
『秘密の部屋』 前編
ぼんやりと日々を過ごしていた高校一年生の松坂新葉は、ある日、体育館で古い鍵を拾う。
学校に伝わる「秘密の部屋」の伝説を知った新葉は、友人たちとともにその謎を調べ始める。
やがて姉クラスの生徒たちも巻き込んで、九人の高校生が秋の放課後を駆け回る。
びしょ濡れで廊下を歩き回り、屋上で叫び、卒業文集をめくる。
それぞれが自分の居場所を探しながら、仲間と一緒に大切な時間を重ねていく。
その鍵は、いったい何を開けるのだろう。
秘密の部屋
またこの日が来た。
廊下に誰かの足音がする。
今度はどんな子だろう。
急がなくていい。
私はずっとここにいる。
第一章 九月二日
放課後、よくチアの練習をぼんやり見ている。
音楽が流れて、掛け声が響いて、ポンポンが空気を切る音がする。
松坂新葉と大矢令奈は、体育館の隅のベンチに並んで座っている。
「下村、うまくなったよね」
大矢が言う。
「そう?」
「うん。最初と全然違う」
「大矢って、なんでそういうのわかるの?」
「え、見てればわかるじゃん」
「わかんない」
「新葉はぼーっとしすぎ」
「ぼーっとしてない」
「してる」
少し間が空く。
「ねえ、今日のお昼何だった?」
「急に。忘れた」
「カレーでしょ。カレー」
「あ、そうだ。美味しかった」
「覚えてないのに美味しかったってわかるの?」
「食べた時は覚えてたから」
「いや、弁当だったしカレーなんて食べてなかったでしょ」
大矢が笑う。
「やっぱりぼーっとしてるじゃん」
新葉も笑う。
確かにカレーは食べていない。
風が体育館の端まで届いてくる。
残暑がきびしいけど、ここは涼しい。
少しだけ、眠くなる。
「夏休みなんてあっという間だね」
「あっという間だね」
「なんでだろうね」
「わかんないね」
またしばらくチアを眺める。
「ねえ、前から思ってたけど、大矢って部活入らなくてよかったの?」
「よかったよ。めんどくさいし」
「めんどくさいの?運動だってできるじゃん」
「毎日来なきゃいけないじゃん」
「それはそうだけど」
「新葉は?」
「私も別に」
「じゃあいいじゃん」
大矢はあっさりしている。
新葉には、そのあっさりさがよくわからない。
めんどくさいから、というだけで、それ以上何も考えていない。
大矢はいつもそうだ。
悩む前に答えが出ている。
チアの練習が続いている。
みんなが同じ方向を向いて、同じタイミングで動いている。
下村ひよりが列の端で笑いながら踊っている。
わかりやすく楽しそうだ。
居場所がある人って、ああいう顔をするんだろうな。
そう思うけど、声には出さない。
「新葉、考え事してる」
「してない」
「してる顔」
「してない顔」
「同じ顔じゃん」
「そう?」
「うん」
大矢はそれ以上聞かない。
新葉も、それ以上言わない。
しばらく黙って練習を見ていた。
音楽が止まる。
下村が水を飲んでいる。
先輩らしい人が何か指示を出している。
またすぐに音楽が始まる。
ふと、足元に目がいった。
ベンチの脚のそばに、何かが落ちている。
拾い上げると、思ったより重かった。
古びた鍵だった。
「なにそれ?」
大矢が覗き込む。
「ここに落ちてた」
「かわいくない?」
「そう?」
「こういう装飾ついてるの、あんまり見ないじゃん」
「確かに。アンティークっぽい」
「どこの鍵だろう」
「知らない」
大矢が指でつつく。
「落とし物かな」
「さあ」
「でも持っときたいよね」
「だよね」
新葉はもう一度鍵を見る。
古い。
でも、錆びていない。
誰かが忘れていったのか。
「持って帰るの?」
「どうしよう」
「てか、さすがに落とし物なんだから職員室に届けようか」
「うん」
なぜか足が動かない。
落とし物だから届けないといけない。
大矢の言う通り、それはわかっている。
でも、まだ持っておきたい。
練習がまた始まる。
ポンポンが空気を切る音がする。
新葉は鍵を握ったまま、チアの練習をじっと眺めている。
しばらくして、練習が終わった。
下村が汗を拭きながらこちらに走ってくる。
「おーい」
「お疲れ」
大矢が言う。
「見てた?」
「見てた」
「どうだった?」
「うまくなってた」
「ほんと?やった」
「最初の頃と全然違う」
「大矢にそう言われると嬉しいな」
「なんで?」
「なんか、説得力ある」
「私、チア全然わかんないけど」
「だから」
下村が笑う。
大矢も笑う。
新葉もよくわからないまま笑う。
下村はペットボトルの水を半分くらい一気に飲んだ。
「暑い」
「外よりましじゃない?」
「全然ましじゃない。体育館の方が暑い」
「そうなの?」
「新葉、運動しないからわかんないんだよ」
「そうかも」
「今度一緒にやる?」
「やらない」
「即答」
「向いてない」
「やってみなきゃわかんないじゃん」
「わかる」
下村が笑う。
しばらく三人で黙って座っていた。
体育館の外から、他の部活の声が聞こえる。
風が入ってくる。
何気なく下村が新葉の手元を見た。
「なにそれ?」
「拾った」
「鍵?」
「うん」
「きれいな鍵じゃん」
下村がしゃがんで覗き込む。
少し間があった。
「ねえ、この学校って秘密の部屋の伝説あるよね」
「え?」
「なんか昔からあるってやつ」
大矢が首をかしげる。
「知らない」
「新葉は?」
鍵を見る。
「聞いたことあったかな。よく知らない」
「知らないの?」
下村が膝を叩く。
「秘密の部屋があるって話」
「どこにあるの?」
「それがわかんないんだよね」
「わかんないの?」
「だから秘密の部屋なんじゃん」
大矢があっさり言う。
「そりゃそうか」
下村がペットボトルを持ち直す。
「これ、秘密の部屋の鍵だったりしない?」
「どうかな」
新葉はまた鍵を見る。
「なんか古いし」
「古いところがそれっぽくない?」
「それっぽいけど」
「調べてみようよ」
「どうやって?」
「ネットで検索でしょ」
「こんな在校生が知らないような学校の伝説なんて載ってるかな?」
「知らない先輩に聞くとか」
「知ってる先輩に聞けばいいじゃん」
「そっか」
少し間が空く。
「まあ、いっか」
大矢が言う。
「いっかって」
「今日はもう遅いし」
下村が空を見る。
「確かに」
「続きは明日」
「明日も考えるの?」
「考えるでしょ」
下村が笑う。
三人で体育館を出る。
外はまだ明るかった。
新葉は鍵をポケットにしまう。
職員室には届けなかった。
秘密の部屋の鍵が自分の手元にある。
いや、まだ秘密の部屋の鍵と決まったわけではない。
そもそも秘密の部屋が何なのかわからない。
でも、ぼんやりと過ごしている日々に、この鍵のきれいな装飾と同じように何か素敵な彩りが加えられたら。
そう思ったら、まだ届ける気になれなかった。
第二章 九月三日
翌日、昼休みだった。
それぞれ昼食を持って、三人でいつもの場所に座る。
渡り廊下の端。
風が通る。
「うわ、外れた」
下村がパンの袋を開けながら言う。
「何が?」
「シール。当たり三枚集めると消しゴムもらえるやつ」
「消しゴム要らなくない?」
「要らないけど欲しい」
「どういうこと?」
「集めたいじゃん」
大矢がきっぱりと言う。
「私は要らない」
「冷たい」
「消しゴムはもうある」
「そういう話じゃなくて」
「てか、パンの当たりが消しゴムってどういうこと?」
「そこはいいじゃん」
下村が笑う。
新葉も弁当をつつきながら空を見る。
雲が流れている。
今日は体育があった。
着替えが面倒だった。
そんなことを、なんとなく思い出す。
「新葉、体育楽しかったね」
大矢が聞く。
「普通」
「え、バレー楽しかったじゃん」
「うん」
「最後のサーブ惜しかったよね」
「ボール触ったのサーブの時だけ」
「進歩じゃん」
「先生にも言われた」
「素直に喜べばいいじゃん」
「喜んでる」
「喜んでる顔じゃない」
「だって、サーブなんて順番が来たらみんな打つじゃん」
下村が笑う。
「新葉はいつもその顔だもんね」
「どの顔?」
「なんか遠いとこ見てる顔」
「見てない」
「見てるって」
風が吹く。
下村の髪が揺れる。
「そういえば」
下村が急に言う。
「なに?」
「昨日の鍵、まだ持ってる?」
ポケットを触る。
ある。
「持ってる」
「やっぱり」
「なんで?」
「なんとなく手放さないだろうなと思って」
大矢が覗き込む。
「見せて」
鍵を出す。
三人で眺める。
「やっぱり古いよね」
「うん」
「どこの鍵だろう」
「わかんない」
「落とした人困ってないかな」
「困ってるって人がいたら返せばいいじゃん」
下村が鍵を指でつつく。
「ほんとに秘密の部屋の鍵だったりして」
「昨日もそれ言ってた」
「だって気になるじゃん」
大矢がパンを食べながら言う。
「誰かに聞けばいいじゃん」
「誰に?って昨日もそんな話したし」
「卒業生とか」
「卒業生なんて知り合いいるかな」
少し間が空く。
「あ」
下村が顔を上げる。
「鶴田先生、卒業生じゃなかったっけ?」
新葉は鍵を見る。
「そうだっけ?」
「なんか言ってた気がする」
大矢が言う。
「教育実習生って普通母校に来るでしょ」
「聞けばいいじゃん」
「急に聞きに行くの?」
「急じゃないじゃん。鍵拾ったんだから」
「私たちにとっては急じゃないけど」
下村が立ち上がる。
「放課後行ってみようよ」
「今日?」
「今日」
「ひよりん部活は?」
「職員室に呼ばれたって言えば少しならいいから」
鍵を握る。
なんとなく、温かい気がした。
放課後、三人で職員室に向かった。
廊下は部活に向かう生徒でざわざわしている。
下村だけ少し早足だった。
「鶴田先生ってうちの卒業生って感じするよね」
下村が言う。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて自己紹介の時そう言ってたじゃん」
「そうだっけ」
下村が笑う。
新葉は鍵をポケットの中で握る。
「聞いてみればわかるか」
「そうそう」
職員室の前に着く。
下村がためらいなくノックする。
「失礼しまーす」
中に入ると、何人かの先生が机に向かっていた。
鶴田先生は窓際の席にいた。
こちらの視線に気づいて顔を上げる。
「どうしたの、三人で」
もう顔を覚えていてくれたようだ。
「あの、少しいいですか?」
下村が半歩前に出る。
「これ、体育館で拾ったんですけど」
後ろから新葉が鍵を差し出す。
鶴田先生は鍵を見た。
一瞬だけ、表情が変わった気がした。
でもすぐに戻った。
「古い鍵ね」
「先生、この学校の卒業生ですよね?」
「そうだけど」
「この鍵、心当たりないですか?」
鶴田先生は鍵をもう一度見る。
少し間があった。
「職員室の外で話しましょうか」
中庭のベンチに四人で座った。
鶴田先生は鍵を手のひらの上に乗せて、しばらく眺めていた。
「懐かしいな」
小さく言った。
「知ってるんですか?」
下村が前のめりになる。
「知ってる、というか」
鶴田先生は少し考えてから言う。
「私が在学中にも、この鍵の話があった」
「やっぱり」
「どんな話ですか?」
下村がさらに前のめりになる。
大矢は静かに聞いている。
新葉は鍵を見ている。
「秘密の部屋の話、知ってる?」
三人で顔を見合わせる。
「聞いたことはあります」
「私の時もあった。ずっと昔からある話らしくて」
「先生も気になったんですか?」
鶴田先生は少し笑う。
「気になったよ」
「調べたんですか?」
「調べた」
「どうやって?」
「いろいろ」
「いろいろって」
下村がじれったそうにする。
鶴田先生は少し笑ったまま答えない。
「部屋、見つけたんですか?」
下村が聞く。
鶴田先生はまた少し間を置く。
そして遠くを見ながら言う。
「見つけた」
「え」
下村が声を上げる。
大矢も少し前のめりになる。
「ほんとですか?」
「うん」
「どこにあるんですか?」
「普段は見えないんだけどね」
「見えない?」
「うん。ある時だけ現れる」
「ある時って」
「それがどういう時なのかは、私にもわからなかった」
「でも見つけたんですよね?」
「うん。たまたまかな」
「いつ頃ですか?」
「秋だったかな。冬だったかも。放課後だったのは覚えてる」
「他は覚えてないんですか?」
「何かしたのは確かなんだけど」
「何かって何ですか?」
「何で見つけられたのかはよくわからなくて」
下村がずっこける。
「えー」
「ごめんね」
「覚えてないってことですか?」
「高校の時の話だから」
「でも部屋を見つけたのは覚えてるんでしょ?」
「それははっきり覚えてる」
「じゃあそこまでのこともわかるはずじゃないですか。それに、たった数年前ですよね」
鶴田先生は少し考える顔をする。
「いろいろ試したんだけどね」
「いろいろって何ですか?」
「恥ずかしくて言えないこともある」
「恥ずかしくて言えないって何をしたんですか?」
「それは言えない」
「なんでですか?」
「恥ずかしいから」
下村がため息をつく。
大矢が静かに言う。
「雨が降ってたとか、そういうことも覚えてないんですか?」
「雨、降ってたかな」
「降ってたんですか?」
「降ってたような、降ってなかったような」
「どっちですか?」
「どっちだったかな」
下村がまたため息をつく。
「他には」
鶴田先生は少し考えているような顔をする。
「さっきも言ったように、放課後、だったかな」
「だったかな、って」
下村がまたため息をつきながら聞く。
「部屋の中には何があったんですか?」
鶴田先生は少し遠くを見る。
「それは、自分で見つけた方がいいと思う」
「教えてくれないんですか?」
「うん」
「なんでですか?」
「その方がいいから」
「その方がいいって、どういう意味ですか?」
「見ればわかるよ」
下村のため息が止まらない。
「ずるい」
「そうかもね」
鶴田先生は笑う。
新葉は思わず聞いていた。
「先生、その部屋に入ってよかったですか?」
鶴田先生が新葉をじっと見つめる。
少し間があった。
「よかったよ」
それだけ言った。
それ以上は言わなかった。
鶴田先生が立ち上がる。
「鍵、持っていていいよ。届け出ても誰も取りに来ないと思うから」
「どういうことですか?」
「さあ」
鶴田先生は笑いながら職員室に戻っていく。
三人で顔を見合わせた。
下村が鍵を指差す。
「やっぱりこれじゃん」
「かもね」
大矢が言う。
「調べてみる価値はありそう」
新葉は鍵を握る。
さっきより、少し重く感じた。
第三章 九月四日
翌日、昼休みになると、下村がすぐに言った。
「すーちゃんに聞いてみようよ」
「すーちゃん?」
「演劇部じゃん。部員多いし、何か知ってるかも」
「そういうもんかな」
「行ってみようよ。なんかあの鍵って小道具みたいだし」
大矢が聞く。
「どこにいるの?」
「知らない。探せばいるでしょ」
三人で校舎を出ると、高部澄と大沢萌は中庭のベンチにいた。
確か二人は同じ中学から来ていて仲が良い。
向かい合って弁当を食べていた。
下村がうれしそうに言う。
「ほら、すぐ見つかったじゃん」
高部が箸を止めてこちらを見る。
「どうしたの?三人で」
「ちょっと聞いてもいい?」
下村が前に出る。
「いいけど」
高部はいつもおっとりしている。
大沢がにっこりと顔を上げる。
「なになに?」
「この学校の秘密の部屋って知ってる?」
高部が少し考える。
「秘密の部屋」
「昔からある伝説らしくて」
「んー」
高部はゆっくり箸を動かしながら考えている。
大沢が身を乗り出す。
「何それ、面白そう」
「でしょ」
「秘密の部屋って何?どこにあるの?」
「それを調べてるんだけど」
大沢が高部を見る。
「すーちゃん、知ってる?」
「なんか、聞いたことあるかも」
「ほんと?」
下村が前のめりになる。
高部はゆっくり続ける。
「先輩が言ってたような気がする。なんか不思議な部屋があるって」
「どこにあるか知ってる?」
「そこまでは聞いてないかな」
「そうか」
下村が少ししょんぼりする。
大沢が新葉の手元を見る。
「それ何?」
「鍵。昨日拾った」
「超かわいい。アンティークっぽい」
「でしょ」
下村が言う。
「その部屋の鍵じゃないかって思って」
「え、やばくない?」
大沢のテンションが上がる。
「調べようよ、一緒に」
高部が箸を止める。
「私も気になる」
大沢とは対照的に落ち着いた声だった。
でも、目は少し輝いていた。
新葉は鍵を握る。
同志が五人になっていた。
「放課後、演劇部の先輩に聞いてみようか」
高部が言った。
「いいの?」
「うん。仲いい先輩いるから」
下村が手を挙げる。
「私部活あるから行けない」
大沢が手を挙げて立ち上がる。
「はい、私行く」
「書道部は?」
新葉が聞く。
「サボる」
「サボっていいの?」
「だって書道部だよ?」
大矢が無表情で言う。
「自己責任だけど」
「自己責任で行きまーす」
大沢が笑う。
下村がしょんぼりする。
「いいなあ」
「明日報告するから」
「絶対してね」
「する」
「絶対だよ」
「わかってる」
昼休みが終わるチャイムが鳴った。
放課後。
演劇部の練習は体育館の隅を使っていた。
チア部も同じ体育館にいる。
「ひよりん、けっこう近くにいるじゃん」
大沢が明るく笑う。
笑顔と真顔の区別がつかないくらい、いつも笑顔でいる。
三人で入り口から覗く。
セリフの練習をしている声が聞こえる。
高部が三人に気づいて近づいてきた。
ちょっと待っててと言って、もう一度部員の輪の中に入っていく。
「すーちゃんって演劇部っぽくないよね」
大沢が小声で言う。
「なんで」
「なんかいつもおっとりしてるから」
「演劇部はおっとりしちゃいけないの?」
「そういうわけじゃないけど」
大矢が言う。
「向いてるかもよ」
「そうかな」
「落ち着いてる方が舞台映えするじゃん」
「へえ、大矢って詳しいんだね」
「詳しいとかじゃないでしょ」
しばらくして高部が戻ってくる。
先輩を一人連れていた。
二年生らしい、背の高い人だった。
「この人たちです。聞きたいことがあるって」
高部が言う。
先輩がこちらを見る。
「秘密の部屋の話?」
「知ってるんですか?」
下村のいない分、大沢が前に出る。
「まあね。一年の時に先輩から聞いた話だけど」
「どんな話ですか?」
先輩は少し考えてから言う。
「雨の日に、傘を持たずに登校すると部屋が現れるって聞いた」
四人で顔を見合わせる。
「雨の日に傘なしで?」
「そう。びしょ濡れで来ないといけないって」
大沢が吹き出す。
「びしょ濡れで?」
「そう言ってた」
「それ本当ですか」
「さあ。試したことないから」
大矢が静かに言う。
「鶴田先生から聞いた話と違いますね」
「鶴田先生?」
「教育実習の先生です。ここの卒業生で」
「ああ、そうなんだ」
先輩は少し笑う。
「伝言ゲームみたいなもんだから、少しずつ違ってきたのかもね」
「そうですよね」
「役に立てなくてごめんね」
「いえ、ありがとうございました」
先輩が練習に戻っていく。
四人で顔を見合わせた。
大沢が言う。
「びしょ濡れで登校って、どういうこと?」
「やってみる?」
高部が控えめに言う。
「雨の日に?」
「いや、さすがに」
大矢が言う。
「でもやってみないとわからないじゃん」
大沢が笑う。
びしょ濡れで登校。
新葉は心の中で繰り返す。
なんとなく、鶴田先生が恥ずかしくて言えないと言っていたのを思い出した。
第四章 九月五日
翌日の昼休み。
五人でいつもの中庭のベンチに集まった。
下村が開口一番言った。
「片桐先輩に聞いたら知ってた」
「え、どんな話だった?」
「屋上で大声で叫ぶと部屋が現れるって」
大沢が吹き出す。
「え、全然違うじゃん」
「でしょ」
「びしょ濡れで登校と屋上で大声って、どっちが本当なの?」
「わかんない」
高部が言う。
「どっちも本当じゃないかもしれない」
「えー、それは困る」
新葉は鍵を見る。
「鶴田先生が恥ずかしくて言えないって言ってたの、屋上で叫ぶことだったりして」
下村が膝を叩く。
「確かに。先生が屋上で叫んでるとこ想像できる」
「想像できる?」
大矢が淡々と言う。
みんなが笑う。
少し間が空く。
「やってみようよ」
下村が言う。
「どっちを?」
「両方」
大沢が身を乗り出す。
「賛成。やってみないとわかんないじゃん」
「でも」
高部がゆっくり言う。
「びしょ濡れで登校って、どうやってびしょ濡れになるの?」
「雨の日に傘持たないで来るんでしょ」
「雨の日って、いつ降るかわかんないじゃん」
「天気予報見ればいいじゃん」
「でも天気予報って外れることあるし」
大沢が言う。
「シャワーでびしょ濡れになって来るとか」
「それはさすがに違うんじゃない?」
「なんで?」
「雨じゃないと意味ないんじゃないかな」
「根拠は?」
「ない」
みんなが笑う。
大矢が静かに言う。
「屋上って入れるの?」
少し間が空く。
「あ」
下村が固まる。
「鍵かかってるよね、たぶん」
「そうだよね」
「開いてたりしないかな」
「開いてるわけないじゃん」
大沢が笑う。
「詰めが甘い」
「じゃあどうするの?」
「先生に開けてもらうとか」
「なんて言って?」
「えーと」
下村が考える。
「星が見たいとか」
「怪しすぎる」
「忘れ物したとか」
「どうやって屋上入ったの?って言われて終了」
高部が言う。
「もう少し情報集めた方がよくない?」
「だって情報集めても全部違うじゃん」
下村が言う。
「鶴田先生にもっと詳しく聞くとか」
大矢が言う。
「あの人、全然教えてくれないじゃん」
「もっと粘れば教えてくれるかも」
「粘っても無駄な気がするし、またはぐらかされるのやだ」
大沢が言う。
「やってみた方が早くない?」
「でも何をやればいいかわかんないじゃん」
「びしょ濡れか大声かどっちかでしょ」
「全然違うのにどっちかって言われても」
下村が頭を抱える。
黙って聞いていた新葉が聞いてきた。
「雨、いつ降るかな?」
「え?」
四人が新葉を見る。
「雨が降ったら、傘持たないで来てみようかなと思って」
少し間が空く。
大沢が笑う。
「新葉がそれ言うと思わなかった」
「なんで?」
「一番乗り気じゃなさそうだったから」
「乗り気じゃないけど」
「じゃあなんで?」
新葉は鍵を見る。
「なんとなく」
下村が立ち上がる。
「よし、雨が降ったら新葉がびしょ濡れで登校。屋上は鍵が開いたらみんなで大声で叫ぶ。これでいこう」
「びしょ濡れだけ私一人なの?」
「だって言い出したじゃん」
「なんとなくって言っただけで」
大矢が言う。
「まあ、やってみればいいじゃん」
「大矢は他人事だねぇ」
「他人事じゃないけど」
「じゃあ大矢もびしょ濡れで来る?」
「それは嫌」
みんなが笑う。
チャイムが鳴った。
夕食のあと、リビングに二人でいた。
テレビがついている。
でも誰も見ていない。
松坂桜子はソファでスマホを見ている。
新葉はテーブルに突っ伏している。
「ねえ」
「なに」
桜子はスマホから目を離さない。
「うちの学校って秘密の部屋の伝説あるの知ってる?」
少し間があった。
「何それ」
「知らない?」
「知らない」
桜子がスマホを置いてこっちを見る。
珍しい。
「どういう話?」
「昔からあるらしくて。秘密の部屋があって、ある条件を満たすと現れるって」
「条件って何?」
「それが人によって言うことが違くて」
「違う?」
「びしょ濡れで登校するとか」
桜子が少し眉をひそめる。
「それ本当に伝説?」
「一応」
「なんか違くない?」
「違うよね」
「他には?」
「片桐先輩って知ってる?」
「片桐?」
「チアの」
「ああ、片桐紗穂だったら同じクラスだけど」
「その人から聞いた話だと、屋上で大声で叫ぶって」
桜子が少し眉をひそめる。
「片桐が言ったの?」
「らしくて」
「まあ、片桐ならそう言いそう」
「わかるんだ」
「同じクラスだから」
少し間が空く。
「で、みんな言うことが違うの?」
「そう。鶴田先生から聞いた話も違って」
「鶴田先生?」
「教育実習の。うちの卒業生。でも恥ずかしくて言えないって」
桜子がまた少し眉をひそめる。
「恥ずかしくて言えない?」
「うん」
「何したの?」
「わかんない」
桜子がまたスマホを見る。
でも今度は画面を見ていないような気がした。
少し間が空く。
「で、なんでそんな話してたの?」
「これ拾ったから」
鍵を出す。
桜子が見る。
「古いね」
「でしょ」
「どこで拾ったの?」
「体育館」
桜子が手を伸ばす。
「見せて」
渡す。
桜子は鍵をしばらく眺める。
「装飾がある」
「うん」
「普通の鍵じゃないね」
「そう思って」
桜子が鍵を返す。
「秘密の部屋の鍵だと思ってるの?」
「かもって思って」
「根拠は?」
「ない」
桜子が少し笑う。
珍しい。
「新葉らしい」
「らしいって何が?」
「根拠もなく信じるとこ」
「信じてるわけじゃないけど」
「じゃあ何?」
「なんとなく」
桜子がまたスマホを見る。
少し間が空く。
テレビから誰かの笑い声がする。
「部屋、本当にあると思う?」
桜子が聞く。
新葉は少し考えてから言う。
「さあ」
「さあって」
「でも鶴田先生は見たって言ってた」
「それほんとなの?」
「わかんない」
「部屋に何があるの?」
「わかんない」
「全然わかんないじゃん。まあ、あってもなくても別にどっちでもいいけど」
「よくない」
「なんで?」
「だって気になるじゃん」
桜子がスマホを置く。
「新葉って、そういうとこあるよね」
「どういうとこ?」
「気になったら止まれないとこ」
新葉は鍵を見る。
「そうかな」
「そうだよ」
桜子がソファから立ち上がる。
「もう寝る」
「早い」
「眠いから」
桜子が部屋に向かいかけて、振り返る。
「片桐には今度聞いといてあげる」
「ありがとう」
桜子は何も言わずに部屋に戻っていく。
新葉はしばらくリビングに一人でいた。
テレビの笑い声だけが続いている。
鍵を手のひらの上に乗せてみる。
少しずつ、何かが動き出した気がする。
第五章 九月八日
昼休み。
図書委員の佐倉優子は当番だからと言って図書室に行った。
桜子が教室に一人でいると、片桐紗穂が蔵本日菜と笑いながら入ってきた。
「あ、さくちゃん」
片桐が言う。
「うん?」
「一人珍しいじゃん。ゆうどっか行ったの?」
「図書委員の当番だから」
「ふうん」
片桐が自分の席に座る。
蔵本がのんびりついてくる。
「ねえ、さくちゃん、お昼ここで食べるの?」
「そのつもりだけど」
「一緒に食べよ」
片桐が明るく言う。
断る理由もない。
「いいよ」
二人が桜子と向かい合って座る。
片桐はよく喋る。
蔵本は穏やかに相槌を打つ。
桜子はたまに答える。
「そういえば」
桜子は言った。
片桐が顔を上げる。
「この前妹から聞いたんだけど」
「妹?」
「一年の松坂新葉」
「あ、妹いるんだ」
蔵本が言う。
「似てる?」
「似てないと思う」
「そうなんや」
片桐が身を乗り出す。
「で、何を聞いたの?」
「秘密の部屋の伝説」
少し間が空く。
片桐の目が輝く。
「知ってる知ってる」
「やっぱり」
「屋上で大声で叫ぶやつでしょ」
「妹が片桐先輩がそう言ってたらしいって言ってた」
「へえ、下村に聞いたのかな。絶対それだと思うんだよね」
蔵本が言う。
「でも屋上って入れるん?」
「それが問題なんだよね」
片桐が頭を抱える。
「鍵かかってるから」
桜子は少し考える。
「あと、妹が鍵を拾ったって言ってた」
「え?」
片桐が前のめりになる。
「どんな鍵?」
「古くて装飾がある鍵」
「それじゃない?」
「屋上の鍵とは違うと思うけど」
「なんで?」
「屋上の鍵ならもっと普通の鍵でしょ」
「確かに」
蔵本が言う。
「その鍵、何の鍵なんやろ」
少し間が空く。
「秘密の部屋の鍵なのかな」
桜子がつぶやくと、片桐が急に立ち上がる。
「さくちゃん、その鍵見せてもらえない?」
「妹に聞いてみる」
「お願い」
片桐が目を輝かせている。
蔵本が笑う。
「さほって、こういうの好きやんな」
「好きだもん」
「さくちゃんは?」
蔵本が桜子を見る。
「気になる、くらいは」
「十分やん」
蔵本が笑う。
桜子も少し笑う。
昼休みが終わろうとする頃、佐倉が図書室から戻ってきた。
分厚い本を抱えている。
「何それ?」
片桐が言う。
「ハリー・ポッター」
「何巻?」
「五巻。」
「分厚っ」
蔵本が言う。
「何ページあるんやろ」
「七百ページくらい」
「正気?」
「面白いから。しかもこれまだ上巻だから」
佐倉が当たり前のように言う。
片桐が首をかしげる。
「ゆう、ハリポタ好きなの?」
「好き」
「知らなかった」
「言ってないもん」
桜子は窓の外を見ている。
片桐が思い出して言う。
「それでさ、秘密の部屋をどうやって開けるかなんだけど、その鍵があったらいいのかな?」
「また言ってる」
蔵本が言う。
「だって気になるじゃん」
佐倉が本を机に置く。
「秘密の部屋?」
「知ってる?」
「この学校の伝説でしょ」
「知ってたの?」
「うん」
「どうやって開けるか知ってる?」
佐倉が少し考える。
「蛇語で開けって言うとか?」
真面目な顔で言う。
四人が止まる。
片桐が吹き出す。
「え、何それ」
「ハリー・ポッターだと蛇語で開くから」
「蛇語って何やねん」
蔵本が柔らかくツッコむ。
「何が開くの?」
「秘密の部屋」
「ハリポタの話でしょ」
「でも試してみる価値はあるんじゃない?」
佐倉が真顔で言う。
片桐が笑いながら言う。
「蛇語ってどうやって話すの?」
「シューって言えばいいんじゃない?」
「シュー?」
「たぶん」
「たぶんって」
桜子が静かに言う。
「それは違うと思う」
「なんで?」
「蛇語は生まれつき話せる人しか話せないから」
全員が桜子を見る。
「さくちゃん、ハリポタ知ってるじゃん」
「少しだけ」
蔵本が笑う。
「少しちゃうやん」
「細かいことは覚えてない」
「十分詳しいって」
片桐が笑う。
少し間が空く。
佐倉が本を手に取る。
「でも扉を開けるのに特別な言葉が必要、というのはあり得ると思う」
「真面目に言ってる?」
「真面目に言ってる」
片桐がまた吹き出す。
蔵本が笑いながら言う。
「ゆうって、こういうキャラやったんや」
「こういうキャラって何」
「真面目に変なこと言うキャラ」
「変なことは言ってない」
桜子が静かに言う。
「特別な言葉が必要、というのは否定できないね」
佐倉が桜子を見る。
「でしょ」
片桐が頭を抱える。
「さくちゃんまで」
蔵本が笑う。
桜子はあくまでも真面目な顔で言う。
「開けゴマとかあるから」
「みんなどうかしてるわ」
「ラピュタもそうだから」
同じ日の昼休み。
新葉たちは五人でいつもの中庭のベンチに集まった。
「ていうかさ」
下村が言う。
「びしょ濡れで登校したとして、どこに部屋が現れるの?」
「それ考えてなかった」
大沢が言う。
「学校に着いたら現れるの?廊下?教室?」
「わかんない」
「わかんないの?」
高部が遠慮がちに言う。
「演劇部の先輩も、そこまでは言ってなかったし」
「鶴田先生は何か言ってた?」
大沢が新葉を見る。
「放課後って言ってた」
「放課後?」
「なんかそんな感じだったけど」
大矢が言う。
「放課後なら登校はおかしくない?」
少し間が空く。
「あ」
下村が固まる。
「確かに」
「放課後に学校来るって、部活とかじゃないと無理じゃん」
大沢が言う。
「帰宅部のうちらには一生無理じゃん」
「放課後ってことかな」
「でもびしょ濡れで登校って聞いたんだよね」
「登校はおかしいよね、放課後なら」
「じゃあびしょ濡れで放課後まで残ってるってこと?」
「それもおかしくない?」
「さすがに乾いちゃうじゃん」
みんなで顔を見合わせる。
高部が言う。
「そもそもびしょ濡れってどのくらいびしょ濡れなの?」
「どのくらいって?」
「髪までびしょびしょ?それとも服だけ?」
「考えてなかった」
大沢が笑う。
「細かいね、すーちゃん」
「大事じゃない?」
「まあ確かに」
下村が頭を抱える。
「わかんないことだらけだ」
大矢が言う。
「今は九月だし、びしょ濡れでもそんなに寒くないからまだいいけど」
「冬だったら無理だよね」
「無理」
大沢が言う。
「風邪ひく」
「でも冬の方が雨降らないから、そもそも機会がないかも」
「雪じゃダメなんだろうし」
「じゃあ今のうちにやるべきってこと?」
下村がまた前のめりになる。
「九月なら雨も多いし」
大矢が静かに言う。
「雨降ったらやるって決めたんじゃないの」
「決めたけど」
下村が空を見上げる。
「全然降らないんだよね」
「今日も晴れだもんね。秋晴れ」
大沢が空を見る。
「降りそうにない」
高部が言う。
「降ったら降ったで、びしょ濡れになるの嫌だなって思う」
「すーちゃん正直すぎる」
みんなが笑う。
新葉は空を見上げる。
幸か不幸か、雲一つない。
雨が降る気配はない。
でも、その日の六時間目が終わった時だった。
窓の外が急に暗くなった。
大沢が窓を見る。
「あ」
みんなが振り返る。
雨が降り始めていた。
下村が立ち上がる。
「降ってきた」
「ほんとだ」
「誰もちゃんと天気予報見てなかったんじゃん」
「どうする?」
みんなで顔を見合わせる。
大矢が無表情で言う。
「やるんじゃないの?ちょうど部活ない日でしょ」
「でも登校じゃないじゃん」
「鶴田先生は放課後って言ってたんでしょ」
「言ってたけど」
大沢が決意を込めて言う。
「登校説、もう捨てよう」
「捨てていいの?」
「だって放課後に登校はおかしいじゃん」
「確かに」
下村が窓を見る。
「放課後説採用ってことで」
「ノリ軽すぎない?」
高部が言う。
「でもそっちの方が自然だし」
「すーちゃんも賛成なの?」
「うん」
大矢がきっぱりと言う。
「じゃあ決まりじゃん」
下村が荷物を置く。
「びしょ濡れになって校内うろうろしてみようよ」
「どこをうろうろするの?」
「どこだろう?」
「そこから考えるの?」
大沢が笑う。
「とりあえず外出てびしょ濡れになってから考えようよ」
「行き当たりばったりすぎる」
高部が申し訳なさそうに言う。
「傘持ってきてるんだけど」
「置いていくよ」
「え?」
「置いていってびしょ濡れになるの」
「それが嫌なんだけど」
「すーちゃん、やる気あるの?」
「ある、けど」
「けど?」
「制服が濡れるの嫌だなって」
「そこは我慢して」
新葉は黙って窓の外を見ている。
雨がいよいよ強くなってきた。
「新葉はどうする?」
下村が聞く。
「やってみようかな」
「よし」
下村が拳を握る。
大矢が静かに立ち上がる。
「じゃあ行くか」
「大矢もやるの?」
「せっかくだし」
大沢が笑う。
「消極的だけど全員参加じゃん」
「消極的でも参加は参加だから」
下村が言う。
「行こう」
五人で教室を出た。
廊下の窓から、雨が見える。
高部が傘をロッカーに戻しながらため息をついた。
「制服、ちゃんと乾くかな」
「乾くって」
「そうかな」
「そうだよ」
大沢が高部の背中を押す。
「行こう行こう」
昇降口に出ると、雨の音が大きくなった。
五人で並んで外を見る。
かなり降っている。
少し間が空く。
下村が一番最初に外に出た。
すぐにびしょびしょになった。
「冷たい」
「冷たいの?」
「九月でも冷たいよ」
大沢が続いて出る。
「ほんとだ、冷たい」
大矢がため息をついてから出る。
「冷たいね」
高部が恐る恐る出る。
「つめたっ」
新葉が最後に出た。
雨が頭に当たる。
肩が濡れる。
すぐにびしょびしょになった。
五人で顔を見合わせる。
全員びしょびしょだった。
「で、どこ行く?」
大沢が言う。
髪から水が滴っている。
「とりあえず校内うろうろしてみようよ」
下村が言う。
「びしょびしょのまま校内入っていいの?」
「いいでしょ、誰もいないし」
「先生いるじゃん」
「見つからなければ」
高部が言う。
「見つかったら怒られるね」
「何に怒るの?」
「まあ怒られないようにしよう」
「方針が雑すぎる」
大矢が遮って言う。
「まあ、行ってみればわかるじゃん」
「それもそうか」
五人でびしょびしょのまま校内に戻った。
廊下に水の足跡がつく。
下村が小声で言う。
「なんか楽しくなってきた」
「楽しいの?」
「なんか冒険っぽくない?」
大沢が笑う。
「びしょびしょで廊下歩いてるだけだけどね」
「それが冒険なんだって」
新葉はびしょびしょのまま廊下を歩く。
部屋は現れない。
最初からそんな気はしてたけど。
ジャージに着替えて教室に戻った。
五人で机を寄せて座る。
髪がまだ少し湿っている。
下村がため息をつく。
「何も起きなかった」
「だね」
大沢が言う。
「どのくらいうろうろしたっけ?」
「三十分くらい」
「三十分びしょ濡れで廊下歩いて何も起きなかった」
「虚しい」
高部が低いトーンで言う。
「制服、乾くかな」
「乾くって」
「そうかな」
「今日は持って帰って乾かして」
「うん」
大矢が言う。
「びしょ濡れが条件じゃないのかも」
「じゃあ何が条件なの?」
「わかんない」
「元も子もない」
下村が机に突っ伏す。
「屋上もどうせ鍵かかってるし」
「かかってるね」
「詰んでる」
大沢が笑う。
「でもなんか楽しかったよね」
「楽しかったけど」
「びしょ濡れで廊下歩くって、なかなかできないじゃん」
「できないけど」
「したくもないけど」
下村が顔を上げる。
「それが目的じゃないんだよね」
しばらく黙る。
外はまだ雨が降っている。
窓を雨粒が伝う。
大矢が突然ぽつりと言う。
「高部って、演劇部楽しいの?」
「え?」
高部が少し驚く。
「急にどうしたの?」
「なんとなく」
高部はしばらく窓の外を見ていた。
「楽しいよ」
「そっか」
「なんかね」
少し間が空く。
「舞台の上にいる時だけ、自分らしい気がする」
誰も何も言わない。
雨の音だけがする。
大沢が静かに聞く。
「舞台の上だけ?」
「うん」
高部が続ける。
「普段はなんか、ふわふわしてる感じがして」
「ふわふわ?」
「どこにいても、ここでいいのかなって思うことがあって」
新葉は高部を見る。
「でも舞台に上がると、そういうの全部消えるんだよね」
「いいな」
下村が小さく言う。
「そう?」
「居場所があるって感じじゃん」
高部は少し考えてから言う。
「舞台の上だけだけどね」
また少し間が空く。
大沢が言う。
「私、書道好きじゃないかもしれない」
「え?」
「なんとなく続けてるだけで」
「じゃあなんで入ったの?」
「字がきれいって言われたから」
「それだけ?」
「それだけ」
大沢が笑う。
「居場所かって言われたら、そうでもない気がして」
下村が言う。
「チアは楽しいよ。でも私もさ、チア以外の自分って何だろうって思う時ある」
「どういうこと?」
「チアやってる私はわかるんだけど、それ以外の私がよくわかんなくて」
大矢が言う。
「私は別に何もない」
「何もないって?」
「特にやりたいこととか、自分とか、居場所とか、考えたことない」
「羨ましい」
「そう?」
「悩まなくていいじゃん」
「悩まないだけで、何もないんだけど」
大矢が少し笑う。
珍しい。
新葉は二人のやりとりを聞いていた。
みんないろいろ考えてるんだ。
そう思う。
声には出さない。
「新葉は?」
高部が聞く。
「え?」
「居場所、ある?」
少し考える。
雨の音がする。
「わかんない」
「わかんないの?」
「うん」
少し間が空く。
高部が少し笑う。
「まあそれでいいんじゃない」
「そうかな」
「そうだよ」
外の雨が少し弱くなった。
窓の向こうが少し明るくなった気がした。
第六章 九月九日
夜、ノックの音がした。
「入っていい?」
桜子が入ってくる。
ポカリを持っている。
「はい」
「ありがとう」
桜子はベッドの横に座る。
「熱は」
「八度三分」
「びしょ濡れで校内を歩き回ったんでしょ」
「うん」
「アホじゃん」
「うん」
桜子が少し呆れた顔をする。
でも怒ってはいない。
「どこうろうろしたの?」
「廊下とか、階段とか」
「何も起きなかった?」
「何も?」
「どうせ秘密の部屋探してたんでしょ?」
「そう。何も起きなかった」
「そっか」
桜子がポカリを指差す。
「飲んで」
飲む。
冷たくて美味しい。
「わざわざびしょ濡れになるってのが条件なら、今までもちゃんと伝わってそうじゃん」
クールな姉の言うとおりだ。
「片桐に聞いたよ」
「どうだった?」
「屋上で大声で叫ぶって自信満々に言ってた」
「知ってたんだ」
「蔵本は全然知らなかった。そんな伝説あるんやって感じで」
「蔵本さんってどんな人?」
「いつものんびりしてる。関西弁の」
「へえ」
桜子が少し間を置く。
「ゆうがさ」
「うん」
「蛇語で開けって言ってみたら?って言ってた」
新葉は少し笑う。
ゆうちゃんは家が近所で小学校から同じだ。
「蛇語?」
「ハリー・ポッターだと蛇語で開くからって」
「試したの?」
「どう試すの?」
「だよね」
しばらく二人で笑う。
「ゆうちゃん、真面目なのに変なこと言うよね」
「そういうとこある」
「面白いね」
「まあ」
桜子がまたポカリを指差す。
「もっと飲んで」
「飲んでるじゃん」
「もっと」
「はいはい」
少し間が空く。
「新葉」
「なに?」
「その鍵、本当に秘密の部屋のだと思う?」
新葉は枕元の鍵を見る。
「わかんない」
「でも捨てられないんでしょ?」
「うん」
桜子が鍵を見る。
少し間が空く。
「私も少し気になってきた」
「おねえちゃんが?」
「少しだけ」
「少しだけね」
「少しだけ」
桜子が立ち上がる。
「早く寝て」
「うん」
桜子が部屋を出る。
ドアがゆっくり閉まる。
おねえちゃんも気になってきた。
なんとなく、それが嬉しかった。
第七章 小宮奈月
またこの日が来た。
枕元に鍵がある。
今夜は誰かの部屋で眠っているらしい。
風邪を引いたのか、少し熱っぽい空気がする。
せっかくの夜だったのに。
まあ、いいか。
急がなくていい。
この日が来ると、廊下の端が少し違う顔をする。
私以外は、たぶん気づかない。
気づかなくていい。
自分で辿り着いた方が、ずっといいから。
今夜も廊下は静かだ。
誰もいない。
風だけが通る。
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