メインコンテンツへスキップ
見出し画像

藍だけが、日本を覚えていた|第9話 名前のない祈り

    少女は岩へ近づき、そっと手を置いた。
    蒼も同じように手を伸ばそうとして、止めた。

    「……触っても、ええん?」

    少女は笑った。
    「聞いたやろ。」

    「え?」

    「山に。」

    少女はそれ以上、何も言わなかった。

    聞き方なんて、
    誰も教えてくれない。

    ただ。

    山の前では、
    自然と声が小さくなる。

    それだけで、
    十分なのだと蒼は思った。

    風が吹く。
    木々がゆっくり揺れる。

    沢の音が少しだけ大きくなる。
    まるで返事を待っているようだった。

    蒼は目を閉じて、
    心の中で小さくつぶやく。

    「……失礼します。」

    そっと岩へ触れた。
    冷たい。
    そう思った。

    けれど。
    その冷たさは、すぐに消えた。

    春の土へ手を入れた時のような、
    命がまだ眠っている温もりだった。

    その温もりは、

    手のひらだけじゃなかった。

    腕へ。

    胸へ。

    呼吸へ。

    ゆっくり広がっていく。

    鼓動ではない。
    息でもない。

    それでも、
    何かがそこに生きている気がした。

    蒼は思わず目を閉じる。
    頭では分からない。

    けれど、
    手だけが、この岩を知っていた。

    まるで、
    ずっと昔にも、
    こうして誰かと手を重ねたことがあるような気がした。

    その時だった。

    少女が、小さくつぶやく。
    「覚えとるんよ。」

    蒼はゆっくり目を開ける。
    「……え?」

    少女は岩へそっと手を添えた。

    「山が。」
    「触れられたことも。」

    「祈られたことも。」
    「全部。」

    風が吹いた。
    葉が静かに鳴る。
    蒼はもう一度、岩へ目を向ける。

    祖母も。

    もっと前の人も。
    もっともっと前の人も。

    名前は残っていない。

    顔も知らない。

    それでも。
    みんな、
    同じ場所へ手を重ねてきたのだろうか。

    風が吹く。
    葉が鳴る。

    その音は、
    拍手のようにも聞こえた。

    スマホが震える。

    《土地の記憶 同期率 15%》
    《祈りを記録しました》

    記録。

    その言葉だけが、
    少しだけ機械らしかった。

    けれど。
    蒼の胸へ残ったものは、
    記録なんかじゃなかった。

    蒼は画面を見る。

    「……祈り?」
    「……私、祈ったんかな。」

    少女は首を振る。

    「ううん。」
    「思い出しただけ。」

    少女は小さく笑った。

    「昔はね。」

    少しだけ岩を撫でる。

    「もろうてばっかりやったけん。」

    蒼は首をかしげる。
    「……もろうて?」

    「水も。」
    「山も。」

    少女は笑う。

    「空気も。」
    「風も。」
    「生きる時間も。」

    少女は空を見上げた。

    「せやから。」

    少し笑う。

    「ありがとうって言うてた。」

    お願いより先に。

    感謝があった。

    それが、
    この山の祈りやった。

    蒼も同じように空を見上げる。

    願い事は、
    最後まで思い浮かばなかった。

    それでも。

    ありがとう。

    その一言だけは、
    自然と胸へ浮かんでいた。

    北の星は、
    今夜も動かなかった。

    山は何も言わない。

    けれど。
    何も言わないまま、
    受け取ってくれた気がした。

    ありがとう。

    その言葉だけは、
    何千年たっても、
    山へ届くのかもしれない。

    ◀︎ 前のお話 第8話 藍の記憶
    https://note.com/kohaku_notes/n/n45565fc66c35
    ▶︎ 次のお話 第10話 山は待っていた
    https://note.com/kohaku_notes/n/n335dea9b48a3

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     
    日本の色と、土地の記憶を物語に。 受け継いだものを、次の誰かへ。 祈りと、静かな強さをテーマに小説と作品をつくっています。

    あなたへのおすすめ