったが、心にしっかりと響いて残る声だった。
しかも歌詞が、今の自分たちの気持ちに刺さってくる感じがした。
一言一言が、胸の奥に届く。
下村がぽかんとしている。
大沢も口を開けている。
高部がそっと目を細めている。
新葉はぼんやり聴いていた。
でもいつもとは違うぼんやりだった。
なんか、泣きそうだった。
大矢が歌い終わる。
アウトロの間、誰も何も言わなかった。
曲が終わるのを待っていたかのように、下村が言う。
「すごい。大矢ってめちゃくちゃ歌上手いじゃん」
「そう?」
「そうだよ。知らなかった」
「こういう機会なかったもんね」
大矢はあっさりとしている。
大沢が言う。
「その曲、なんで選んだの?」
大矢が少し考える。
「なんとなく」
「なんとなくでそれ選べるのがすごい」
高部が珍しく少し興奮気味に言う。
「なんか、今のみんなにぴったりだった」
「そう?」
「うん」
新葉も言う。
「大矢って、やっぱり何でもできるんだね」
大矢が少し間を置く。
「そうでもないよ」
「そうだよ」
「そうかな」
下村が言う。
「そうだよ。でもそれが大矢だから」
大矢はそれ以上何も言わなかった。
それから、また大沢が歌い始め、しばらくみんな思い思いに歌った。
他愛のない話もした。
気づいたら三時間経っていた。
外に出ると、秋の夜風が少しだけ冷んやりと火照った頬を撫でた。
「楽しかったー」
「楽しかったね」
「また来ようよ」
「来よう」
五人で並んで歩いた。
空を見上げると、月が見えた。
もう少しで円になりそうだった。
新葉たちと別れた大沢と高部が二人で歩いていた。
しばらくお互い黙っていたが、高部が声を発した。
「楽しかったね」
「楽しかった」
「大矢の歌、あの一曲だけだったけど、なんかすごかったね」
「すごかったね」
大沢がまた少し黙る。
「すーちゃん」
「うん?」
「私ってさ」
「うん」
「大矢見てると、なんか変な気持ちになるんだよね」
「変な気持ちって?」
「うまく言えないけど。最近よく一緒にいるから余計に」
大沢が空を見上げる。
「大矢って何でもできるじゃん」
「うん」
「私もわりと何でもできるほうだと思うんだけど」
「そうだね、昔から」
「でも大矢見てると、自分の中途半端さが際立つというか」
高部が少し考えてから言う。
「中途半端とは違うんじゃないかな」
「そう?」
「うん。もえちゃんって、なんでも楽しそうにやってるじゃん」
「うん」
「それってとっても大事なことだと思うよ」
「でも楽しいかどうかもわかんないんだよね」
「え?」
「書道が好きかどうかもわかんないし、何がしたいかもわかんないし」
少し間が空く。
「明るくしてたら誰も気づかないからいいんだけど」
しばらく間をおいて高部が言う。
「私は気づいてたよ」
「気づいてたんだ」
「うん。なんとなく。でもいつも楽しそうにしてるもえちゃん、いいと思う」
大沢が笑う。
「すーちゃんって、前から私こといろいろ気づくよね」
「そりゃあ、ずっと一緒にいるからね」
「そっか」
「もえちゃんがいると、みんなハッピーな気持ちになることも知ってる」
「うん」
また少し黙って歩く。
大沢がぽつりと言う。
「大矢って、チアの練習よく見てるじゃん」
「うん」
「あれって何でだと思う?」
「楽しそうだったからって言ってたよね」
「うん。でも私のことは見てるのかな」
高部が少し考えてから、前を見つめて言う。
「見てるんじゃないかな」
「そうかな。そんなふうに思ったことないけど」
その時、スマホが鳴った。
大沢が画面を見る。
「え?大矢?」
大矢からのメッセージだった。
『楽しかったね。また一緒に遊ぼ』
それだけだった。
大沢はしばらくスマホを見ていた。
「大矢から」
「何て?」
「楽しかったねって」
大沢が高部を見る。
「また一緒に遊ぼって」
高部が少し笑う。
「大矢がそういうメッセージ送ってくるの、なんか、ぽくないね」
「そうだよね。ぽくないかも」
高部が大沢を見て言う。
「ちゃんと見てるんだね」
大沢がもう一度メッセージを見る。
「そうかな」
「そうだよ」
「そうかな」
大沢が返信を打つ。
『うん、また一緒に遊ぼ』
送信する。
すぐ既読がついた。
返信はなかった。
でもそれが大矢らしかった。
大沢が笑う。
「なんか、いいね」
「うん」
「わかんないことだらけだけど」
「うん」
「でも、楽しいからいいか」
大沢の笑顔を見て高部が言う。
「それでいいんじゃない」
大沢がまた空を見上げる。
月が見えた。
まん丸に近くなってきた。
試験最終日。
桜子たち四人は、片桐の打ち上げだーという元気な掛け声とともにファミレスに向かった。
席に座るなり、伸びをしながら片桐が言う。
「終わったー」
「終わったね」
「やっと終わった」
蔵本が言う。
「長かったな」
「長かった。三日間でだいぶ老けた」
メニューを開く。
片桐がハンバーグを頼もうとして、桜子の様子を見る。
「さくちゃんもハンバーグ?」
「うん」
「かぶった」
「いいじゃん」
蔵本がドリアを選ぶ。
佐倉がオムライスを選ぶ。
片桐も結局ドリアにした。
「ハンバーグじゃないじゃん」
桜子が指摘する。
「やっぱりドリアな気分」
料理を待ちながら話す。
片桐が言う。
「ねえ、さくちゃんってどんな映画好き?」
桜子が少し考えて答える。
「レオンとか。タランティーノも好き」
「なんか渋いねー。私はプラダを着た悪魔みたいなのが好き」
「それ好きそう」
「何回も見た。一年の時にゆうに勧めてもらったんだよね」
佐倉が言う。
「いい映画だから」
「ハリポタ大好きなくせに、それ全然言わないでプラダ勧めてくるのがゆうらしい」
「いい映画はいい映画だから」
蔵本が笑う。
「ゆうって、こういうとこ好きやわ」
「どういうとこ?」
「真面目に変なこと言うとこ」
「変なことは言ってない」
桜子が片桐を見て言う。
「プラダを着た悪魔は名言多いよね」
「さくちゃんも好きなの?」
「うん」
「意外」
「意外じゃないでしょ」
みんなが笑う。
料理が来た。
しばらく食べながら話した。
夏休みまでは、桜子は佐倉といつも二人でいた。
今ではいつも四人だ。
まだたった一か月くらいだけど、この時間の中にいられることを、桜子は心地よく思うようになっていた。
気づいたら外に出ていた。
もう秋だなという空気になっている。
片桐が空を見上げる。
「月きれい」
「きれいだね」
丸に近い月が浮かんでいた。
蔵本が言う。
「もうすぐ十五夜やね」
「そうだね」
「秘密の部屋、そろそろかな」
桜子が月を見る。
「そろそろかもしれない」
四人でしばらく月を見ていた。
それから、それぞれの方向に帰っていった。
第十七章 十月六日
昼休み。
大沢が突然言い出した。
「お月見のお供え物置いてみようよ」
四人が大沢を見る。
「お供え物?」
「廊下の突き当たりに」
「なんで?」
「秋といえばお月見って前にみんなも言ってたじゃん」
「まあそうだけど」
「それだったら鶴田先生とか他の人たちも覚えてるでしょ」
「気持ちの問題なんじゃない?秋を感じる心が秘密の部屋を呼び覚ます」
大沢は一人で盛り上がっている。
高部が静かに言う。
「お供え物って何を置くの?」
「月見団子とかススキとか」
「月見団子どこで買うの?」
「コンビニにあるんじゃない?」
大矢が言う。
「今の時期ならあるかも」
「じゃあ買ってこようよ」
「誰が?」
「みんなで行こ」
新葉が言う。
「ススキってどこで手に入れるの?」
「川原とか生えてるんじゃない」
「取りに行くの?」
「行こうよ」
下村が言う。
「放課後、川原でススキ取って、三年生の廊下に置くの?」
「そう」
「なんか絵面がやばいね」
みんなが笑う。
大矢が言う。
「先生に見つかったらどうするの?」
「お月見の練習とか」
「意味わかんない」
「じゃあ何て言うの?」
「考えてなかった」
高部が言う。
「鶴田先生に言えば見逃してくれるんじゃない?」
「それもそうか」
大沢が言う。
「じゃあ今日放課後川原行ってススキ取って、コンビニで月見団子買って、廊下に置く」
「行動力あるね」
「善は急げって」
新葉は黙って聞いていた。
お供え物か。
鶴田先生もこんなことをしたのだろうか。
放課後、帰宅部と書道部の三人は教室で時間をつぶした後、下村と高部を迎えに行くことにした。
体育館の前まで来ると、今日はチアが外で練習をしていた。
見ると下村が列の真ん中で踊っていた。
大沢が手を振る。
下村が気づいて小さく手を振り返す。
大沢が「後でね」と口だけ動かす。
下村が「わかった」と頷いて、またすぐ踊り始めた。
三人で演劇部の練習場所の方に向かった。
今日は体育館のステージを使わせてもらえると聞いていた。
扉が少し開いている。
中から声が聞こえる。
大沢が覗き込んで、止まった。
「あ」
小声で言う。
「どうしたの?」
新葉も覗き込む。
ステージの真ん中に高部がいた。
でも、いつもの高部じゃなかった。
まっすぐ前を向いて、大きな声でセリフを言っている。
おっとりした雰囲気は消えていた。
全然違う人みたいだった。
大矢が小声で言う。
「高部って、ほんとにすごいね」
大沢も小声で言う。
「ほんとにすごい。レべち」
新葉は驚きながら見ていた。
いつもおっとりしていて、ふわふわしてると言っていた高部。
どこにいてもここでいいのかなって思うと言っていた高部。
その高部が今、全然違う顔をしている。
迷いがない。
ふわふわしていない。
ちゃんとそこにいる。
なんで高部はあんな顔ができるんだろう。
舞台の上だけが自分らしいって言ってたけど、でも今見ると、あれが本当の高部な気がする。
普段のおっとりした高部も高部だけど、舞台の上の高部も同じくらい高部だった。
自分はどうだろう。
自分らしい顔ができる場所が、どこかにあるだろうか。
鍵をポケットの中で握る。
わからないけど、でも、どこかにはあってほしいと思った。
練習が終わった。
高部がこちらに気づく。
少し驚いた顔をして、それからいつものおっとりした顔に戻った。
「来てたの?」
「迎えに来た」
大沢が言う。
「お供え物チャレンジ、一緒にやろうと思って」
「チャレンジ?」
「月見団子とススキ」
「ああ、そうだったね」
高部がカバンを手に取る。
「やろうよ」
「わかった。着替えてくる」
三人で高部を待つ。
大沢が小声で言う。
「すーちゃん、すごかったね」
「うん」
大矢が言う。
「別人みたいだった」
「言ったら恥ずかしいかな」
「言えばいいじゃん」
高部が戻ってくる。
大沢が言う。
「すーちゃんの演技、めちゃくちゃよかった」
高部が少し俯く。
「ありがとう」
「普段と全然違う」
「そう?」
「全然違う。びっくりした」
高部が恥ずかしそうに笑う。
「舞台の上だと、なんか変わるんだよね。自分でもわかる」
「いいな」
新葉が言う。
高部が新葉を見る。
「新葉も、そういうとこあると思うけど」
「私?」
「うん」
「どこが?」
「なんとなく。新葉のスイッチ、どこかにあると思う」
言われてみて、新葉は考えてみる。
自分がそういう顔をする場所なんて、思い当たらなかった。
でも高部がそう言うなら、あるのかもしれない。
「行こうか」
大沢が言う。
「川原でススキ取って、コンビニで月見団子買って」
「順番逆じゃない?」
「どっちでもいいじゃん」
「逆のほうがいいって」
四人で歩き始めた。
体育館の外に下村がいた。
「チア終わったの?」
「今終わった」
汗を拭きながら言う。
「すーちゃんの演技見た?」
大沢が言う。
「見た見た」
「すごくなかった?」
「すごかった。別人みたいで」
高部が俯く。
「やめてよ」
「褒めてるんだよ」
「恥ずかしい」
大矢が高部の肩を叩く。
「かっこよかったよ」
「ほんとにやめて」
みんなが笑う。
「で、お供え物チャレンジ今日やるんでしょ?」
下村が言う。
「やる」
「私も行く」
「チア終わりで疲れてない?」
「全然。むしろ行きたい」
大沢が言う。
「じゃあ五人で行こう」
「川原でススキ取って」
「コンビニで月見団子買って」
「廊下に置く」
下村が笑う。
「改めて言うと相当やばいね」
「やばいけど」
「やるけど」
五人で歩き始めた。
コンビニよりも近くに川原があった。
空が少し赤くなっていた。
「ススキってどのくらい取ればいいの」
下村が言う。
「三本くらい?」
「三本って少なくない?」
「じゃあ五本」
「一人一本ずつか」
川原にはススキがたくさん生えていた。
大沢が一本引っ張る。
「取れた」
「意外と簡単に取れるね」
高部も一本取る。
「ふわふわしてる」
「かわいいね」
下村が勢いよく三本取る。
「取りすぎ」
「多い方がお供え物っぽくない?」
大矢が一本取りながら言う。
「一本でいい」
「そっか」
新葉も一本取る。
風が吹いてススキが揺れる。
「けっこう大きいんだね」
「やっぱりコンビニが先だったじゃん」
空を見上げると、月が出ていた。
「きれいだね」
高部が言う。
「十五夜だから」
大沢が言う。
「明日が満月なんだっけ」
「そう」
下村が月を見上げる。
「惜しいね」
「何が?」
「満月じゃないのが」
「あれ?そういえば十五夜って満月じゃないの?」
「ちょっとズレることがあるんだって」
「へえ」
「じゃあ十五夜って何?」
「明日でもよかったじゃん」
「思い立ったが吉日なのだ」
大沢はどうしても今日がいいらしい。
新葉はしばらく月を見ていた。
丸に近いけど、少しだけ足りない。
なんとなく、自分みたいだと思った。
コンビニに入った。
ススキを持った女子高生が五人というのは何とも怪しげだ。
大沢がパッケージを見ながら言う。
「三本入りだ」
「五人なのに」
「じゃあ二個買う」
「余るけど」
「食べればいいじゃん」
「お供えした後で?」
「お供えした後で食べよう」
下村が言う。
「バチ当たりじゃない?」
「大丈夫でしょ」
大矢が言う。
「神様でもないし」
「まあそっか」
五人で校舎に入り、三年生の廊下の突き当たりに向かう。
下村がきょろきょろしながら言う。
「なんか緊張するね」
「三年生の棟だから」
「いつもは来ないから」
大矢が言う。
「同じ学校だけど」
「でも違う空気がする」
大沢が笑う。
「秘密の部屋探してる時点でもう十分やばいのに」
「確かに」
廊下にも教室にも、もう誰もいない。
「片桐先輩たちもいないね」
そう言いながら下村がススキを壁の前に置く。
大沢が月見団子も置く。
五人で並んで見る。
下村が言う。
「なんかそれっぽい」
「そうだね」
「でもここ廊下だからね」
「廊下のお月見」
大沢が笑う。
「シュールだねー」
しばらく待つ。
何も起きない。
高部が言う。
「何も起きないね」
「だね」
「供えたらどうするとか考えてないし」
「お供え物じゃないか」
「じゃあ何なんだろう」
「秋を感じる気持ちが足りないとか」
また少し待つ。
やっぱり何も起きない。
大矢が言う。
「帰ろうか」
「そうしよう」
「てか、みんなこうなると思ってたでしょ」
「まあ」
「うすうすは」
「ほぼほぼ」
「こうなるの確定してた」
下村が笑いながら月見団子を手に取る。
「食べていい?」
「食べよう」
五人でその場で月見団子を食べた。
意外と甘かった。
ばかばかしいこの時間が妙に愛おしかった。
食べ終わって帰ろうとして立ち上がり、新葉はふと周りを見た。
廊下の突き当たりの壁に、絵が飾ってある。
廊下の端の目立たない場所に、ひっそりと飾られていた。
こんなところに絵なんてあったっけと思う。
十五夜の月明かりが廊下の窓から差し込んで、絵をちょうど照らしていた。
近づいてみる。
古い油絵だった。
夜の学校の廊下が描かれている。
廊下の突き当たりに、扉がある。
しかもよく見ると、絵の中の廊下と今立っている廊下がとても似ている。
同じ窓の位置。
同じ壁の色。
扉の前に、装飾のある鍵も描かれていた。
あの鍵だ。
窓の外の空には、満月が浮かんでいる。
新葉は絵を見つめた。
鍵。
扉。
満月。
鍵をポケットの中で握る。
「みんな、ちょっと見て」
声が少し震えていた。
四人が集まってくる。
大沢が不思議そうに言う。
「何これ?」
下村が驚いた声で言う。
「鍵と扉と満月じゃん」
高部がしみじみと言う。
「ずっとここにあったんだね」
大矢も珍しく目を丸くして言う。
「気づかなかった」
五人で絵を見ていた。
廊下は静かだった。
月明かりが絵を照らしている。
新葉はしばらく動けなかった。
同じ日の放課後。
試験が終わった翌週なのに、三年生はもう補習が始まった。
図書室に四人で集まった頃には、もう薄暗くなりかけていた。
佐倉が、もう一度ちゃんと学校新聞を調べようといって三人を連れてきた。
四人でそれぞれ、何冊かの冊子を手に取って座った。
蔵本がぱらぱらめくりながら言う。
「なんか新しいの見つかるんかな」
しばらくみんなで黙って新聞をめくっていた。
「今日十五夜やんな」
蔵本が急に言う。
「そうらしいね」
「お月見とかする?」
「しない」
桜子が言う。
「え、しないの?」
「する家あるの?」
「うちはするよ。お団子食べる」
「へえ」
佐倉が言う。
「うちもする。毎年」
「丁寧やな」
片桐が言う。
「うちも今日お団子買ってくる。引退したらこういう時間できるんだね」
蔵本が言う。
「なんか急に秋って感じするわ。夏の間は部活で必死やったから」
「茶道部に夏とか必死とかないでしょ」
桜子が言う。
「集中しよう」
「そうやね」
しばらく黙って読む。
月一回発行だから、まあまあ多くの記事がある。
片桐がぱらぱらめくりながら言う。
「あった」
三人が顔を上げる。
「秘密の部屋の記事」
「何て書いてある?」
片桐が読む。
「三年生の生徒へのインタビュー。放課後に三年生の廊下を歩いていたら突き当たりに見たことない扉があった。でも近づこうとしたら消えてしまったって」
「日付は?」
「十月十二日の放課後に見たって書いてある。インタビュー形式で日付まで聞いてる」
「十月か」
「この前は日付書いてある記事見つけられなかった」
「てか、あんまり日付まで気にしてなかったし」
蔵本が言う。
「やっぱり秋やね」
「他の号は?」
桜子が自分の冊子を確認する。
「こっちも似たような証言。突き当たりに知らない扉が見えたけどすぐ消えたって。日付もある。九月二十三日」
「九月も秋か」
佐倉が自分の冊子を確認する。
「あれ?こっちのは三月十八日」
「三月?」
「春じゃん」
片桐が言う。
「秋じゃない記事もあるんじゃん」
蔵本が自分の冊子を確認する。
「これは二月十一日」
「冬じゃん」
四人で顔を見合わせる。
「秋ばかりじゃないね」
「じゃあ秋が条件じゃないのかも」
「今更?」
「じゃあ何が共通してるの」
しばらく黙る。
片桐が言う。
「季節関係ないってこと?」
「かもしれない」
「えーなんでー」
「じゃあ何だろう」
「詰んだ」
また黙る。
蔵本がぽつりと言う。
「月とか関係あるんかな」
「月?」
「今日ちょうど十五夜やから思っただけやけど、この前も満月がどうとかとか言ってたやん」
佐倉がスマホを取り出す。
「月齢カレンダーで調べてみる」
三人がスマホの画面を滑らす佐倉の指の動きをじっと見ている。
しばらく静かだった。
佐倉が日付を一つずつ確認していく。
九月二十三日。
十月十四日。
三月十八日。
二月十一日。
「うわ」
佐倉が急に顔を上げて、三人の顔を順に見る。
「全部満月の日だ」
「え?」
片桐が言う。
「満月が条件?」
「その可能性が高い」
「そんなわかりやすそうなのに、今まで誰も気づかなかったの?」
「月って意外と見てないんじゃない?」
「いつも晴れてるわけでもないし」
「校舎の中にいるし」
蔵本が言う。
「明日が満月やん」
四人が顔を見合わせた。
「明日」
「十月七日」
「天気予報は?」
「確か晴れになってたはず」
桜子が思い出すように言う。
「明日の放課後に廊下に行けば」
佐倉が言う。
「現れるかもしれない」
片桐が立ち上がる。
「妹に連絡する」
桜子がスマホを取り出す。
その時、新葉からメッセージが来た。
『廊下に変な絵があった。今すぐ来て』
四人で顔を見合わせた。
第十八章 十月七日
翌朝、新葉は鶴田先生を探した。
職員室の前で声をかける。
「先生、少しいいですか」
鶴田先生が廊下に出てくる。
「どうしたの」
「昨日、廊下に絵があるのに気づいて」
「絵?」
「三年生の階の突き当たりのところに。鍵と扉と満月が描いてある絵」
鶴田先生の表情が少し変わった。
「見たことありますか?」
鶴田先生はしばらく黙っていた。
「あの絵、まだあるんだ」
「知ってたんですか?」
「昔から飾ってあったから」
「先生も気にならなかったんですか?」
「あるのは知ってたけど、そんなにじっくり見たことなかったし」
鶴田先生が少し遠い目をする。
「答えまでは気づかなかった」
「答え?」
新葉は少し間を置いてから言う。
「満月が条件だと思うんです」
鶴田先生が新葉を見る。
「満月?」
「学校新聞の記事の日付を調べたら見たという証言は全部満月の日で。絵にも満月が描いてあって」
鶴田先生はしばらく黙っていた。
「満月、か」
「先生が部屋に入ったのも満月の日だったんじゃないかと思って」
鶴田先生が少し考える顔をする。
「秋だったって言ったけど」
「秋じゃなくても春や冬にも見たっていう記録があって。季節は関係なかったみたいで」
「そうか」
鶴田先生がまた少し遠い目をする。
「満月、か」
もう一度言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
「今日が満月なんです」
新葉が言う。
「今日?」
「十月七日」
鶴田先生が窓の外を見る。
まだ昼間だった。
「今夜」
「今夜、廊下に来てもらえませんか?」
鶴田先生はしばらく黙っていた。
こんなにも自分から進んで人に声をかけることは、今までなかったかもしれない。
でも鍵を拾った。
自分が先生に声をかけなきゃって思った。
やがて鶴田先生が言う。
「わかった」
「本当ですか?」
「行く」
少し間が空く。
「高校の時に満月だったかどうか、覚えてないんだけど」
「調べてみます」
「いや、いい」
鶴田先生が少し笑う。
「今夜わかるから」
新葉はポケットの中の鍵を握った。
放課後。
三年生の廊下に十人が集まった。
鶴田先生も来ていた。
「先生、来てくれたんですね」
大沢が言う。
「来るって言ったから」
「でもなんか、先生が一緒にいると変な感じ」
「そう?」
「先生というか、先輩というか」
鶴田先生が少し笑う。
「どっちでもいいよ」
十人で突き当たりの前に並んだ。
絵がある。
鍵と扉と満月。
鶴田先生が絵を見る。
「この絵、懐かしいな」
「知ってたんですか?」
「昔から飾ってあったから。でもこんなに意味があるとは思ってなかった」
片桐が言う。
「先生は高校の時にここに来たんですか?」
「来た」
「部屋、見えましたか?」
「見えた」
「やっぱり」
「でもどうして見えたのかわからなかった」
鶴田先生が窓の外を見る。
まだ明るかった。
「満月が昇ってくるまで待つの?」
「たぶんそうだと思って」
新葉が言う。
「そっか」
十人で廊下に座って待つことにした。
蔵本が言う。
「なんか遠足みたいやな」
「廊下で座って待つ遠足」
「それはただの待ちぼうけ」
片桐が笑う。
下村が言う。
「お菓子持ってくればよかった」
「それは遠足すぎる」
大沢が言う。
「私グミ持ってる」
「え、くれる?」
「いいよ」
大沢がカバンからグミを出す。
十人で分ける。
「ありがとう」
「先生もどうぞ」
鶴田先生も受け取る。
なんとなく、みんなで笑った。
だんだん外が暗くなってきた。
廊下の照明がついている。
高部が言う。
「なんか、緊張してきた」
「私も」
下村が言う。
「ほんとに現れるのかな」
片桐が不安そうに佐倉を見た。
「現れると思う」
佐倉がきっぱりと言う。
「でも現れなかったらどうしよう」
まだ不安そうな片桐に大矢が言う。
「その時はその時です」
「あっさりしてるね」
「でも、現れると思うんです」
高部が言う。
「大矢もそう思うの?」
「うん」
大沢が笑う。
「大矢が言うと説得力ある」
「なんで?」
「大矢だから」
鶴田先生は窓の外を見ていた。
新葉が隣に座る。
「先生、高校の時に部屋に入った時、何が見えたんですか?」
鶴田先生は少し間を置く。
「それは」
「教えてくれないんですか?」
「自分で見た方がいいから」
「また言う」
新葉が少し笑う。
鶴田先生も笑う。
「でも」
鶴田先生が言う。
「入ってよかったと思ってる。今でも」
新葉はそれ以上聞かなかった。
しばらくして、片桐が言う。
「あ」
窓の外に月が見えた。
丸くて、大きくて、白かった。
満月だった。
みんなが窓を見る。
月が少しずつ昇っていくのをじっと見つめた。
廊下の窓から、月の光が差し込んできた。
じわじわと、突き当たりの壁を照らしていく。
新葉は鍵を握った。
月の光が壁をすっかり照らした瞬間だった。
扉があった。
誰も何も言わなかった。
確かにそこにある。
古くて、木でできた扉だった。
絵の中の扉と同じだった。
下村が小声で言う。
「ある」
大沢が小声で言う。
「ほんとにある」
高部が言う。
「あったね」
大矢が言う。
「あった」
蔵本が言う。
「ほんまにあった」
片桐が言う。
「すごい」
佐倉が静かに言う。
「あった」
桜子は何も言わなかった。
ただ扉をじっと見ていた。
鶴田先生が言う。
「満月だったんだ」
小さな声だった。
自分に言い聞かせるみたいに。
新葉は鶴田先生を見る。
鶴田先生は扉を見ていた。
懐かしそうな顔をしていた。
「開けてみる?」
片桐が言う。
みんなが新葉を見た。
新葉は鍵を見る。
扉を見る。
深呼吸する。
「開けてみる」
扉の前に立つ。
鍵を差し込む。
回す。
かちり、と音がした。
扉が開いた。
中に入ると、普通の教室だった。
机が並んでいる。
黒板がある。
窓がある。
どこにでもある、普通の教室だった。
誰も何も言わなかった。
月の光が窓から差し込んでいた。
教室全体が、白く照らされていた。
埃っぽい匂いがした。
長い間、誰も来ていなかったかのよう。
大沢が言う。
「普通の教室だ」
「うん」
下村が言う。
「でもなんか違う感じがする」
「うん」
高部が言う。
「空気が違う」
誰かが窓の外を見る。
満月が見えた。
新葉は黒板を見た。
何も書いていない。
でも月の光が黒板を照らすと、うっすらと何かが浮かび上がってきた。
目を凝らして読んでみる。
こんな文字だった。
『ここにいていいよ』
新葉は動けなかった。
一瞬で目が熱くなった。
ここにいていい?
ここってどこなの?
誰が書いたの?
私に言ってるの?
たくさん聞きたいことがあふれてくる。
でも、それを追い越すスピードで、涙があふれてきた。
何でなのかわからない。
でも、止まらなかった。
大矢が言う。
「新葉?」
答えられなかった。
大沢が隣に来る。
「どうしたの?」
答えられなかった。
下村が言う。
「何かあるの?」
答えられなかった。
ただ泣いていた。
声が出てこなかった。
みんな黙った。
誰も何も言わなかった。
月明かりが教室を照らしていた。
しばらくして高部がそっと隣に立つ。
大矢も反対側に立つ。
二人とも何も言わなかった。
新葉はしばらく泣いていた。
泣きながら黒板を見ていた。
ここにいていいよ。
その言葉がずっとそこにあった。
やがて涙が少し落ち着いてきた。
大沢が言う。
「何か書いてあるの?」
大矢も言う。
「新葉には何か見えてるの?」
みんなには見えないのだろうか。
これは私への言葉?
新葉は少し間を置いてから言う。
「ここにいていいよ、って」
誰も何も言わなかった。
しばらく静かに、みんなが新葉を見つめていた。
まだ泣き続ける新葉の肩に手を乗せて、下村が言う。
「いていいよ」
「うん」
「最初からいていいよ」
大沢が笑いながら言う。
「帰宅部でいつもぼーっとしてても」
新葉が少し笑う。
「うん」
大矢が言う。
「いていいじゃん、ずっと」
「うん」
高部も言う。
「私も、自分がふわふわしてるって言ったけど」
「うん」
「それでもここにいるのは嫌じゃない」
新葉が顔を上げる。
みんながそこにいた。
月明かりの中に、みんながいた。
新葉はもう一度黒板を見る。
ここにいていいよ。
まだそこにあった。
鶴田先生が静かに言う。
「高校の時に私が見た言葉は、少し違ってた」
みんなが鶴田先生を見る。
「違う言葉?」
「うん。でもその時はよくわからなくて」
「今はわかりますか?」
鶴田先生が黒板を見る。
今夜は何も見えないのかもしれない。
でも鶴田先生はずっと黒板を見ていた。
「わかる気がする」
少し間が空く。
「あなたが教えてあげて、っていう意味だったのかもしれない」
「誰に教えるんですか?」
鶴田先生が新葉を見る。
「次の誰かに」
新葉は鍵を見る。
桜子が静かに言う。
「私には何も見えなかった」
「うん」
「でも」
桜子がそのまま黒板を見つめている。
「なんか、よかった」
新葉が桜子を見る。
桜子はまだ黒板を見ていた。
クールな顔のまま、でも目が少し赤かった。
部屋から出た。
廊下に十人が並んだ。
振り返ると、扉はもうなかった。
ただの壁だった。
しばらく誰も何も言わなかった。
月明かりが廊下を照らしている。
片桐が言う。
「なんか、お腹空いた」
みんなが笑った。
「急にそれ?」
「だって緊張してたから」
「私も空いた」
大沢が言う。
「ファミレス行こうよ」
「今から?」
「行こうよ」
下村が言う。
「先生も来ますか?」
鶴田先生が少し笑う。
「私はいいよ」
「えー来てくださいよ」
「あなたたちだけで行って」
片桐が言う。
「先生、今日ありがとうございました」
「こっちこそ」
鶴田先生が言う。
「満月だったんだね」
「はい」
「教えてくれてありがとう」
新葉が言う。
「先生が高校の時に部屋に入ってくれてたから私たちも入れたと思います」
鶴田先生が少し驚いた顔をする。
「そうかな」
「そう思います」
鶴田先生はしばらく黙っていた。
「そうだといいな」
また少し間が空く。
鶴田先生が廊下を見る。
「じゃあ私は行くね」
「はい」
「また明日」
「はい」
鶴田先生が廊下を歩いていく。
その背中を十人で見ていた。
蔵本が言う。
「いい先生やな」
「うん」
桜子が言う。
珍しく、すぐに答えた。
片桐が言う。
「行こうか」
「行こう」
十人で廊下を歩き始めた。
たわいもない話が始まった。
大沢が言う。
「私ハンバーグ食べたい」
「ハンバーグ?」
「なんか急にハンバーグの気分」
「さくちゃんみたい」
下村が言う。
「私はパスタかな」
「何パスタ?」
「カルボナーラ」
「重くない?」
「いいじゃん」
高部が言う。
「私はドリンクバーだけでいいかな」
「えー食べなよ」
「お腹空いてないから」
大矢が言う。
「食べた方がいい」
「なんで」
「今日いろいろあったから」
高部が少し笑う。
「大矢らしい理由」
みんなが笑う。
昇降口に向かいながら新葉はポケットに手を入れた。
鍵を確認しようと思って。
ない。
もう一度確認する。
ない。
「あれ?」
大矢が言う。
「どうしたの?」
「鍵がない」
みんなが足を止める。
「え?」
「ポケットにない」
「部屋に落としてきたんじゃない?」
振り返る。
廊下の突き当たり。
ただの壁だった。
扉はない。
部屋もない。
新葉はしばらく壁を見ていた。
大沢が言う。
「なくなっちゃったね」
「うん」
下村が言う。
「どこ行ったんだろう」
「わからない」
新葉はポケットを確認する。
やっぱりない。
でも、悲しくはなかった。
これでいいのかもしれないと思った。
片桐が言う。
「また誰かのところに行ったのかもね」
「そうかもしれない」
蔵本が言う。
「次の子のところに」
「うん」
桜子が言う。
「そうだといいね」
新葉はもう一度壁を見た。
満月の光が壁を照らしていた。
ただの壁だった。
「行こう」
大矢が言う。
「うん」
十人で昇降口に向かった。
ファミレスに着いた。
この前と同じ窓際の大きなテーブルに座る。
ドリンクバーを取りに行く。
大沢がハンバーグを注文する。
下村がカルボナーラを注文する。
高部は結局パフェを注文した。
「食べるんじゃん」
「なんか気づいたら注文してた」
みんなが笑う。
しばらく他愛もない話をしていた。
片桐が言う。
「今日のこと、SNSに載せるのはダメだよねえ」
「絶対ダメ」
桜子が即座に言う。
「だよね」
「秘密の部屋なんだから秘密でしょ」
大沢が言う。
「秘密の部屋だから秘密、か」
「当たり前じゃん」
下村が言う。
「でも誰かに言いたくなるよね」
「言いたい」
「めちゃくちゃ言いたい」
片桐が言う。
「でも言わない」
「言わない」
蔵本が言う。
「言ったら次の子が自分で見つける楽しみがなくなるやん」
「そうだね」
大矢が言う。
「私たちも自分で見つけたから良かったんだと思う」
「うん」
高部が控えめに言う。
「でも学校新聞には載せていいんじゃない?」
みんなが高部を見る。
「どういうこと」
「過去の人たちも学校新聞に書いてたじゃん」
「あ」
佐倉が言う。
「それが次の世代へのヒントになってた」
「そういうことか」
片桐が言う。
「じゃあ私たちも書く?」
「書こうよ」
「何て書く?」
「放課後に三年生の廊下を歩いていたら、突き当たりに見たことない扉があった、とか」
「それ過去の記事と一緒じゃん」
みんなが笑う。
蔵本が言う。
「日付だけ変えて同じこと書けばいいんちゃう」
「それでいいのかな」
「でも実際そうやったし」
「まあそうか」
桜子が言う。
「細かいことは書かない方がいい」
「うん」
「満月とか鍵とか」
「書かない方がいいね」
「自分で気づいた方がいいから」
大沢が言う。
「私たちみたいに」
「うん」
「新聞部に持ち込もう」
「さっそく明日」
「早っ」
みんなで笑う。
下村が言う。
「でも本当に良かったね」
「うん」
「見つかって」
「うん」
片桐が言う。
「びしょ濡れで歩き回ったのも」
「屋上で叫んだのも」
「お供え物置いたのも」
「蛇語で開けようとしたのも」
みんなが笑う。
佐倉が静かに言う。
「全部必要だったのかもしれない」
「そうかもね」
蔵本が言う。
「楽しかったしな」
「楽しかった」
「めちゃくちゃ楽しかった」
新葉はこの一か月を思い出していた。
楽しかった。
確かに楽しかった。
でもそれだけじゃなかった。
こういう時間が、自分の居場所なのかもしれない。
これからも。
大矢が言う。
「新葉」
「うん」
「さっき泣いてたね」
「うん」
「なんで泣いたの?」
新葉は少し考える。
「わかんない」
「わかんないの?」
「うまく言えないけど」
少し間が空く。
「ここにいていいって言われたのが、嬉しかったのかな」
大矢が言う。
「いていいよ、ずっと」
「うん」
大沢が言う。
「私たちもいるし」
「うん」
また、涙が少し出た。
今度はうれしい涙だ。
桜子が言う。
「新葉」
「うん」
「帰ろうか」
「うん」
桜子がそれだけ言った。
外に出ると、満月が見えた。
大きくて、白くて、丸かった。
十人で空を見上げた。
誰も何も言わなかった。
しばらくそのまま月を見ていた。
やがてそれぞれの方向に帰っていった。
第十九章 十月十日
三年生の廊下を歩く。
懐かしかった。
でも懐かしいというより、ずっとここにいた気がした。
教育実習が始まって一か月以上が経った。
担当クラスの生徒たちは素直で、授業はなんとかなっている。
でも廊下を歩くたびに、あの頃のことがよみがえる。
突き当たりの壁が見える。
あの絵がある。
昔から飾ってあった絵だ。
満月と扉と鍵が描かれている。
高校の時も見たことはあったけど、そこに答えがあるとは気づかなかった。
満月だったんだ。
あの頃、鍵を拾った。
体育館のベンチのそばに落ちていた。
古くて、装飾がある鍵だった。
誰かに言おうと思ったけど、なんとなく言えなかった。
同じクラスに、片桐理穂という子がいた。
チア部で、いつも明るくて、よく笑う子だった。
特別仲が良かったわけじゃないけれど、みんなと分け隔てなく接する理穂に勝手に好感を持っていた。
理穂はクラスで秘密の部屋の話をしていた。
「ねえねえ、秘密の部屋って知ってる?」
ある日、理穂が教室で声を上げた。
「屋上で大声で叫べばいいんじゃないかな」
「根拠は?」
誰かが聞いた。
「なんとなく。それっぽくない?」
「それっぽいだけじゃん」
「でもやってみようよ」
クラスが少し盛り上がった。
鶴田は離れた席で黙って聞いていた。
ポケットの中の鍵を握りながら。
放課後、一人で屋上に行った。
理穂が言ってたことが頭から離れなかったから。
違うと思っていたけど、試してみたかった。
この鍵は、きっと秘密の部屋の鍵だ。
自分が見つけなきゃいけない。
確証も手掛かりも何もないのに、使命感だけがあった。
誰もいないことを確認してから、小さく叫ぶ。
「秘密の部屋」
自分の声が空に消えていく。
「開け、ゴマ」
何も起きなかった。
当たり前だけど。
恥ずかしかった。
誰にも言えなかった。
それから一人でいろいろと試した。
廊下を特定のリズムで歩いてみた。
鍵を握りしめて目を閉じて祈ってみた。
映画や小説に出てくる扉を開ける言葉を唱えてみた。
どれも何も起きなかった。
一人でだから、どれも恥ずかしくて誰にも言えなかった。
三年生の秋だった。
受験が近づいてきた頃。
進路を決めなければならなかった。
でも何がしたいのかわからなかった。
ここにいていいのかもわからなかった。
自分の居場所がどこなのか、ずっとわからないままだった。
ある夜、忘れ物を取りに教室に戻った。
鍵をポケットに入れたまま。
ふと廊下の先を見ると扉があった。
一瞬、見間違いかと思った。
でも確かにある。
古くて、木でできた扉だった。
何の迷いもなく、すぐさま鍵を差し込んだ。
回した。
かちり、と音がした。
扉が開いた。
ゆっくり入ると、中は普通の教室だった。
特に変わったところはないなと思っていたら、月の光が差し込んだ黒板に、文字が浮かび上がっていた。
『あなたがみんなをつないで』
自然と涙があふれた。
誰が書いたのかわからない。
でも、その言葉は自分に向けられている気がした。
ずっと一人だった。
鍵を拾ったことも、試したことも、誰にも言えなかった。
言えるような話じゃないと思っていたし、それが言えるような友達もいなかった。
それでも一人でやり続けていた自分を、誰かが見てくれていた気がした。
あなたが、と言われた気がした。
一人で抱え込んでいた自分に、初めて役割が与えられた気がした。
翌朝、誰にも言わなかった。
理穂が教室で相変わらず秘密の部屋の話をしていた。
「やっぱり屋上で叫ぶんじゃないかな」
「昨日試したけど何も起きなかったよ」
「じゃあ別の方法かな」
鶴田は黙って聞いていた。
言えなかった。
いや、言わなくていい。
自分で見つけた方がいいから。
つなぐ、ということを考えた。
何をつなぐのかはわからなかった。
でもなんとなく、教師になろうと思った。
そうなるような気がした。
教育実習二日目。
一年生の女の子が鍵を拾った。
松坂新葉という名前だと、担任から聞いた。
おっとりした子だった。
帰宅部で、放課後によくベンチに座っている。
急がなくていい。
自分で辿り着いた方が、ずっといいから。
でも少しだけ、背中を押してあげようかなと思った。
第二十章 ずっと
鍵が戻ってきた。
温かかった。
いろんな人の温度が染みついている。
びしょ濡れになった子の温度。
屋上で叫んだ子の温度。
泣いた子の温度。
笑った子の温度。
みんな、よく頑張った。
廊下は静かだ。
月が少しずつ傾いていく。
また新月になって、また満月になる。
それを何度も繰り返してきた。
これからも繰り返す。
次はどんな子が来るだろう。
どんな顔をしているだろう。
急がなくていい。
私はずっとここにいる。
また誰かを、待っている。
エピローグ 数年後
金木犀の匂いがした。
三年生の廊下を歩く。
懐かしかった。
あの頃と同じ廊下。
同じ窓。
同じ壁。
突き当たりに、あの絵がある。
鍵と扉と満月が描かれた絵。
教育実習の初日。
新葉がホームルームを終えて廊下に出ると、一人の生徒が声をかけてきた。
おっとりした雰囲気の子だった。
少し眠そうな目をしていた。
「先生、少しいいですか」
「どうしたの?」
「これ、体育館で拾ったんですけど」
手のひらの上に、鍵があった。
細くて、古びた鍵だった。
でも錆びていない。
装飾がある。
新葉は少し間を置いた。
「どこで拾ったの?」
「体育館のベンチのそばで」
「そっか」
新葉は鍵を見る。
懐かしかった。
温かかった。
生徒が言う。
「なんか、捨てられなくて」
「そうだね」
新葉が言う。
「捨てなくていいよ」
「え?」
新葉は少し笑う。
「持っていていいよ」
生徒が不思議そうな顔をする。
「どういうことですか?」
「自分で調べてみて」
「調べるって、何を?」
新葉はそれ以上言わなかった。
鶴田先生と同じだ、と思いながら。
廊下の突き当たりに目をやる。
あの絵がある。
鍵と扉と満月。
空を見上げると、昼間の月が薄く見えた。
もうすぐ満月か。
秋の光が廊下に差し込んでいた。
完
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